一番星の下に、洋風塗壁現われり。
「糸間蓮将は死にました。九条彰は逮捕されました。なお、“指環”は警察の手に渡りました。いかがなさいますか?」
女はそう尋ねた。尋ねた先は、こちらに背を向けて座る男。
その男の前には幾何学模様が床に描かれており、男はその幾何学模様へと向けて何かを呟いている。何を呟いているのか女の耳には届いていなかったが、念仏らしきものというぐらいの認識だ。そして、何かの作業中であったことは理解している。それでも、男に言っておかなければならないと思ってのことだ。
男の不明な念仏が止まる。でも、こちらへと振り返ることはない。何かを考えているのか、しばし間を置いて「報告ありがとう」と一言だけ返し、念仏に戻った。
女としては報告のために呼び掛けたわけではない。二人の末路を報告した上で、男にどうするべきかを問いたかった。しかし、男が作業に戻ったのなら邪魔をするわけにもいかず、再度聞き直すことはしなかった。考えあってのことだろうし、女の報告を聞いていなかったわけでもない。あえて指図をするまでもないということなのだろう。
女が男の背後から動かないことを怪訝にでも思ったのだろうか、男の念仏が再び止まった。
「――君が気に病むことはない」
男はこれまたこちらに振り向くこともなく言った。
「彼らは彼らで好きにやった上でのことだ。“指環”とて、大した価値のあるものではない。この町で何が動くのかを知っておきたかった。彼らには悪いが、囮になってもらったようなものだ。安寧のための犠牲になってもらっただけだ。
彼らにとっては、囮になったことも犠牲になったことも分かっていないことだろう。いい物を手にしたと気分を良くしていたのだから。彼らはそう、きっと騙したというに違いない。“指環”を与えただけで、自らの不始末を鑑みることがないだろうから。
けれど、元々怪しげな物であることは伝えてあるし、どれほどの効果があるのかは、使ってみなければ分からない上に使用者にしか分からないものなのだから、と伝えてもある。
まあ、彼らのお蔭で、この町で動く存在があるのは確認取れている。警察が動くのは彼らの行いの結果だ。それに関しては、彼らの問題であってこちらに落ち度はない。ただ、その裏で見え隠れしている存在があるのを見ることができた。
そういう意味では、彼らに感謝をしなければならないかな。いずれは、菓子折りでも送ることにしよう。こちらの存在を知られないようにしながらであるから、本当に送れるかは知れないがね」
男か小さく笑みが漏れる。“菓子折りを送る”というのはこの男なりの冗談なのだろう。どこか陰湿めいたこの空間で言うには、あまり不釣り合いな気もする。
女の目線から見るこの空間は、オカルトそのものだ。幾何学模様に男の念仏。空間自体を薄暗くしており、如何にも怪しげに明かりが部屋の四隅に蝋燭が立てられているだけ。
でも、男のやることに文句は言わないし、男のやろうとしていることに協力することをすでに約束している。それがたとえどこか怪しい雰囲気を持っていようとも、それを用いることが必要なのだと言われれば、素直に従うのみ。
「それとですが……」
報告ついでにもう一つ言っておかなければならないと思って言いかけたが、どう言ったらよいのか悩んでしまう。言葉にするだけなら簡単であるが、それを説明しろと問われたら説明ができない。
「“彼”のことかな?」
女が何を報告しようとしているのか察しているらしい。男は小さく頷いた。
おそらく男の言う“彼”と女がこれから伝えようとしていたことは一緒なのだろうことは女自身も分かった。
もう一人、ここにはいる筈の人物が何も告げずに勝手にどこかへと出て行ってしまったのだ。それをどう伝えようか悩んでいたのである。
「“彼”なら好きにさせておいていい。こちらのやろうとしていることは伝えてあるし、それに協力してくれることも約束した。勿論、“彼”は“彼”なりに目的があって協力してくれているのだから、こちらも“彼”の目的の邪魔をするわけにはいかない。放っておいて構わないよ」
顔だけこちらに向き、女が悩ましく思っていることを払拭しようと言うのだろうか、微笑んで答えた。
◇
夕暮れとあって、辺りはだいぶ暗くなっている。空は夕焼けが次第に紫へ、黒へ、夜へと変貌していく。
弓なりの月は晴天ともあって金色の光がよく目立つ。そして、次に目立つ一番星こと金星が西の空に小さく瞬いている。どちらも西洋では女神の名を当てるだけあり、何よりも美しい。どちらも西洋の狂気の名を当てるほど、何よりも狂わしい。それだけの存在感が、そこにはあった。
それだけのものがあろうとも、夜ともなれば空は寂しくなっていく。寂しさに覆われていく。対して、街はより活気に満ち溢れていく。空と街は相対となっている。
単にそう思えるだけだろうか。
星々は常に瞬き輝いているのだから、必ずしも寂しいわけではない。それ以上に街が色様々な明かりで満たされていくのである。家や店の明かり、街灯に車など。
様々な人たちが、その明かりに導かれるようにし、誘われるようにして、家路に就き、中には酒や色欲を求めて歩いている。
その中に芒原美加はいた。
いつものように日常の一端とばかりに、毎度おなじみのネコジシ商会で百合垣和葉に嫌味を散々浴びせられ、げんなりとしていた。結果までがいつもどおりなので、そこまでが日課となってしまっているのではないのかと疑いたくもなる。
そんな美加が、背が高いのに首を垂らして歩いているものだから、いつものようなすらりとしたモデルを思わせるところがない。モデルのように見えるところが唯一の取り柄だというのに、今の姿は商談に失敗してしょげているOLとでも見られるのではないだろうか。それだけみすぼらしく見えてしまう。もしかしたら、こんな時間から幽霊が歩いているなんてことにはならないのか、と思えてしまうほどだ。
散々嫌味を言われているのにも拘らず、諦めが悪いだけなのか、仕事だからと割り切っているのか、毎日ネコジシ商会へと通い続けているのだから、ご苦労様なものである。警察官である以上公務員であるが、所轄署に努める地方公務員であるから、社畜と何ら変わりがないだけのことなのかもしれない。心身どうであれ、仕事上、通い詰めなければならないのが現実というだけのこと。
ただ、このようなみすぼらしいまでのげんなり姿にも救いはあった。
翌日に休みがあるということだ。本職の警察業務は非番を当てられている。さらに、ネコジシ商会は定休日だ。自分を束縛するものが何一つないのだ。大事件が起きて緊急招集を受けない限り、自由の身ということになる。
何ら気兼ねなしにのんびりと羽を伸ばせるということで、明日は何をして過ごそうか、と垂れていた首が次第に持ち上がっていく。今にも鼻歌でも歌いだしそうだ。表情までもがほぐれつつある。先程までのげんなり加減がどこへと行ったのか、飛んでいったのか。現金と言われてしまえばそれまでなのだろうが、人間という生き物である以上、現金なものだ。こういったことで現金にもなれないと、もしかしたら精神的にどこかが参っているか、そういう状態になれないことに至っているかではないだろうか。
休日をどうやって過ごそうかと頭の中で考えがグルグルとワルツを踊るかのように巡らせているものだから、周囲に気が回っていなかった。心晴れやかになることはいいことに違いないが、視界が狭くなってしまっているのは問題だろう。さらには聴覚も狭まっているのであれば、なおさらのこと。
美加の姿に目を惹かれる人たちが見えていなかった。その言葉が聞こえていなかった。いつもならそれでポジティブにもなれように、今回ばかりは必要ないようである。
ただいつものように「胸がない」などの言葉が上がっているにも拘らず、全くもって反応を示さない。“馬の耳に念仏”というのはまさにこのことだろうか。右から入って左へと通過していって、認識すらしていない。
何であれ、都合がいいだけのことと一言で一蹴するのだろう。
それに、嫌なことを認識しない、できない、というものは、まさに幸せなことなのだろう。嫌なことをを認識しなければ不幸だなんた考えもしないし、気にもならない。不幸を知らなければ、世の中様々なことで気に病むこともなくなる。
でも、言葉が入ってこない状況なのだから、見えている筈のものも見えているわけがなかった。
だからだ、街角に差し掛かったところで――
勢いよく誰かとぶつかってしまったのだ。出会い頭の衝突は周りに目を向けていても危険があるというのに、周りが見えていなければその危険はより顕著となる。美加はその際の勢いに負け、尻餅をついてしまった。
「スミマセン、ヨソミをしておりマシタ」
痛みに顔をしかめていれば、頭上から声がかけられたので、顔を上げた。
遥か上空から覆いかぶさってくるのではないかと錯覚させられる影。最早、“壁”ともいえる巨躯がある。二メートルを越すだろう身長に、神父服をまとい、首にロザリオを下げている。また、ロザリオが逆十字となっており、黒々とした神父服の上に灯る銀の光となってよく目立っていた。
その大きな存在に唖然としていると、巨躯が手を差し出してきたのでその手を取った。大きくがっしりとした手は、表面が少しばかしガサガサとしていて硬いのだが、温かかった。
巨躯は手を引いて、美加を易々と立たせてくれる。
「あ、あの、済みませんでした」
美加は巨躯へと頭を下げた。巨躯が謝罪してくれたといっても、浮かれて周りに気を配っていなかった自分にも責任がある。であればこそ、なおさら深く下げた。
「アァ、気にしないデ。ワタシがヨソミをしていたのが悪いのデス」
巨躯が穏やかな口調で返してくれた。どこか片言になっているのは、まだ日本語に馴染めていないのか、やはり日本語が海外からすれば難しい言語だったりするからなのか。ただ、丁寧に発音することを心掛けているのか、聞き取りにくいということはない。若干イントネーションが違っているというだけのことだ。
美加はゆっくりと顔を上げれば、目の前ににんまりと笑む巨躯の顔が見えた。少し乱れている灰色がかったオールバックの髪が周囲の光を歪に反射し、アメジストのような光を放つ双眸が美加を真っ直ぐに見据えてくる。
その目に吸い込まれてしまうような感覚が襲ってきて、思わず息を呑む。怖いのだろうか、それともまた別の感情だろうか、心を鷲掴みにしてきそうな目である。
「お怪我は、アリマセンカ?」
「え? ええ、大丈夫です。何ともないです」
「そうデスカ。それはヨカタ。では――神のお導きのあらんことを」
巨躯は胸の前で十字を切った。一つ会釈をして、美加の前からにこやかな笑みのままに去っていった。
美加は巨躯の去っていく後姿を眺め、息をついた。肩に乗っかっていた重石が取れたような感覚がある。何を感じ取っていたのだろうか、思い返しても分からなかった。
恐怖とはやっぱり違う。並々ならぬ畏怖。体の奥底から震え上がる重圧を巨躯の姿、特にあのアメジストに光る眼を見て感じた。その辺にいるような人とは違うもの。まるで人でない何かのようだ。人でないのなら何かとなるが、そこまでは表現のしようがない。人以外としか答えられない。
そのイメージがどうしても頭から離れない。
“神父”という宗教家ゆえの“人の心を巧みに操る者”としての存在感がそう思わせてくるのだろうか。それとも、巨躯ゆえの背の高さによる圧迫感がそう思わせてくるのだろうか。
とはいえ、無闇に嫌悪感を抱くわけにもいかない。首を横に振った。
気を入れ直して、再び歩き出した。巨躯のことなど心から追い払い、明日の休日をどう過ごそうかという気楽な考えを巡らせることにした。
◇
巨躯は美加から離れていくと、すぐ近くの曲がり角へと入り、通りから姿が見えなくなったところで足を止めた。建物の陰から覗くようにして、美加を見やった。
美加は浮かれた様子で歩いていて、どんどん離れていくところだ。そして、あれだと突然曲がり角に差し掛かって先程のように誰かとぶつかってしまうのもよく理解できる。でも、色々と想像して楽しんでいるようで、とても幸せそうにも見える後ろ姿だ。
「なるほど、あれが“ホムラの姫君”ですか。まさか、こんなにも簡単に出会えるとは思いも寄らなかった。“因果の渦”ですかね。運命を感じます。運命が、我が願いを成就させるために“最高の人材”を用意してくれているのですから。“ホムラの姫君”には、是非とも一役買っていただきましょうか。
ですが、今は布石を打っておかなければなりません。“ホムラの姫君”はまだ“目覚めておりませんし”し。“ホムラの血筋は力を失った”と聞いておりましたが――しかし、あの奥底に秘めている湧き上がってきそうな感覚は、間違いなく“ホムラの姫君”の力。欲しがる輩が出てくるのは頷けるというもの」
巨躯は言葉を発して、ニタリと笑った。ドイツ語のため、周りでもし誰かが巨躯の言葉を聞いたとしても、すぐさま分かるような者はいないだろう。
にんまりとしていた筈の笑みが、穏やかだった筈の笑みが、打って変わって含みのある笑みへと変わっていく。笑みが歪んだと言ってもいいだろう。美加が“人でない何か”と感じたままに。
美加から視線を外した。今はまだ放っておいてもいいと判断したためだ。後々役立ってもらうのだから、今は自由を満喫させておけばいい。後で“死ぬまで使い果たす”のだから、穏やかな日々を過ごさせておけばいい、と。
巨躯は歩き出す。
どこか後ろめたいことでもあるように、人目を憚り、人が少ない道を選んでいく。それとも、単に巨躯の神父服姿があまり目立ってしまうために、好奇の目から逃れるためということか。
ただでさえ日本人を前にすると事あることに“ガイジン”と称されてうんざりとしているのに、見た目で目立ってしまうと放っておいてくれという気持ちに駆られ、次第に人目を避けるようになっていった。
日本人という人種はつくづく似た者同士で集まり、少しでも周りと違う者がいると排除したがる集団意識を持つ――巨躯は少なくともそう解釈している。
ゆえに、自分が日本人でない、または日本人の恰好とかけ離れていることが、何よりも後ろめたい。かといって、この身を日本人にすることなどできやしないし、神父服を脱ぐつもりなど毛頭にもないことだ。
それでも人目を避けようとしてしまうのは、“好奇の目が鬱陶しいから”ということに尽きてしまうのだろう。生理的にねっとりと粘着してくる視線を受け入れられない。
ふと、足が止まった。
やや離れたところで二人の子供が泣いていて、その声が耳に入って来たのだ。
様子からして、喧嘩でもしたのだろうか。片方の子供の膝が擦りむいている。もう片方は怪我をしている様子がない。
ともなれば、喧嘩でもないということも考えられる。喧嘩をしたにしては、片方だけ怪我をしているというのもおかしな話だ。一方的なものだったとするならば、片方だけが怪我ということも考えられようが、しかし、それもまた否定。二人とも泣いているのだから、一方的に喧嘩を吹っ掛けたとは考えにくい。
どこかに両方とも泣いている理由がある筈だ。
状況を見るべく、子供たちを中心に周囲を見やった。何があるのか。何かがある筈だ。探し出せ。子供たちの向いている先に何かがある筈だ。
残骸――。
無残な姿になっていて、元が何だったのか判断がつかない。でも、それこそが子供たちの泣いている原因なのだろうと直感した。直感以外の理由はない。他に原因となるものが見当たらないのだ。
もっと周囲に目を配った。やはり、他に原因となるものがない。消去法でも、残骸が原因なのだろうと結びついた。
「ウム、ここは一つ――」
巨躯は懐へと手を忍ばせ、黒々とした巨躯の姿と対照的な黄金色に輝く物を取り出した。
それは林檎だった。
◇
鉄道走る高架下の歩行者用の小路では、人の足音が響くものの、すぐに真上を走る鉄道の音によってかき消されてしまう。また、人の通りが少ない上に橙の明かりがぼんやりと一対だけついている。
その小路を渡り歩く影が一つあるのだが、場所の雰囲気も相まって異様さがあった。
何がそう思わせるのだろうか。その影のまとう姿か。
色は橙の明かりに染まっているものの、単色のフード付きの外套をまとっている。目深にフードを被っているので顔は判断しにくい。フードで影ができてしまえばなおさらのこと。
小路を抜け、高架下に沿ってある小路を見渡してからそれは息をついた。
「日本に来ているというのは本当なのだろうか。勝手なことを言って、日本で別件の仕事をさせようとしているだけじゃないのか」
小路を離れたところに見える駅とは反対方向へと歩みだした。
街灯が少なくなり、住宅街が続く。小さな公園のそばを通り過ぎ、誰の目にも触れることなく歩み続ける。
高架下の月極と書かれた看板の駐車場のそばに今や珍しくなった電話ボックスを見つけた。電話から連絡を連想し、日本にいる間の滞在場所を確保しなければならないという考えが頭を過ぎる。
今いる場所から電車に乗って数駅のところに知り合いの部屋があるので、そこへと向かってもいいのかもしれない。しかし、しばらく顔を出していないからどんなことを言われるのかと考えれば悩ましく思えてしまう。
首元へと手を忍ばせれば、チェーンを引き出し、その先に銀色の環がかけられている。指環だ。
「何か土産を用意しておかないと、それこそ酷い目に遭わされるか」
小さく笑むとチェーンを懐へと戻した。
――張り詰めた空気が流れていった。
風が吹いたわけではない。感じ取ったと言えばいいのだろうか。日常とはかけ離れた雰囲気というものを。
高架で空半分は塞がれてしまっているが、それでも残りの半分に見える空では、光が舞い上がっていくところだ。この時季に花火を上げるにしては違う光。音もなく空へと上がっていく様を見て、奥歯を噛みしめた。
憎悪が全身を伝う。怒りが今にも噴き出しそうだ。
その光に対してあらわにする感情。
「ようやく見つけたぞ。ずっと追い続けていた。今度こそ、今度こそ――」




