表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クロネコヤマネコ  作者: 葛飾タキ
Episode2.月光
7/286

1.月を崇め立てるわけでもなく見上げる人たち。

 陽気の心地よい三月下旬の昼下がり。春ともあり、風が吹けば寒さを思い出すこともあるが、何よりも陽射しが暖かくてぼんやりしていると眠気に誘われてしまいがちだ。


 芒原美加はいつものように、いつも通りというべきか、日課ともとれるように、「栗花落(つゆり)ビル」の五階に構えている「ネコジシ商会」へと訪れていた。


 ネコジシ商会へと訪れ、彼らの仕事の手伝いをするのが彼女の仕事なのだから、当然と言えば当然のことだろう。とはいえ、ほとんどが暇を持て余していて、どうやって暇を潰そうかと考えている内に時間を費えてしまう日々が続く。


 訪れる意味があるのかという疑問も出てきてしまう。だが、たとえ暇であれどもネコジシ商会で協力できることがないかの有無を確認した上で、“あれば協力”、“なければ待機”、これら二つが仕事なのだから愚痴をこぼしても致し方ない。それこそ、愚痴をこぼすことそのものが意味のない行動だと言われてしまう。


 頭の片隅に“閑職に回された”という考えが出てしまう。でも、自分の前は先輩刑事である折部安雄がネコジシ商会へと出向いていたのであるから、再度考えると“閑職に回された”という考えが間違いであるとも取れる。美加自身は確かに有能とは言い難いところにあるが、安雄は周りからも一目置かれている刑事だ。そんな安雄が閑職に就いたということが考えにくい。


 なら、自分が安雄のような将来有望になれるのかもしれない、と希望を抱けばいいのだろうが、どうしてもそれはないかという答えに行き詰まる。安雄にあれやこれやと魔具についての仕事を手伝わされていたからこそ、そのままここへと出向くように仕事が回されただけに過ぎないのだろう。



「――あなたは、僕を何だと思っているのですか?」



 三月の陽気とは裏腹に、未だ冬真っ盛りとも言える冷たい言葉を、百合垣和葉は何のためらいもなく言い放ってきた。その目も、言葉通りにどこか冷たい印象を受ける。


 美加はきょとんとしたまま硬直した。和葉とスチールデスクを挟んだ向かい側、いつもの自分の席とも言える場所にパイプ椅子を置いて座り、湯気の立つマグカップを両手で抱えて傾けようとしているところだ。マグカップは口に触れることもなく、コーヒーの安物ゆえかどこか薄れた香りが鼻腔をくすぐる。


 なぜに和葉がこんなにも不機嫌なのか、見当もつかない。


 和葉が素っ気ないのはいつものことなので、特に気にすることもない。だが、訳も分からずに不機嫌になられてしまうと、どう対応していいのか困ってしまう。それゆえに硬直してしまったと言えよう。


 そんな美加の態度が気に入らないらしく、和葉は言葉を紡いできた。


「僕は商人です。そのことはお分かりですよね?」


「ええ、分かっているわ、そのぐらいのこと。和葉くんがネコジシ商会の商人であることぐらい」


 至って当たり前のことを訊かれたところで、至って当たり前の答えを返すだけだ。むしろ、どうしてそのような質問をされてしまっているのか、美加は理解できていない。


「なら、なぜ僕にUFOの話なんかするのですか? 僕のことを“オカルト研究家”か何かと勘違いしているのですか?」


 美加の反応を見てさらにご立腹のようで、和葉の片眉がピクンと吊り上がっただろうか。額には今にも血管が浮き出てきそうだ。


「ええとぉ……和葉くんは変わった品物を扱う商人だから、UFOとかにも精通しているのかなって思って」


 美加はマグカップをスチールデスクへと置き、下唇に人差し指を当てつつ左斜め下を見やった。見る先に何かがあるわけではない。考えながら話をする時の癖である。


 考えたからといって、必ず答えへと導かれるわけではない。それが和葉に伝わってしまっているようで、さらに眉尻と口の端がぴくぴくと動いている。


「僕が魔具を扱う商人だからといって、オカルト研究家ではないのです。そこのところを間違えないでいただきたいのですけどね。オカルト研究家ではないので、UFOの知識なんて持ち合わせているわけがありません。

 それなのに、最近巷で噂されているUFO騒ぎの話をされて、その上、意見を聞かれても困るのです。UFOについて聞きたいのですたら、“そういった人たち”のところへと行ってください。専門外である僕のところへと来ないでください。いい迷惑です」


 和葉はツンケンとした物言いで、椅子を回して背を向けてしまう。もうこれ以上、この件についての話を一切したくない、とその背中が語っている。その姿は、黒猫が不機嫌なまでに尻を向けて尻尾を振っているかのような印象さえある。


 美加は和葉の背中を眺めたままマグカップを手にし、どうしたものかとため息をついた。


 なぜ和葉がこうも怒っているのか、全く理解できていない。ましてや、その原因が自分にあることなど全く思ってもいない。和葉が勝手に怒っているとしか認識しておらず、これがまた和葉の不機嫌をかさ増ししていることもまた理解できていない。




 和葉がなぜこんなにも不機嫌なのか。それどころか怒ってさえいるのか。


 原因は美加の暇潰し程度にした話にあった。その内容は、最近巷を騒がせている“UFO騒ぎ”についてである。


 月夜を背景に、何か不明の光が飛んでいるのを多くの人たちが目撃している。それもゴシップ誌を始めとして、ネット界隈、テレビのワイドショウなどでも「あれはUFOなのではないのか」と騒ぎを煽ってさえいる。


 平々凡々とした日常を過ごす上で、“ちょっとした刺激”という意味では、様々なメディアで取り上げるにとても扱いやすいネタとして重宝がられていた。ちょっとした“変わりネタ”として見る分には、ちょうどよかっただけに過ぎない。毎日のように芸能・政治を面白おかしく取り上げていく中で、奇異とした話というものは目立つに十分すぎるネタだった。それも、少数人数のみが目撃したと言うのであればまだしも、結構数の人たちが目撃したというのだから、一部のオタクで留まる話ではなかったのである。


 美加もまた、そういったゴシップを目にした一人である。世界の人々と何ら変わらない一人である。だからこそ、暇な時間を潰すために、茶話として和葉に話したのである。


 これをきっかけに色々と話が進んでいけばいいと安易に考えていた。美加でなくとも、何か話題をきっかけに色々と話を進められればと思うのが普通ではないだろうか。他愛のない会話なんて、とっかかりがあれば内容問わずなのだから。


 ただ結果として、話をした途端に和葉が機嫌を損ねて今に至ったということである。




 美加は腕を組んで、背中を向けてしまった和葉の機嫌を直すにはどうしたらいいのかと考えた。とはいえ、考える必要もなく結論はすぐに出ていた。


 何をしようと和葉の機嫌が早々に直ることがない、ということだ。


 和葉との付き合いはまだまだ浅いが、何度も顔を合わせていく内に、なかなか強情な性格であることを知った。それを知ることができたことで、不機嫌を直すよりもホトボリが冷めるまで待った方が、最も効率のいい判断であることも学んだ。


 なので、ここは無駄に考えることをやめ、むしろ、考えることを諦め、遣る瀬無い気持ちが込み上げてきて、うな垂れることしかできなかった。


 いつものことだ。いつもこういう結果になっている。


 でも、ここは自分が我慢すれば丸く収まるだろうから、と内心自分へと言い聞かせた。そうやってうな垂れる気持ちを少しでもいい方へと持っていけたらと考えるだけだ。そうすれば、少しは気も治まる、筈である。


 そんな美加に、クスクスと笑う声がある。その光景が面白おかしくてたまらないといった様子。


 美加は不満げに振り返れば、部屋の片隅で口元を押さえて笑いを堪えつつも笑い声が漏れてしまっている少女がいる。ヘカテがパイプ椅子に座ってこちらを見ていた。


 今までのやり取りを眺めていたのである。それも、傍観者というよりもテレビのバラエティ番組を観ているかのように、とても楽しげにしている。だからだろう、二人の間に割って入ってくることがなかった。テレビの中に入れないのと同じように、二人のやり取りに干渉しないのだ。


 そして、二人の“漫才”とも言うべきか、和葉の一方的な物言いを見ていて、美加の一方的なげんなり具合を見ていて、ついに笑いを堪えきれなくなってしまったようだ。


「もう、笑うようなことじゃないと思うのに……」


 美加は拗ねた様子でため息をつく。両手を腰に当て、首を掲げる。


 ヘカテは止まらない笑いを抑えるべく咳ばらいをする。それでも完全には抑えきれないのだろうか、頬がぴくぴくと痙攣している。


 一息つき、息を整えてからこちらを見据えてくる。その瞳に光が間接的に当たり、局所的に鮮明な青を輝かせるダークブルー。まるで透き通る海の底から太陽を見上げているかのよう。


 その瞳に心が奪われる。吸い込まれそうな感覚に襲われる。深い海へと沈んでいくかのよう。深淵へと落ちていくかのよう。呼吸することも忘れてしまいそうで――


 美加は肺の奥底から息を吐きだした。意識が遠のきそうになっていたところだったので、危なかったところだ。


「ミカは、どうしてUFOの話をしようと思ったの?」


 ヘカテの問いに、美加は考えた。しかし、美加が答えを出す時間までは与えてくれないようで、ヘカテは言葉を紡ぐ。


「ミカは、さ。UFOも魔術も幽霊も、みんな同じ類のものだと思ってるでしょ? 全部ひっくるめて、“オカルト”。だから、その一端を知るアタシたちにUFOの話をした。オカルトを知ってるんだから、その話に乗ってくれると思ったからじゃない? より話が進むなんて考えてたんじゃない? テレビや新聞で言っていることよりも、面白い話が聞けるって考えたんじゃない?

 ――違う?」


 ヘカテは人差し指を立てる。


「“マクロ”と見ているか“ミクロ”と見ているかの違いなんだよね。その見方の違いが今の状況になってるんだけど。そんなこと言われても、今一分かりにくいかな? そうだなぁ、ここはあえて別の例えにしてみようかなぁ。

 ミカは公務員だよね。そんな美加に消防職員の話をされたらどう思う? そうでなくても役所の話でもいいし、他のところの話でもいいし。意見を聞かれたら、素直に答えることができる?」


 その指をビシッと向けてくる。さあ答えてと言わんばかりだ。


「私は公務員だけど、警察官なのだから、消防職員について聞かれても困る――あれ?」


 美加は両手で口を押えた。ヘカテの話の内容で、自分が誰を相手に何の話をしていたのかをここでようやく気が付いたのである。初めからお門違いな話をペラペラと話していたということを。


 ヘカテは美加と和葉のやり取りをあえて別の例えで話したに過ぎない。UFOと魔具。警察官と消防職員。前者は“オカルト”というマクロで括られるが、それぞれをミクロで見れば全くの別物となる。後者とて、“公務員”というマクロで括られるが、ミクロで見れば全くの別物だ。


 それゆえに、どんなにマクロで括られているものを話していたとしても、ミクロで違うのだから知る由もないことを聞かれたことになり、答えようがない。


 美加が和葉とのやり取りで噛み合わないのは、初めから自分に原因があることを知り、和葉へと向き直って「ごめんなさい」と小さい声ながらも頭を下げた。


「――分かってくれれば、謝ってもらうほどのことでもありません」


 もう話したくないと語っていた筈の和葉の背中が、言葉を返してきた。話す気になってくれたのだろうか。でも、まだまだ刺々しさのある口調である。


「それに、僕も最初から言っておけばよかったですね。確かに魔具というものは、“オカルト”の一端です。そういったものに関してなら、僕はできる限りのことを答えることが可能です。

 ですが、魔具から外れた“オカルト”に関してだと、知識を持ち合わせていませんし、商売する上で必要もないので、聞かれても答えることができません」


 言葉を返してくれるようになっても、まだこちらに向き直ってくれる様子がない。


 これでは折角話をしてくれるようになったのに、これから和葉の嫌味がマシンガンのように発射されるのではないかと思えば、複雑な気分にげんなりとため息をつくことしかできない。


 ヘカテは美加がどんなに嫌味を言われようとも気にかけてくれることはない。むしろ、楽しんでいるキライがある。


 これもまた、我慢するしかないのだろう。全てが自業自得なのだから、怒れるに怒れない。


「聞いてますか、僕の話を。そんなことだから、平然と的外れな話をしてしまうんですよ。反省してください」


 手厳しい和葉の言葉に美加は体を強張らせ、苦笑いをして泣く泣く「はいぅ……」と言葉を返すだけだった。




   ◇




 時は遡って、三月中旬の“UFO騒ぎ”が始まったばかりのことだ。あれやこれやとこぞって話題にするきっかけの一端。


 空を見上げれば、宵闇が空を覆いつくしている。まだ寒さの残る時季だからなのか、静かな夜空がどこまでも澄み渡っており、望月が対となるように輝きで満ち溢れている。


 月がいるからか、星は遠慮がちで瞬く姿があまり見られない。むしろ、月を引き立てるために姿を隠しているかのようでもある。でなければ、月に輝きで勝てぬと思って、恥じらって消えてしまったかのようだ。


 街は春を手前にして「桜がいつ咲くのか」と話がなされるようになってきたが、夜ともなるとまだまだ寒い。昼は薄手の長袖でも構わないのだが、夜は上着の一枚でも羽織らなければ風邪を引きかねいない。そんな暖かさと寒さが繰り返していた。


 それでも寒さに負けないと、街は月に負けず劣らずに色とりどりの光を放っている。月明かりも星明りも必要としてない。自ら光で灯し、自ら進んでいく。そう言っているかのような、街自身が夜を歩いているかのようにも見えた。空と競い合っているかのような、彩り。


 人々もまた、そんな街の光を道標にして自分たちの歩みを進めている。空に浮かぶ突きを引き立てる星のように、街を引き立てる存在であるかのように。



 しかし、今日に限って、人々が街を引き立てるものかといえば、必ずしも頷けなかった。



 誰もが街の光に目もくれず、空を見上げているのである。星のように月を引き立たせようとでも言うのだろう。皆が一様に街の道標に目もくれず、月へと。


 月自体、いつもと何ら変わらない。金色の満月がとても綺麗だというほどのもので、満月は月に一度迎えるのだからそう珍しいことでもない。人が見上げるほどとは到底思えないのである。


 ならば、珍しさではなく単に綺麗であるからと月見をしているのか、ということになるのかもしれないが、それも違った。月見はいつやっても構わないのだろうが、人々が月見を楽しむには時季が違う。


 何よりも――。


 人々は月を見ている筈なのに、“月”そのものを見ていないのである。視界には捉えているものの、月を注視しているわけでもない。月のある方向を見ているだけに過ぎず、誰も月なんて気にしてないのが現状である。


 見ているものが月でないと言うのなら、何を見ているのかということになる。


 煌々と照る月を背景に、空を駆ける影を見ていた。それも、ただ見ているだけでなく写真なり動画なり手持ちの端末を用いて収めようとしていた。


 月を背景に飛行体がいる程度、別段どういうこともないだろう。月を背景に飛行機が飛ぶことなんて至って普通のことであるのだから、皆が皆一様に見上げるほどのものでもない筈だ。


 だが、巷で噂になりつつあるUFO話がある以上、誰もが我先にと言わんばかりに飛行体を収めようと競い合っていた。今飛んでいる物がUFOであると確かめる以前に、まずは飛行体を収めてから後でただの飛行機だったのかそれとも件のUFOだったのかを確かめればいいと思ってのことだろう。誰よりも早く、誰よりも先に噂を目にしてやろうという人々の傲慢で貪欲な視線。普段知り得ることもないものを目にしたいという渇望の視線。


 そんな人々を眼下に、飛行体は我関せずといった風貌でゆったりと飛んでいた。


「――あれって、“ただの飛行機”じゃないか?」


 誰かが言った。それも素っ気ない言い方だ。確証が持てないような言い方にも聞こえるが、UFOとは微塵にも思わない言い方だ。カメラか端末か、ズーム機能を用いて飛行体が何かを確認したということなのだろう。


 それを境に、街は一段と大きな、それもどんよりとしたため息が木霊する。残念、無念、そういった思いが空へと放たれたのである。人々の白い息が一面に、空を覆いつくそうと言わんばかりに。


 UFOと思いきや飛行機でしたという話はよくあることで、今回もその類だったようだ。でも、噂を信じている人たちにとって、そういう事実はとても耐えがたい屈辱以外の何ものでもないのかもしれない。渇望していたからこそ、違ったという事実に対して落胆が大きいのである。


 それが全てため息として表れているようだった。


 ただ、それでもUFOであると信じ続けている人も中にはいるのか、ほとんどの人が視線を下げてしまった中でも、未だに空を仰ぎ続けている人もまばらにいた。


「あれって、昔の飛行機じゃないのか? 何で今になって飛んでいるんだ?」


 空を見上げる人の中に飛行機について詳しい人も混じっていたということか。だが、人々のため息の中にその声はかき消されてしまった。




   ◇




 月が煌々と照らされている中をそれは優雅に飛んでいた。


 夜空の中でも形状が眼下の人たちに確認されるほどなので、かなりの低空域を飛んでいたことになる。緩やかな飛行速度で、双発エンジンによる各々のプロペラが月の光を反射している。


 眼下の人たちの内、どれほどの人がこの飛行機について分かっていただろうか。それこそ、単なる飛行機としか映らない人々が多かったのではないだろうか。中には、これが半世紀以上も前に飛んでいた飛行機と同型であることに気づいた人もいるかもしれない。


 第二次世界大戦時に旧日本軍が運用していた夜間戦闘機「月光」である。


 そんな古い戦闘機が何故飛んでいるのか、何を目的として飛んでいるのか、誰も知り得ないだろう。時代に取り残されたにしても、二次大戦からどれほどの年月が経っているだろうか。


 そして、これこそがUFO騒ぎの元凶でもあった。これが元凶であることを知らない人、認めたくない人がいるからこそ、噂が絶えずに未だ広がり続けている。


 飛行機と確認できてしまっているので、航空・軍事用語における“未確認飛行物体(U・F・O)”の概念から外れてしまっているものの、その目的、所属は不明のままだ。


 そのために、月光の後ろ遥か遠方から高速で接近する光がある。近くの自衛隊基地よりスクランブルで発進された自衛隊機である。




   ◇




 夜の街のすぐ上を轟音が唸りを上げて飛んでいく。突如上空に現れた飛行体を自衛隊のレーダーが捉え、スクランブルがなされたのである。


 轟音を上げているのは邀撃機として発進した航空自衛隊のF‐15Jの二機。編隊を組んでレーダーの捉えた飛行体を目指して飛んでいく。


 街を行きかう人たちはその二機をどう見ただろうか。騒がしいと野次る人。自衛隊機が飛んでいることに喜んでいる人。状況を掴めずにただ呆然と眺めているだけの人。様々である。


 低空域を飛んでいるために、様々な窓ガラスが二機の轟音による振動でガタガタと音を鳴らしている。中には振動に耐え切れず、割れてしまった物さえある。


 そういった被害が出てきてしまったからだろう、二機へと向けて「迷惑だ!」や「もっと上を飛べ!」などと文句を叫ぶ者たちがいた。中には思想的な側面で罵倒を飛ばしている者さえる。


 その人たちをよそに、二機は飛行体が出現したとされる空域へと入った。暗闇だけで飛行体がどこにいるのか判別し難いところだが、確認できる距離まで近づいたことには違いない。


 しかし、二機は飛行体の出現ポイントを通過したにも拘らず、飛行体を目視することができない。見えるものといえば、周囲に高層建築の赤いランプ。


 他には何も光がない。もし飛行体が飛んでいれば、そのビーコンやら翼端灯やらがみえていてもおかしくない筈である。なのに、なかった。




 先頭のF‐15Jを駆る女パイロットは暗闇の中で満月と街の明かりが望めるだけの虚空を見渡した。この空域に飛行体がいる筈であるが、どこにも見当たらない。


 張り詰めた吐息。


「どういうこと? いないわよ」


 怪訝。無線へと半ば叫ぶようにして尋ねた。合わせて、再度確かめるように見渡す。焦っていては大事なことも簡単に見落とす。ここは冷静になって、しっかりと確認しなければならない。


 コックピットの有視界には、後方についてくる僚機のみで、他に飛行体どころか飛行機すらない。また、レーダーへと視線を向けても、僚機以外の反応がない。


 パイロットの表情はヘルメットのバイザーとマスクによって隠れてしまっているものの、その中では唇を噛んで悔しさを滲ませて息をつく。


『――だが、その辺り――ザッ――出現したこと――ザッ――レーダーないし、目撃情――ザザッ――から確定されて――ザー、ザッ――。目を凝ら――ザッ――てよく見ろ』


 ノイズ混じりの管制官の声が、無線を通じてパイロットの耳を劈いてくる。声が大きいわけでなく、ところどころ混じるノイズが、とても耳障りだ。


 無線機の調子が悪いのか、パイロットは訝しく。でも、無線機の調子を気にしている場合でなく、舵を切って自機を傾けていく。大きく旋回させ、上昇させた。


 しかし、一向に飛行体の姿を確認することができなかった。さらには、レーダーに飛行体を捉えることすらも叶わなかった。


 最新鋭のステルス機でも飛んでいて、たまたま自衛隊のレーダーが捉えたのだろうか。でなければ、こちらの動きを察知されて、どこかへと逃げおおせた後なのか。


 ここまで巧妙に姿を隠すことのできるステルス機というのなら、最初に自衛隊のレーダーに捉えられるような粗末なミスをするのだろうか。


 こちらの動きを察知したとして、すぐさまレーダーに捉えられないほどに姿を消すことが可能なのだろうか。別の空域まで早々に逃げおおせることが可能なのだろうか。


 パイロットは考えを巡らせる。でも、どれに対しても“否定”の答えしか出てこない。他に考えられることといえば、自機のレーダーが故障していたということになる。整備班が常に整備してくれていて安全に飛ばしてくれているのだ。それこそ仲間を疑うなんてもってのほかだ。


「視認できず。目標をロスト」


 どんなに空を見渡しても飛行体を見つけることが叶わず、どんなに考えても答えが出てくるわけでもなく、致し方なくという風に状況を伝えた。


『こちらのレーダーでも目標を失った。どうしたのだ? 相手が消えたぞ?』


「分かりません。ですが、しばらくこの空域を哨戒します」


『了解だ。こちらとしても、全力をもって捜索に当たる』


 無線機の調子が戻っている。耳を劈くノイズがなくなっている。


 鮮明な無線に、パイロットはノイズの原因は何だったのかと頭の片隅で疑問に思いつつも、ノイズを気にしないように振舞って返事をした。


 ノイズなど相手にしていられない。低空域を飛んでいたからこそ、ノイズが入りやすかっただけだと考えることもできる。街から発せられる様々な電波によってノイズが生じただけなのだと。




   ◇




 飛行体の正体が飛行機であることを知って残念そうにため息をついて去っていく人たちを尻目に、未だに飛行機を眺めている数名の目には、それこそ噂そのものを目の当たりにしたのではないだろうか。


 月を背景に飛んでいた筈の飛行機が、忽然と姿を消したのである。さも旧日本軍の幽霊でも見ていたかのように、夢でも見ていたかのように、まるでUFOでも見ていたかのように――。


 声を出すにしても、行きかう人々の足音にかき消されてしまい、誰の耳にも入らなかっただろう。いや、耳に入ったところで、「何を今さら騒いでいるのか。飛んでいるのは飛行機だろ」なんて冷笑されて終わりだろう。


 それだけ、ほとんどの人の関心は飛行機に向いていなかった。各々の赴く先へと向かっていた。いつもの街の風景として。


 しかし、直前に訪れる轟音、スクランブルの自衛隊機二機が上空を穿っていったところで、再び人々の視線が空へと上がる。「何が起きたんだ?」という疑問を引っ提げての各々の視線なのだが、誰も状況を掴めないまま、呆然の見ているのみだ。



 そんな夜の出来事を、月は静かにそれも嘲笑うかのように見下ろしていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ