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クロネコヤマネコ  作者: 葛飾タキ
Episode1.テリオンの指環
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4.山猫は黒猫に懐かれない。

 “幽霊工場の逮捕劇”から翌日の昼下がりのこと。昨日の霙混じりの雨がまるで嘘だったかのように、暖かい陽射しが降り注いでいる。寒の戻りによる名残り雪だったからなのか、陽射しはともかく風が吹くと空気が冷たく感じて寒いと言えるだろうか。


 そんな冷たい空気の中、昼食を終えた会社員たちが、折角温まった体なのに白い息を吐きながら街中を歩いている。午後の仕事へと向けて各々の職場へと戻ろうというのだ。


 その中には美加の姿もあった。昼食を終えて、彼らと同様に職場たる所轄署へと戻る――というわけではなく、ある場所へと向かっているのである。


 縞の入った黒のパンツスーツに白のブラウス。漆黒の艶やかな長い髪を垂らし、アクセントとして赤地に白の螺旋模様のついた蜻蛉玉の髪飾りをつけている。そんな姿がとても様になっているというべきか、一見、スラリとした体形がモデルを思わせる。だが、手に提げている物が「東京銘菓」と書かれた紙袋とあって、スタイリッシュさからかけ離れて挨拶回りのOL、特に保険外交員と見えなくもない。


 それでも美加に惹きつける何かがあるのだろうか。時折すれ違う人たちの話声が耳に入ってくる。


 美加は何よりも髪を自慢としている。その黒く艶やかな髪を褒められる言葉があれば、天にも昇るほどに気分がいい。それこそ、一日中ニコニコとしていられるほどに心が満たされる。


 今すれ違った二人組の女性は「綺麗な髪の人だよね」と会話をしていた。今すぐにでも抱きしめて感謝したいほどだ。髪の手入れを常日頃念入りにしてきた甲斐があったと涙したいほどだ。


 ただ、そういう言葉だけでないのが現実というもの。そのために、気分が上がったり下がったりと繰り返している。正直、周りの言葉を気にしなければいいだけじゃないのかと言われてしまうのかもしれない。それでも聞こえてしまうのだから、気になる一方である。駄目だと頭の中で分かっていても、本能的に反応してしまうのである。


 その代表と言えるものが、「随分とデカい女だな」というものだ。他には「背のわりには胸がないよな」というものもある。「タカラヅカみたい」と言われるのなら嬉しいが、「あれって男が女装してるだけなんじゃ」と言われた時は、どこに目をつけているんだと怒鳴り返したくなる。


 確かに、美加の背丈は日本女性の平均身長よりも高く、百七十後半――百八十までほんの少しとあり、よく「バスケットボールかバレーボールをやっていた経験があるのか?」と問われる。どちらの経験もなく、何をしてこんなに背が伸びたのだろうと我ながら分からないので、逆に問いたい気分にもなる。


 胸も、お世辞にも大きいと言えない。むしろ、“まな板”と揶揄されるほどに起伏の乏しい体だ。それゆえに、「スリムである」や「モデルみたい」と言われることが誉め言葉となっていた。それも大半がそういう社交辞令すら口にせず、“貧乳”を指摘してくるので泣きたくなる。セクハラだと訴えたとしても、胸もないくせにセクハラ呼ばわりするなと理不尽にも返されてしまう。


 それでも背の高さと胸のなさを合わせて、“男”と見られるのだけは勘弁してほしいところだ。体型については自覚していることだし、今更否定したところでどうにかなるものでもない。整形手術という手もあるのだろうが、それをする気にはなれない。


 しかし、いい言葉よりも悪い言葉ばかりが耳についてしまうのは、神経質になり過ぎてしまっていることの表れだろうか。ポジティブな考えだけで生きていけたらどんなに楽しいだろうか。ネガティブを考えなければどれだけ苦労しないで済むだろうか。


 とはいえ、考えたところで何の解決にもならない。結果、体の起伏のなさを呪うように感情の起伏の激しさを出していくだけだ。


 ――感情の起伏を何度繰り返しただろうか。かの目的地へと着く頃には、最早気分は下がる一方となっていた。それも、感情に合わせて目がきつくなってしまっていた。すれ違う人たちが美加を恐れて遠ざかるほどなのだから。


 色白の肌に黒く長い髪、やや俯き加減の上目遣いで暗い表情で歩いていれば、昼間だというのに怪談に出てくる女幽霊のようになってしまっている。その内、“貞子”や“お岩様”なんて渾名がつくのかもしれない。


 もう嫌だ、とため息をついてげんなりするしかないのだろうか。




 水穂市のオフィスビルの建ち並ぶ中心街から外れたところに繁華街がある。古くは花街として存在していたが、今や歴史に埋もれて影もなく、かろうじて老舗と呼ばれる小さな料亭が小ぢんまりと経営しているぐらいだろうか。他は現代に沿った飲食店や雑貨店が並んでいる。


 あとは古ぼけた雑居ビルが点々としていて、その中に古さの際立つ雑居ビルが一つ。周りが古くともバブル期以降であるものの、さらに古く高度経済成長期の真っただ中に建てられたと思しきそれは、築ウン十年と歴史的にも古さが抜きん出ていた。同じ場所に並んであるというのに、その雑居ビルだけがどうしてか世界から切り離されているように見えてしまう。時代の差異が、それこそ異世界からこの世界へと割り込んできた遺物のようだった。実に奇妙極まりないと言えるだろうか。


 外壁には「栗花落(つゆり)ビル」と剥がれかけのペンキで大きく書かれている。ビルの所有者の名前がそのままビルの名前になっただけのことだ。


 一階の中華飯店「竜虎庵」からは、満腹の客を吐き出しているところだ。また、二階のインド料理店「ブラフマーストラ」からも、香辛料で汗を流した客が吐き出されている。三階と四階は、窓に「テナント募集」の文字がポップ体で大きく書かれている。それもだいぶ年月が経つのか日焼けで文字が薄れつつある。五階は窓ガラスのみで、中に何があるのか外からでは窺い知れない。


 栗花落ビルの端に店とは別の入り口がある。出ていく客たちを横目にそこへと入っていくと、薄暗い通路と階段が見える。


 外から見ればとても怖い印象を与えてくる。どこか“行ってはいけない場所”へと通じているかのような、もしその辺に矢印つきの“地獄の一丁目”と案内板が立てかけられていても何らおかしくないような、一言で言って異質なのだ。


 でも、何のためらいもなく足を進めた。最初こそは怖かったが何度も訪れていれば怖いと思わなくなる。慣れだ。慣れは良くも悪くも感覚を鈍くする。


 五階へと上がれば、ちょうど窓から廊下に陽射しが差し込んでいて、入り口とは全く逆の印象だ。いや、あえて“天国への入り口”となっているのかもしれない。とにかく、このビルへと入ってしまえば(うつつ)の場所ではないと錯覚してしまいそうだ。


 陽射しを浴びて奥へと進んでいけば、スチール製のドアが一つ。ドアの前に立ち、見やれば大きな図柄が描かれていた。


 円の中に二又の長い尻尾を持った猫。座り、こちらを見ているデザインだ。猫の下には「商会」の二文字がある。ただし、その左隣にガムテープが張られており、その上から太字のペンで「ネコネコ」と丸文字で書かれていた。続けて読めば「ネコネコ商会」となる。如何にも怪ししく、どこから見ても怪しく、何が何でも怪しく見えてしまう会社名。仮に冗談だとしてもつけようのない名前だろう。訪れる客を馬鹿にしているのか、はたまたこの会社に勤める人に難があるのか、と言わざるを得ない。肯定的に見るのであれば、ファンシーな名前を売りにしてその名に恥じない商売をしているような会社になるのだろうか。尤も、ここにおいてはそんなファンシーと呼べるものはない。


 ここが目的地であり、怪しさなど何ら気にすることもなくドアノブを回した。ここまで来る際の感情の起伏なんてはじめからなかったかのように。


「や、こんにちは、和葉くん」


 ドアを開けて、春の陽射しのような爽やかさをもって挨拶と共に中へと入った。


 入り口から見える部屋の奥にスチールデスクが構え、その向こうでは頬杖を突いて暇そうにしている和葉がいる。黒い布地にワンポイントで赤いラインの入ったセーターが似合っているのか似合っていないのか、ともかくこの空間に浮いているようでありながらも昼行灯を表しているかのような何とも言い難い感じになっている。


 その和葉が美加に気づくなり、煙たそうな視線を向けてきた。どうしてそんなに元気なのかと問い質してくるかのようである。さらには、“相手をしたくない”を体現しているのだろうか、机上の黒猫のイラストが描かれたマグカップを手にして口にした。


「あ、和葉くんは挨拶もできないのかな?」


 そんな和葉の態度に動じることなく、美加はたしなめた。年上ゆえの余裕をもって、子供をあやすかのように。それがまた和葉の機嫌を損ねているなんて考えもしていない。


「ふん、あなた如きに挨拶をする? 冗談はよしてください。何で僕があなた如きに挨拶をしなければならないのですか?」


 不機嫌そのままにジト目で冷ややかに返されてしまった。実際年上であることには違いないのだが、そういった上から目線の行動が和葉の機嫌を損なわせるということを美加はいい加減学習すべきである。


「もぅ、どうして和葉くんはそんなに愛想が悪いの?」


 美加は両手を脇に当てた。不機嫌の理由を分かっていないからこそ、どこまでも自分本位になっている。それがまたさらに機嫌を損なわせるだけだということを、どこまでも理解できていない。


「あなた如きに挨拶をしても、何ら利益は得られませんからね。それに一ついいですか? どうしてあなたは僕を下の名前で呼ぶのですか? 下の名前で呼んでいいのは、僕の家族だけです。あなたに僕を下の名前で呼ぶ権利を与えた覚えはありませんよ。気安く下の名前で呼んでほしくありません」


「私だって、そんな権限貰った覚えはありません。和葉くんを名字で呼ぶのは、何か嫌なの。和葉くんの苗字って『百合垣』でしょ。百合よ。ユ・リ。可憐な百合の花は和葉くんのイメージじゃないって思ったの」


 美加は後ろ手でドアを閉め、スチールデスクの前へと出て、手にしていた紙袋をその上へと置いた。


「“百合”を俗語の方で揶揄されなかっただけよかったと申しましょうか。まあ、僕は男ですので俗語で揶揄のしようもありませんけどね。それに僕としましては、あなたに名前のことでとやかく言われたくありません。芒原美加――“芒”のように無駄に背が高い上、“美”の字のわりには大したことのない」


 和葉は「実に不満です」とマグカップを置いた。名前に関して言われなくもないから、嫌味でやり返してきたということか。


 それよりもという感じで、和葉の視線はスチールデスクに置かれた紙袋に向かっている。美加に嫌味をぶつけるよりも、そちらの方が気になるらしい。でなければ、これ以上名前に関する話を続けられたくなかったのかもしれない。


 美加は紙袋から白い包装紙の箱を取り出した。「黒猫饅頭」の文字と、“ゴメン寝”と猫が丸くなっているイラストが描かれている。


「お菓子、ですか?」


「そうですよ。犯人逮捕のお礼に買ってきたの。黒猫が丸くなっているような形のお菓子で、可愛いの。試食させてもらったけど、美味しかったわ」


 包装紙を剥がして箱を開ければ、内包袋に包まれた饅頭が全部で二十。内包袋を開ければ、丸くなった猫を模した黒皮の饅頭があらわとなった。


「ほら、可愛いでしょ」


 にこりと笑みながら和葉へと見せれば、和葉は仏頂面で美加の手から饅頭を奪い取って、一口かじって咀嚼。ちゃんと味わってくれているのか疑わしいところで、マグカップの中身と共に呑み込んだ。


 マグカップに入っているのは、黒々とした液体――コーヒー。好みからして砂糖は入っていないと思える。


 饅頭をコーヒーで流し込むなんて、と和洋違うものの組み合わせには疑問に思えてくるものの、特に不満を口にしていないとところを見れば、不味いということはないようだ。むしろ、気に入ってくれたのではないだろうか。不味くなくとも気に入らなければ文句を言うのが和葉という男だ。言ってこないということは、不味くも不満でもなかったと言える。


 美加は笑みをもって見守った後、部屋の隅に並べられている棚の前へと立った。食器棚から三毛猫のイラストが描かれたマグカップを手に取り、食器棚の隣にある腰ほどの高さの棚のコーヒーメーカーへ。マグカップにコーヒーを注いでいく。安物のインスタントコーヒーの上、ずっとコーヒーメーカーで保温されたままとあって、香りはあまり感じられない。一応コーヒーと呼べるものを味わえる程度のものだ。


「それにしても――」


「え、何?」


 背後に和葉の声がかけられ、美加は注ぐ手を止めて振り返った。食べかけの饅頭を食べ終えてから声をかけてきたようで、和葉の目は箱へと向かっている。それはまるで次の獲物を狙っている猫のようにも見える。


「どうしてあなたは、いつも“黒猫”に関する物を持ってくるのか、つくづく興味深いところです」


 二つ目の饅頭を手にしつつ言葉を紡いでくる。内包袋を開け、美加の答えを待つこともなくかじりついた。



 黒猫――



 そう言えばと思いつつ、美加は部屋を見渡した。


 部屋の至るところには“黒猫”に関する物がいくつも置いてあった。和葉の使っているマグカップをはじめとして、縫いぐるみ、置物、タペストリー、絵画、他にも色々な“黒猫”で部屋は埋め尽くされていた。さらには、コーヒーメーカーもまた黒猫を模したデザインである。猫が座り、サーバー部分を抱えている。よくできているもので、金色の目と尖った耳も愛らしく装飾されている。


 よくぞここまで集めたものだと思うものの、どの“黒猫”も美加がここへと持ち込んだものである。“黒猫饅頭”もまたそれに漏れない。


 美加は人差し指を顎に当て、しばし考える。


「そうだなぁ、和葉くんのイメージかな。“黒猫”って感じがしたの。ここって“ネコネコ商会”でしょ。だから、“猫”ってところかな。それに、猫のように人に懐かない感じがするところも和葉くんって感じだし」


 マグカップを手に、スチールデスクの前へと戻った。


 和葉の様子を窺えば、目を瞑って静かに聞いているようだが、とても怒っているようにも感じられる。明らかに機嫌を損ねている。これが猫であれば、さぞかし尻尾を不機嫌なままに振っていることだろう。


「あのですね。言わせてもらいますが、ここは“ネコネコ商会”でなく、“ネコジシ商会”です。間違えないほしいのですがね」


「でも、ドアには“ネコネコ”って」


 果たして改竄と呼んでいいのか判断できない改竄の跡が明らかなまでに残っているが、そう書かれていることには違いない。


「あれは、僕の仕業ではありません。あれをやった犯人は未だ就寝中でいい気なものです。それに、このことが社長に知れたら、怒られるのが僕であると明白だというのに、何度も何度も“ネコネコ”と書いたガムテープを貼るんですよ。正直、困ったものです。

 あと、僕は人に“愛想がない”とよく言われますが――これは否定のしようがないことも重々承知しています。だからといって、“猫扱い”するのもどうかと思いますよ。それに“猫”しかないじゃないですか。“黒猫”と関係のある理由には思えません」


 ガムテープは美加の仕業でないのに、なぜか美加へと当たってくる。間違いなく“黒猫”とイメージしたことを怒っての八つ当たりだ。


「だから、私のイメージなのに」


 そんなに怒るようなことでもないのに、と和葉を宥めようとするものの。


「イメージだけで、あれだけの黒猫に関する物を持ってきたのですか?」


 かえって刺激を与えてしまったようだ。和葉は額に手をあてて、かぶりを振っている。


「――僕が“黒猫”なら、あなたは“山猫”ですね」


 しまいには、お返しだと言わんばかり、そして、嘲笑とばかりに言うのだ。


 どうして自分が“山猫”になるのだろうか。美加は考えてみたが、意外と簡単に答えが出てきた。和葉よりも背が高いからだろう。嫌味を込めて言ったに違いない。背の高さで人の位置づけが決まるわけでもないのに、気にし過ぎである。それに、女よりも背が低いことに劣等感を感じることは男としてあるのかもしれないが、男よりも背が高いことに劣等感を感じるのもまた女としてあることだ。


 お互い様でしかないのに嫌味を言われてしまうのだから、むぅと口を尖らせるほかない。


 そんな二人のやり取りの中に、声があった。


「煩いなぁ」


 どこからなのかと思って見やれば、部屋の奥に木製のドアがあり、半開きになっている。その前には、可愛らしい少女が眠気眼を擦っていた。


 声の主。十歳児ほどの背丈で、蛙の着ぐるみパジャマ。その身なりから、少女と言うより幼女の方が相応しいのかもしれない。


「おはよっ、ヘカテちゃん」


「もう昼過ぎですよ、寝坊助蛙」


 二人はそれぞれの言葉で幼女――ヘカテを迎えた。


 ヘカテは美加に対して反発を見せなかったが、和葉に対して頬を膨らませた。まさに蛙が頬を膨らませているかのようで、かなりご立腹である。


「どうしてカズハは、そんな意地悪を言うのさ。アタシは、カズハに何もしてないじゃないさ」


「さて、どうしてなのでしょうかね」


 憤慨のままに言い寄るヘカテに、白を切る和葉。“黒猫”呼ばわりされた和葉が気分を害してヘカテに八つ当たりしていることは明白である。嫌味を向けられるなら誰であろうと構わないというべきか、誰であろうと憤慨をぶつけても構わないというべきか。


 美加はヘカテを宥めるべく、箱から饅頭を取り出してヘカテへと手渡した。


「ヘカテちゃんに当たるなんて、駄目な和葉くんだよね。ヘカテちゃん、それを食べて機嫌を直して、ね?」


「う、ううぅ……うん、ミカがそう言うのなら、そうする」


 ヘカテの顔には悔しさがまだ滲み出ている。それでも気を落ち着かせようとしている。饅頭の内包袋を開ければ、親の仇と言わんばかりにかじりついた。


 どうせなら感情をぶつけるのでなく、ゆっくりと味わってもらいたいところだ。折角の美味しい饅頭だというのに、勿体なく思えてしまう。


 そんな思いも束の間で、饅頭を気に入ったらしく、バクバクと食べた。手からなくなると、物足りなさそうな顔で次の饅頭へと目が向かっている。


「――さすがにお子様ですね。お菓子一つで機嫌を直せるのですから。それとも、お菓子一つで心を買収されてしまいましたか? だとしたら、商人としていささか考えられない交渉に思えますね」


 和葉が鼻で笑った。


「ちょっと、和葉くん」


 美加は和葉へと見やった。折角いい流れへと持っていけるかと思っていた矢先なので、ことごとく流れを潰されてしまうことに不満が噴き出る。さらには、場を鎮めようとした行為を邪魔されたことに憤慨せざるを得ない。


「おや、山猫風情が何か言いたそうですね」


 美加の怒ろうとも気にも留めず、しれっとした態度で返してくる。どこまでも嫌味で通そうという魂胆らしい。


 こうなると負けていられない。


「そりゃ、言いたくもなります」


 美加は言い放った。自分にだけ嫌味を言われるのなら、我慢をすればいいだけの話。なのに、和葉の嫌味は他へと向いてしまう。一つ二つでは収まらないのだ。少しは反省をしてほしい。少しは他の人のことを考えてほしい。


 対して、和葉は見据えて返すのみ。どこまでも嘲るつもりでいる。どこまでも嫌味を言い続けるつもりでいる。


 何の罪悪感も浮かばないのだろうか。そんなに嫌味を言うことが楽しいのだろうか。美加は苛立ちを募らせていく。湧き上がる黒々とした感情を抑えきれなくなっている。地響きすら起きているのではなかろうかと思えるほどに、体が震え――


「こんのぉ、バカカズハ!」


 そんな美加よりも早く、ヘカテが爆発した。


 先を越されたことに肩透かしを食らったというべきだろうか。“バナナの皮に足を取られた”気分というべきなのかもしれない。溜まり溜まった筈の感情が、爆風に吹き飛ばされてしまったかのようだ。でなければ、膨れ上がった風船が割れる前に空気が抜けて萎んでしまったと言ってもいいのかもしれない。


「――いつまでもそんなことを言ってると、バチが当たるんだからなぁ!」


 美加の存在など最早どこへと行ってしまったのか、ヘカテの言葉が続いた。和葉へとビシッと指さして、怒気を放っている。ただ、その身なりと口元に餡子カスがついているあたり、どうしても緊張感の欠ける。


 そもそも、恰好なんかで感情を表していないのだから、おかしくもないのかもしれない。しかし、恰好一つで物事というのは進んだり進まなかったりするものである。緊張感が欠けていれば、それこそ相手に嘗められるだけだ。


 和葉もまたそうだ。冷笑を向けている。明らかに誰が見ても分かるほどにヘカテを馬鹿にしていた。緊張感のない怒りほどチープなものはありません、とその顔が語っている。


「バチ? はて、誰が僕にバチを当てるのですか? まさかヘカテ、あなたのようなチビッ子が僕にバチを当てるのですか? チビッ子がバチを当てられるのですか? お笑い(ぐさ)です」


 和葉がクククと笑む、如何にもの悪者顔で、これが楽しんでいるのだと分かればこそ、美加は辟易と見ているだけだ。呆れて何も言えないと言った方が正しいのかもしれない。


「うぬぬぬぬぬぬぅ……アタシをバカにするなんて赦さない! アタシはカミサマなんだぞ! 怒ったら怖いんだからね!」


 怒号――トリガーが引かれたかのようだった。唾のマシンガンを撃っているかのように、ヘカテが感情的に叫ぶのである。それがまた耳を劈くような金切り声なので、美加は耳を押さえて片目を瞑ってしまう。これまた呆れて何も言えない。


「自ら“神様”を名乗るようなチビッ子なんて、誰も怖がりませんよ。そもそもですね、自ら“神様”を名乗る人なんて言うのは、高が知れているのです。それこそ、新興宗教の“似非神様”連中を見れば、誰もが納得の胡散臭さです。あなたも、そんな一員に加わってどうするのですか? 一応なりとも西洋の神様の名を冠しているのですから、“似非神様”連中と同様だということなのですかね。まあ、正直な話、自らを“神様”という人は、“イタい”だけの存在なんですよね。実に嘆かわしい」


 涼しげな顔でずけずけと言う。もうここまで来ると、嫌味で済む話なのだろうか。おちょくっているとしか思えない行為だ。


「言ったなぁ!」


 ヘカテはキイィッと歯を剥き出しにしたかと思うと、憤慨そのままに(きびす)を返した。部屋へと走っていって、向こうへと消えたかと思えば勢いよくドアが閉められた。ドアが壊れるのではないかと思えるほどの音に、如何に怒っているのかがよく伝わってくる。


 美加はため息をつくほかない。二人に気圧されて何もできなかったのだ。


 気弱だからということが第一だろうが、あれに立ち向かえる人などいないだろうとさえ思えた。あれでは手を出したら間違いなく火傷をすることだろう。“触らぬ神に祟りなし”というのは、たとえ自称の神様であっても同じことなのではなかろうか。いや、なまじ自称の神様――人だからこそ手が付けられないのかもしれない。


「どうして和葉くんはヘカテちゃんを虐めるのよ。何も悪いことなんてしてないじゃない」


 たしなめても和葉の表情は変わらない。むしろ、口の端が僅かに吊り上がっていて、“楽しんでいた”と顔にものの見事なまでに書かれている。そこまで顕著に示さなくてもいいだろうに、辟易としてしまう。


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