5.温泉旅行の定番といえば。
「では、僕はこれで。
後は女同士で仲良くしてくださいね」
美加ら三人が部屋へと戻ってくるなり、和葉が荷物をまとめてそう言ったのだ。
如何にも清々したといった言い方。
和葉の物言いにムッとするものの、美加は我慢することにした。
ここで何かを言い返したところで、和葉に嫌味を返されるだけだから。
何よりも、「両手に華だよね」なんて冗談を言おうものなら、それこそ何を言われるかわからないところが恐ろしい。
ネチネチと時間をかけて嫌味を言われるに違いない、と勝手ながら予想。
想像しただけで、思わず余計に寒気を覚えたほどだ。
なぜ、和葉が部屋から荷物を持って出て行くのかになるが、部屋へと戻る前にロビーで宿泊部屋についての確認を取ったのだ。
美加の予約した部屋とは別に、和葉の部屋が用意されていたのである。
美加の宿泊と魔具の鑑定とは、もとより別のことなのだから、和葉に部屋が用意されていても何らおかしくない。
一度皐月に部屋割りについて断られた時は、仲居が和葉を〝美加の連れ〟として見ていたように、皐月が美加を〝和葉の連れ〟として見ていたのだろう。
だから、どちらにも部屋が用意されているということを気づいていなかったのだと思われる。
むしろ、どちらも別件でここへと訪れているとは思いもしなかったのだろう。
そして、和葉は自らの用意された部屋へと移動すべく、今に至ったのである。
和葉が部屋を出て行くと、必然的に美加と千代が残るわけなのだが――美加は困った顔で目が泳いでしまう。
その理由として、千代が睨んでくるからだ。
そもそも、千代に睨まれる以外のことをされたことがない。
無理に会話をしてくれと言わないが、せめて睨むのだけはどうにかしてほしい。
今後ともこんな空気のままだとするなら、温泉旅行を楽しむことなどできない。
だけど、なぜ睨むのかを訊くこともできなければ、睨むのをやめてほしいと言うこともできなかった。
そんな自分が情けなく、げんなりするほかにない。
千代の睨みを耐えつつ、浴衣へと着替えて浴用品を準備し――
「え、えと、温泉に入ってきますね」
と作り笑いで言いながら、千代の睨みから逃れるように部屋を出た。
◇
脱衣場を出て、どのような温泉があるのかと心を躍らせて見てみれば――
大きな檜風呂が広間の中心にある、石造りの浴室。
露天でないので外の景色を眺めながら、という楽しみはできない。
その代わり、他の客の姿がなく、のんびりと大きな浴槽に浸かれる。
嬉しさ半分、寂しさ半分といったところか。
いや、温泉に浸かることが目的なので、嬉しさがやや勝っている。
体と頭をを洗い終え、濡れた烏羽のような長い髪を結い上げ、浴槽へと入っていく。
やや熱めの湯でわずかに肌を突くような刺激がある。
無色透明で硫黄特有の臭いはあまり感じられない。
宿泊券と同封されていたパンフレットには「炭酸泉」と書かれていたような記憶がある。
ゆっくりと浸かれば体が温まり、血の巡りもよくなって疲れも飛んでいくことだろう。
浴室の照明を反射してユラユラと光る湯に、美加は肩まで浸かった。
その暖かさに思わず蕩けそうな声が漏れる。
普段、露出しないからか、湯越しに見える肌がとても白い。
肌が白いこと自体は特に思わないのだが、肉つきがないから、痩せた体に白い肌というものが病的に見えてしまう。
さらには、自分の胸元を見下ろして、和葉が言った〝貧乳の年増〟を思い返してしまい、むうぅと口を尖らせた。
好きで痩せているわけではない。
好きで胸が乏しいわけでもない。
もう少し肉つきがあればと悲しい思いで自らの肌を撫でていく――湯を感じていく。
その手は、左太ももへと触れたところで止まった。
左太ももにくっきりと傷を縫った痕が残っている。
この傷痕に触れるたびに思い出したくもないことを思い出してしまう。
――白矢の目。
殺されかけた時の記憶が蘇ってくる。
記憶が体を支配、蝕んでいき、動けなくさせてくる。
力を振り絞り、両手で自らの方を抱き、必死に耐えることしかできない。
目を閉じ――少しずつ息を整え――体の震えが治まるのを待ち――浴室へと誰かが入ってくるのを感じて、驚いて余計に強張ってしまった。
でも、怖さで強張っていたのとは違って、こちらはすぐにも落ち着いてくれる。
見やれば、浴室へと入ってきたのは千代。
美加へと一瞥をくれてから体を洗い出す。
どうやら美加を睨む行為自体が千代のお決まりの行動と固定されてしまったようだ。
折角独りでのんびりと温泉を楽しもうと思っていたのに、楽しむどころかのんびりもできないのは残念だとため息をついた。
このまま湯に浸かっていても心が潤うと思えないので、千代が体を洗っているうちにさっさと上がってしまおうか、とも考える。
今は楽しめなくても、あとでまた入ればいいのだ。
その時に楽しめばいいだけの話。
温泉は逃げないのだから。
美加が湯から上がろうとすると、千代が体も頭も洗い終えていた。
そんなに長湯をした覚えはないのだが、千代の洗うのが早いだけか。
濡れた髪から滴を垂らして浴槽へと近づいてくる。
美加は湯から上がるタイミングを逃してしまったことにため息をついて、肩まで浸かりなおした。
それにふと気になってしまったこと――気にしてしまったこと――がある。
実に俗なことなのだが、千代の裸体を目にして自分の貧相な体に虚しさを覚えてしまったことだ。
自分の起伏の乏しく痩せた体と違って、千代の体は健康美というに相応しいだろう。
決して大きいとはいえないが、膨らみのはっきりとした胸。
くびれた腰と引き締まった尻。
手足に至ってはアスリートのように細くしなやかそう。
見せるための筋肉ではなく、動くことを重視した筋肉のつけ方。
「どうして霞姉さんはあなたのことを助けたりしたのか、未だにわからない」
ドスの利いた声。
美加を非難するかのような言い方。
「わざわざ助けるほどの女にも見えないのに、助けるほどの価値があるのかわからない。
ネコジシの関係者だから?
ネコジシに〝貸し〟を作るために助けただけなの?
嘘。絶対嘘よ。
霞姉さんは私に何かを隠している。
霞姉さんは――。
あなたは何なの?
ネコジシの関係者というだけなの?
他に何かがあるの?
霞姉さんがあなたを助けるほどの理由を、あなたが持っているというの?」
千代が浴槽へと入ってくるなり、美加へと詰め寄ってくる。
その剣幕に美加は後退るが、背中が浴槽の縁に当たって、もう下がることが叶わない。
千代が目の前まで来て、見下ろしてくる。
「さあ、答えて!」
これに美加はただ見上げることしかできなかった。
今までの睨まれていた時とは、比べものにならないほどの怖さを千代の目から感じ取った。
「あなたは何?
何で霞姉さんがあなたを助けるなんて言うの?」
「な、何を言っているのか、よ、よくわからないんだけど。
そ、その、ま、まず、〝霞姉さん〟というのは誰?
私はよくわからないし、助けられたとか、そういうのも……」
「わからない?
あなたの身に起きたことだと――
そう、そういうこと。
あなたはあの時、気を失っていたのだから、知らないのも当然ね」
千代が視線を外した。
お陰で美加は少し落ち着ける。
このまま睨まれていては、千代の言っていることについて考えようにも考えるに至らなかっただろうから。
千代は息をついて、湯へと浸かった。
美加は千代の様子を窺うことしかできない。
このまま上がってしまってもいいのかもしれないが、千代の言ったことを何も知らないまま、何もわからないままにしたくなかったから、ということがある。
千代は何かを考えているようで、肩まで浸かり、湯へと鼻の下まで浸かっている。
ブクブクとあぶくを出して、少ししてから顔を上げた。
「恩着せがましいなんて思われるのも癪だけど、教えてあげる。
白矢から命を救ってあげたの」
「白矢――」
記憶が蘇ってくる。
白矢の目の記憶が美加の心を鷲掴みにしてくる。
恐怖がまた蘇ろうとしている。
ぐっと堪え――
「あの時、私はどうやって助かったのか、わからなくて……」
「聞かされてないの? そう。
――ということは、私のことも知らないわけか。
あの男が色々と話していると思っていたのに。
ま、知らないほうが普通に生活していく上で、いいのかもしれないけど」
千代はそう言い、美加から離れていく。
美加のいるところから反対側の縁で静かに浸かっている。
美加は千代が何を言いたいのか理解しきれなかった。
そもそも、千代が満足に話してくれないので、もやもやとした感覚が胸の中でわだかまり、どこか気持ち悪い。
千代に問い返そうとも思うが、素直に答えてくれるかわからないので、むしろ答えてくれないと予想できたのでやめた。
「〝命を助けること〟――それがどんなことなのか、わからない。
〝命を壊すこと〟をずっと繰り返してきた。
それでも〝命を壊すこと〟と〝助けること〟の〝本質〟を知るまでに至らなかった。
ずっと知らない。
ずっとわからない……。
いたずらに〝命を壊し続けてきた〟からこそ、知ることができないのかもしれない。
霞姉さんは〝命を助けること〟にずっと〝縛られ続けている〟のに。
〝命を壊し続けてきた〟私には、到底、なれない。
私は霞姉さんのようになれない。
霞姉さんのようになりたいのに――」
千代は俯き加減で呟き、湯から上がった。
美加は千代の背中を見送るだけ。
何を話していいのかわからなかった。
千代が何を言っているのか理解できなかったからということもあるが、思いつめた言い方だったがために口を挟めなかった。
◇
和葉は温泉を楽しみ、用意された夕食に舌鼓を打ちつつ、のんびりとしていた。
部屋で独り、静かに食事を取るのが寂しくないのかと問われても、今なら「寂しくない」と即答できるだろう。
むしろ、日常から解放されて自由にくつろげることが嬉しい限りだ。
出された食事は決して豪華というものではない。
地元で採られたものをメインに作られており、この土地へと来たのだとわかるようなものとなっている。
特別変わったものはないが、山菜の天ぷらにお浸し、川魚の塩焼きと並べられている。
ご飯は白米と古代米をブレンドしたもので、歯ごたえがあるためによく噛むこととなり、さらに白米の甘さが古代米のクセを緩和してくれる。
また、古代米のクセが白米の甘さを引き立たせてくれる。
そうしてのんびりしていると、勢いよく出入り口の襖障子が開けられ、千代が何の断りもなく入ってきた。
和葉の前に立ち、見下ろしてくる。
その顔はやや赤く染まっており、息も幾分か荒い。
普段静かな面持ちの千代には珍しい。
「どうしました?」
和葉は千代が何も言わないことを怪訝に思い、茶碗を置いて尋ねた。
千代から話しかけてくること自体そうあるわけでもないので、突然やってきて目の前に立つだけで何も言ってこないことがおかしいと思ったのだ。
千代は何かを言おうとしているようだが、どこかためらいの念があるように窺える。
「あ……あなたは……こうなることを知っていて、あの人と私を一緒にしたわけ?」
千代はさらに顔を赤らめて、ワタワタと口を開く。
直情的でありながらも冷静沈着を演じようとするいつもの千代ではない。
明らかに違って見える。
何かに動揺して、冷静沈着を演じることができていない。
「何の話を言っているのです?
僕にわかるように言ってもらわないと。
あの人に何かされたのですか?
おいそれと誰かに迷惑をかけるような人と思えないのですが」
「な、何を言っているぅ!?
あ、あれが、あああ、あんな風になって、あんなことを、ををぉぉ――」
千代は和葉から視線を外して口ごもって俯いてしまった。
しまいには何も言えなくなって部屋の隅へと行くと、膝を抱えて座り込んでしまった。
和葉はさらに訝しく。
千代に何かがあったことは明白なのだが、何も言わないので全くもって理解に苦しむ。
これでは、こちらから何かをしようにも何もできない。
とはいえ、このままにしても何もわからないままなので――
「何があったのかわかりませんが、見てきますよ」
食事が途中であることがとても不満だ。
しかし、千代がこんなにまでなってしまったとなると、美加との間に何があったのか気になってくる。
流血沙汰――と考えるにしても、千代がその程度でうろたえるとはとても思えない。
咲耶霞とともに〈異端狩り〉として馳せているのだ。
それも、専ら流血沙汰にしているのは千代のほう。
ともなれば、もっと違う何かが起き、千代をこんな風にしてしまったのだろう。
立ち上がり、千代へと見やるものの――全く動かない。
何かに恐れて震えている小動物にしか見えない。
狂犬や猟犬をここまで大人しくさせる要因は何なのか。
こちらのほうに興味が湧きつつある。
もしそれを知ることができたのなら、今後とも千代を大人しくさせるに使えることだろう、と。
好奇心が体を押した。
部屋を出て、美加のいる部屋へと向かう。
美加たちの部屋の前に立つものの、何かが起きたようには感じられない。
これで襖障子を開けたら〝血の海〟が広がっていたなどというホラーものの展開を期待してもいいのだが、血腥さが感じられない。
温泉旅館で殺人事件はミステリものの定番なのだが、そんな雰囲気も窺えない。
宿泊部屋のテレビでいわゆる〝ピンク〟のものを観ているのではないか、とも考えたが、美加がそういったものを好むかどうかになる。
普段は普通にしていても、変質趣向の持ち主は世の中にいくらでもいる。
美加もそういった分類の者だっただろうか。
疑問。
でも、その考えも否定なのだろう、と勝手ながら決め付けた。
仮に〝ピンク〟のものを観ていたとして、千代がああもなるのだろうか。
〈異端狩り〉がそこまで純情な生きものだったのか、という疑問が湧いてくる。
となれば、〝ピンク〟なるものも違うと見るべきだろうか。
部屋の外であれこれ考えていたところで何もわからないので、襖障子の枠をノックして、「入りますよ」と声をかけてから開いた。
部屋の中は特別変わった様子がない。
二人分の食事が用意されていて、美加がその前で頭を揺らしながらお猪口を傾けているだけ。
こちらも和葉同様に食事中だったようだ。
千代の嫌いな食べものでも並べられていて、こちらに文句を――などと高校生にまでなってするとはとても考えにくい。
疑問は深まるばかりだ。
ただ、美加が頭を揺らしているあたりに、少し気がかりになる。
「漆原千代が僕のところへと来て、何かを訴えてきているのですが。
何かやったのですか?」
ひとまず、美加へと歩み寄って尋ねることにした。
自分だけで状況を判断するよりも、美加に直接聞いたほうが早い。
「あ、和葉くんだぁ、アハッ」
美加は妙に陽気で、和葉の問いに答えるわけでもなく見やってくる。
その目は虚ろ――というよりも、変に潤んでいる。
顔には赤みが差している。
手にしているお猪口へと新たに酒を注ぐと、一気に飲み干した。
「酔っているのですか?」
「酔ってなんかぁなぁいですよぉだぁ。
エヘヘッ、アハハッ」
完全に酔っ払いの域である。
和葉は呆れてため息をついた。
そこへ美加が手を伸ばしてきて、和葉の腕を掴んだかと思うと、直後に足を払われた。
その動きがとても滑らかなのは、酔っ払っていても警察官であることの表れか。
あまりにも手早く、技ありの足払いだった。
和葉は仰向けに倒された。
不意に倒されたことで、畳とはいえ後頭部を打ち付けて痛みに悶える。
「な、何をするん――んんっ!?」
文句を言ってやろうとするのだが、その前に和葉の上に美加が乗りかかってくる。
「和葉くんだぁ、アハハッ」
美加は和葉の両手を掴んで顔を近づけてくる。
和葉は美加から逃れようともがくのだが、この酔っ払いのどこから力が出ているのか、逃れることが叶わなかった。
これもまた警察官だからこそ、酔いながらも柔道を平然と使えることなのかもしれない。
和葉の目の前、それもすぐ触れられるような位置に美加の顔がある。
垂れた長い髪が美加の顔以外を見せないためのカーテンのようになっている。
薄っすらと入ってくる光と美加の顔だけの世界。
また、酒のにおいが鼻を突いてくるのだが、美加の女の甘い香りも混じっている。
クラクラとしてきて、こちらも〝酔って〟しまいそうだ。
放してくださいといつもなら口にできる言葉なのに、口が動かない。
ただただ美加の顔を見ることしかできない。
胸が高鳴り――
美加の顔が段々と近づいてきて、そのやや薄めながらもふっくらと柔らかそうな唇が、和葉の唇とを塞いだ。
和葉は何の抵抗もできず、今目の前で起きていることに驚いて動けなくなってしまっている。
〝キスされている〟と頭で理解できているが、体が強張ってしまって反応できていない。
しばしの間を置いて、美加の顔が離れていった。
和葉はぼんやりとしていた。
ここまできて、頭の中で理性を保とうと必死に堪えている。いつ理性の箍が外れてしまうのか、わからない状態。
美加は笑みを見せると、もぞもぞと動き出して和葉の胸へと頭を乗せてくる。
和葉は胸の高鳴りが美加に聞こえてしまうのではないかと、恥ずかしさが増していく。
ゆっくりと美加を窺う。
さすがにこれ以上美加に何かされてしまっては、理性を保ちきれないこともあるので、早々にこの状況を打破しなければならない。
美加は動かなかった。
和葉が肩を揺らしてみるものの、動く気配がない。
和葉は息を深くついてから美加の顔を覗き込んだ。
美加は和葉の気持ちなど露知らず、寝息を立てている。
酔っ払いというもの、〝飲むだけ飲んで自由に行動したら、あとは寝るだけ〟ということらしい。
和葉は厭いたため息をついて、美加の下から逃れた。
美加は和葉がいなくなったことがわかっているのか否か、体を丸めて幸せそうな顔で寝ている。
「まさか……酒が入ると、こんな人になるとは思いもしませんでした」
どっと疲れが押し寄せてくる感じがある。
立ち上がり、辟易ともう一度ため息をついた。
「なるほど、そういうことですか。
酔ったこの人に襲われて、僕のところに逃げてきたということですね」
千代の様子を思い返した。
千代をあそこまで無力化したのは、きっと和葉が相手と同じく襲いかかって、無理矢理唇を奪ったのだろう。
不意を衝かれて、〈異端狩り〉としての能力を発揮する間もなかったのではなかろうか。
鮮やかに一本を決められてしまったのだろう。
〈異端狩り〉とはいっても、所詮、〝普通の女の子〟だったに過ぎないようだ。
むしろ、千代に純情など持っていたことのほうが驚きかもしれない。
同性だからうろたえているのではなく、恐らくではあるが、〝初めて〟だったのではなかろうか。
そう予測すると、ご愁傷様と言葉をかけてやりたくなる。
初めてが酔っ払いの女相手なのだから、さぞかし悪夢として後々トラウマとして残ることだろう。
そして、ふと美加の唇の感触を思い返し――
「ぼ、僕は、この人なんかに欲情なんて、するわけがないのです」
咳払いをして、誰に言うまでもなく否定した。
かぁっと顔が熱くなっているが、気のせいであることにしたかった。
◇
翌朝。喧しい声とともに美加が和葉の部屋へと飛び込んできた。
その勢いからして、昨夜のことなど何一つ覚えていないだろう。
ただ入ってくるなり、その顔には落書きがされていた。
額には大きく「キス魔」と書かれており、頬には猫のヒゲよろしく三対の線が書かれている。
寝ている間に、千代にやられたのだろう。
自業自得である。
むしろ、〈異端狩り〉相手に落書きで済まされたのは幸いではなかろうか。
「何ですか、朝から」
どうせ顔の落書きについてなのだろう、と思いつつも尋ねることにした。
千代にしてやられたと愚痴でもこぼすのではないだろうか。
しかし、落書きのことなど全く気づいている様子がなく――
「人が消えました」
と切羽詰った声で言ってきたのだ。




