3
走りに走って、とうとう道らしきところにたどり着いた。紀代美はほっとして小鹿を撫でた。小鹿も紀代美に擦り寄り、甘えた。
息が止まりそうだった。どうしてこんな目に遭わなければならないのか、と紀代美は悔し涙を流した。鞠子を殺した報いだろうか。罰が下っているのだろうか。紀代美は鞠子を憎らしく思った。
「おばあさまなんて大嫌い」
でもこの指輪が戻ったことは良かった。これをあの宝石箱に戻さなければ、自分は人殺しであるだけでなく、泥棒にもなってしまう。
「指輪、無くさないようにしなきゃ」
そうつぶやきながら歩いていると、妙な場所に出た。何だか変な感じがする。よく考えて辺りを見ると、木に葉が無いのである。
「どうしてだろう」
そう言った時、笑い声が聞こえた。数人の少女の声。紀代美は少しぞっとした。この暗闇の中、この奇妙な森の中に、少女がいる。怪談じゃないか。紀代美は自分の肩を抱いた。笑い声は近づいてくる。よく聞いていると、言葉も混じっている。日本語ではない。英語だ。
紀代美は、森の木の中に白いものを見た。それがどんどん近づいてくる。どんどん、どんどん、近づいて――。
「あら、誰かいるわ」
滑らかな英語で、少女の一人は言った。
「誰?」
もう一人の少女が木の間から出てくる。
「あら、日本人だわ」
また少女が出てくる。三人の少女は、皆薄い色の髪と目をしていた。英語の発音からして、イギリス人だ。
「ねえ、あなた指輪を追ってきたの?」
プラチナブロンドの少女が尋ねた。紀代美は少し怯えていたが、すぐに、
「ええ」
と答えた。同時に少女たちはわっと笑った。
「『ええ』ですって! 変なの!」
紀代美はむっとして詰め寄る。
「どこが変なのよ。わたしはネイティブイングリッシュを話せるおばあさまに、小さい頃から英語のレッスンをさせられてきたのよ。わたしの発音は完璧よ」
「『わたしの発音は完璧よ』ですって。変なの!」
紀代美は頭に血が上り始めた。
「うるさいわね。言葉なんて通じればいいのよ。外国人が話す英語にしては上等でしょ。あなたたち、外国人を見たことが無いの」
「無いわ」
栗色の髪の少女が面白そうに答えた。
「わたしはあるわ。フランス人」
赤毛の少女が自慢げに言った。
「わたしは真っ黒な人間をみたことがあるわ!」
ブロンドの少女が叫んだ。それを聞いて、紀代美は違和感を覚えた。
「ねえ、ここは何世紀なの? わたしはタイムスリップでもしたの?」
そう尋ねると、少女たちは口々に、
「十八世紀」
「十二世紀」
「分からないわ」
と答えた。紀代美は何が何だか分からなくなった。ここは一体何なのだろう。
「森の外では時間が流れているわ。だけどわたしたちには時間なんて流れないのよ。つまりはそういうこと」
プラチナブロンドの少女が大人びた口調でそう言った。
「あなたももうすぐ仲間入り」
と、栗色の髪の少女がそう言うと、赤毛の少女が唇に指を押し当てて、「シーッ」と言った。しかし本当にまずいことを言ったという風ではなく、どこか意地悪な感じがした。紀代美はむっとして、赤毛の少女に近づいた。
「どういうこと? さっぱり分からないわ」
それを聞くと、少女たちはけらけらと笑いあった。紀代美が苛々していると、栗色の髪の少女が笑いながらこう答えた。
「この森に来ちゃったら、もうおしまいなのよ。あなたは出られない。契約をするまではね。きっと明日には契約が済むと思うけど」
「そしてあなたには魔力がない。一番辛い仕事をしなければならない」
と赤毛の少女。
「わたしたちは魔力があるから、ほら、自由に動ける。こんなことも出来る」
そう言いながら、プラチナブロンドの少女は白い指先から何か白いものをするすると生やした。それは育つほどに色づき、緑色の葉になった。少女はそれを裸の木に植え付けた。
「あなたたちが木に葉を生やしているの?」
紀代美は苛立ちを忘れて思わずそう尋ねた。少女たちは笑いながら、「そうよ」と答えた。
「すごいけれど、魔力なんて無くてもわたし困らないわ。契約もしないわ。わたしは帰る。あなたたちが何と言おうと」
紀代美がそう言うと、少女たちはまた楽しそうに笑った。笑いながら、森へと帰ろうとしていた。
「出来るものなら、やってごらんなさいよ」
プラチナブロンドの少女がそう言うと、少女たちは一斉に駆け出した。きゃあきゃあとかしましく騒ぎながら。呆然としている紀代美は、その声が始めははっきりと、最後には幻のように消えていくのを聞きながら、少女たちの謎のような存在とその言葉について考えていた。
小鹿が紀代美の足を口元でつつく。それにはっとした紀代美は、そこが夜の闇の中であることに気づいて、急に恐ろしくなった。そして早足で歩き始めた。月の無い空の下を。
少女たちの言うことが本当ならば、自分はどんな恐ろしいところにいるのだろう、と紀代美は思った。契約? 仕事? 魔力? どれも謎だ。ただ、単純に恐ろしい。この森は、一体何なのだろう。
ちゃぷん、と音がして、紀代美はぎょっと後ずさった。水の中に片足を突っ込んでしまったのだ。水溜りだろうか? そう考えて遠くを見ると、明かりの灯った大きな家らしいものがある。明かりのために、水面が揺れているのが分かる。湖だ。大きな湖がここにあり、あの家は湖に建っているらしい。
「困ったわ」
紀代美がつぶやく。
「舟があるといいのに」
途端に、水をかく音が聞こえてきた。見ると、水面に黒い何かがいる。どんどん岸辺に近づいてくる。誰かと思って見ると――。
「あなたは」
紀代美が見たのは川で見た渡し舟の男だった。同じ舟に乗っている。岸にたどり着くと、男は紀代美を待つような素振りをした。紀代美が素直に舟に乗り、小鹿が後に従うと、男は舟を漕ぎ出した。
「あなた、ずっと舟を漕いでいたの?」
もちろん、男は何も言わない。それでも紀代美は自分に妙なことを言ったりしたりしないこの男を気に入っていた。
「指輪、戻ってきたわ。どういうこと? まあいいんだけど。戻ってくれば。だってわたしが自分でなくしたようなものだもの。ああ、ここに来てからとんでもない目に遭ったわ。結婚の疑似体験をやらされるし、外国の女の子たちに妙なことを言われるし。月もないし――あら? どうしてこんなに暗いのにあなたが見えるのかしら。女の子たちなんか、輝いて見えたわ。わたしはわたしが見えないのに。小鹿も見えるわ。輝いてるわ。変だわ。変だわ」
そのようなことをつぶやいているうちに、舟は大きな湖上の家の桟橋にたどり着いた。紀代美はぎょっとして、男を見た。
「ここじゃなくていいの。向こう岸でいいの。わたしこれ以上他人に会いたくないわ。何をされるか分からない。この家の人だって迷惑よ。こんな夜中に女が一人。不気味だわ。だから、ね。お願い。向こう岸に渡して」
男は動かなかった。紀代美がいくら頼んでも、そのままだった。まるで機械だ。そう思ったとき、紀代美はぞっとして立ち上がった。
「わたし、言うとおりにするわ。ごめんなさい。さよなら」
そう言うと、紀代美は舟を降り、小鹿と共に桟橋に立った。舟は静かに離れていく。ちゃぷちゃぷと音を鳴らしながら。結局、あの男も信用できそうに無いな、と紀代美は思っていた。まるで自動人形だ。あの目つきなど、原始的でさえない、無を表しているではないか。
「お客さん?」
上からしゃがれ声が聞こえた。紀代美は飛び上がって驚いて、桟橋から続く階段を見上げた。そこには赤い男と青い男がいて、紀代美はますます怯えた。
「これはまた、美しいお嬢さんだ。なあ、青いの」
赤いのが言う。
「今夜は泊まるところが無いのだろう。赤いの、泊めてやろうよ」
青いのが言う。
「そうだな」
「そうしよう」
二人はまるで、双子の鬼に見えた。おとぎ話に出てくる鬼。ごつごつとした顔と体をしていたし、乱杭歯で八重歯が普通ではないくらい大きかった。しかし二人はとても優しい目をしていた。着ている着物もきちんとしていたし、背筋も伸びていた。紀代美は元の気丈さを取り戻して、二人に尋ねた。
「泊めてくださるの?」
「もちろん」
二人は同時に言って、顔を見合わせて笑った。紀代美も笑った。そして二人の手が招くまま、紀代美は階段を上がった。小鹿も着いてきた。
家は真っ暗でよく見えなかったが、窓の明かりの位置からして、非常に大きな日本家屋だということが分かった。紀代美は広くて明るい玄関に通された。大理石の玄関はぴかぴか光っていて美しかった。そして奇妙なことに、家は炭で作られていた。真っ黒なのである。広い廊下に白い障子がやけに映える。
「真っ黒ね」
「真っ暗?」
聞き違えた青いのがそう言うと、赤いのが思い出したように、ああ、と声を漏らした。
「月と星を忘れていたね」
きょとんとしている紀代美に、赤いのが嬉しそうに言う。
「月と星を放流するついでに、君に色々見せてあげようね」
黒くて長い廊下をどんどん歩いていくと、黒い引き戸の前に着いた。そこを引き開けると、真新しいいぐさの匂いがした。青い畳が敷いてあるそこは、宝の山だった。つるつるとした白磁。手の込んだ着物。漆塗りの文箱。江戸時代の金満家の家のように、そこには華々しいものが整然と置いてあった。
「ええと、種、種」
青いのが小さな壷を持ち出した。かぶせて紐で縛ってある布を取ると、手にさっと中身を出し、畳に落とした。種は大きく、白い小鳥の形をしていた。紀代美が珍しそうに見ていると、種はどんどん育って色がつき、やがてちちち、と鳴き始め、体をじたばたさせると、突然足で立って、飛び立った。部屋の外に飛んでいく。
「何? これは」
紀代美が目を丸くして言うと、赤いのが、
「魔法だよ」
と言う。
「魔法?」
「彼女が僕らに与えてくださったものさ」
と、青いの。
「彼女?」
「すぐ会えるよ」
そう言って、次はかき氷機を取り出した。この部屋には不釣合いな道具。赤いのが取っ手を回した。氷も無いのに、そこからは霧のようなものが生まれた。
「これは、雲だ」
その通り、もくもくと白いものが出来上がり、部屋から逃げ出していく。紀代美が追うと、雲は廊下を急ぎ足で飛んでいき、角を曲がって見えなくなった。
「これは夜をしまっておく箱だよ」
と、青いのが漆塗りの文箱を見せた。模様が無く、シンプルな箱だ。
「夜をしまう?」
紀代美が首を傾げると、青いのは箱を開けて見せてくれた。中は空だ。
「夜はずいぶん前に放流して置いたんだけどね。月と星のことを忘れていた」
「見てごらん」
と赤いの。もう一つの金で彩られたきらびやかな文箱を取り出すと、彼は蓋を開け、中を紀代美に見せてくれた。中にあるのは、金色の毬と砂金。すごいけれど、彼らは何を言っているのだろうと紀代美が思っていると、赤いのが箱を思い切り逆さにした。途端に、中身はざざっと床に落ち、――浮かんだ。金色の毬は砂金を引き連れて、部屋を出て廊下を泳ぎ、雲の後を追った。双子が乱雑になった部屋もそのままに出て行ったので、紀代美はそれに着いていった。小鹿も追ってくる。玄関を出ると、毬と砂金はきらきらと耀き出し、大きくなり――、月になり、星になった。辺りが突然明るくなる。水面が見える。波は月光で輝き、揺れている。森も見える。森は暗く繁っている。この家も見える。立派な日本式庭園を持つ、黒い平屋建ての屋敷だ。
「魔法?」
紀代美が目を輝かせながらそう尋ねると、双子は、
「魔法」
と答えた。
「今夜みたいにぼくらがたまに月と星を放流するのを忘れる日がある。そんな日を、ここの人々は『新月』の日と呼ぶんだよ」
新月はそういう仕組みじゃないのよ、と言いそうになったが、紀代美は止めた。ここではそうなのだろう。ここには、『魔法』が当たり前にあるのだから。
双子と紀代美はしばらく丸々とした月を眺めると、家に戻った。双子は紀代美を和室に案内してくれた。花の生けられた床の間のある立派な広い部屋だった。そこに青い牡丹の描かれた布団を敷くと、二人は出て行った。紀代美は黒いワンピースのまま布団に入った。冷たいけれど柔らかい。小鹿は畳の上にうずくまってすでに寝ている。紀代美は久々に安心して眠った。この家は安全だ。今までのどこよりも。そう思いながら。
「夜が帰ってくるよ。箱を開けておかなくちゃ」
「そうだね。急がないと帰らない癖が付いてしまう」
しばらく眠ってから、そんな双子の声が廊下から聞こえてきたので、紀代美は目を覚ました。夜って犬のようなものなのだな、と思うと少しおかしくなった。そしてもう一回眠ろうとした。だが、出来なかった。温かい布団の中にいるというのに、どうして眠れないのだろう。紀代美は何度か眠ろうとしたが、やはり無理だった。仕方が無いので双子の手伝いをしようと思いながら立ち上がった。
廊下に出ると、明るい夜は紀代美を照らし出した。昔の歌人なら歌を詠んでしまいそうな月明かり。物語の中にいるようだった。と、そう思って、紀代美はバッグの中の『不思議の国のアリス』を思い出した。自分の冒険はアリスのそれとはかけ離れてしまったけれど、十分不思議だった。双子のような人々に会えるのなら、この先冒険が続いても平気かもしれない。そう思った。
紀代美は廊下をゆっくり歩いた。窓の外の月を見ながら。そして突然スカートを引っ張られて驚いた。振り返ると小鹿だった。
「あら、起きたの」
そう言って小鹿を撫で、顔を上げると、真っ黒な壁に絵が飾ってあるのが見えた。この家に似つかわしくない、油絵だ。紀代美は見入った。筒状の部屋がある。壁には奇妙な模様がびっしりと書かれている。何だろう? そう思いながらますます顔を近づけた。小鹿がスカートをまた引っ張る。それでも見ていると――、紀代美は体がぐいっと引っ張られた気がした。体中が引力に引き付けられているような。それは気のせいではなかった。紀代美は気がつくと、先ほどの絵と同じ光景の中にいたのだ。