冬の夜 喫茶店二階の異世界
診察室の椅子は、前に座った時よりも少し硬いように感じられた。
白い机の向こうで、医師が検査結果の数字が並んだ画面を見ている。良子には、どの数字が何を意味しているのかまでは分からない。分からないからこそ、医師がすぐに話し始めない事がやけに気になった。
どうせ良い話ではないのだろう――そんな予感がした。
「佐藤さん」
医師が画面から顔を上げた。
「前回と比べると、少し数値が変わっていますね」
「悪くなっているんですか?」
良子が聞くと、医師は小さくうなずいた。
「急に大きく変わったわけではありません。ただ、今の薬だけでは十分に数値を抑えきれていませんので……とりあえず今日から薬を一つ増やしましょう」
「はい」
「それから……息切れや胸の苦しさが強くなった時は、我慢しないで連絡してください。夜でも、休日でも構いません」
「わかりました」
型通りの医師の言葉に、良子はただ返事をすることしか出来なかった。
今後のこと。仕事のこと。家で気をつけること。食事のこと。薬の副作用。聞かなければならない事はいくつもある。
ただ、それらを口に出す前に、医師は視線を下げ机の上に乗っている書類へと目を落としてしまった。
「ご家族には、病状のことをお話しされていますか」
良子は、すぐには答えることが出来なかった。家族――その言葉が、なぜか心に引っかかった。
「息子が一人います」
頼りなさげな小さな声だった。
「同居されていますか」
「はい」
「でしたら、一度お話ししておいた方がいいと思います。急に具合が悪くなることもありますから」
「そうですね」
良子は、曖昧な口調でそう答えた。
医師は悪い人ではない。必要なことを言ってくれている。良子にも、それは分かっていた。家には息子の斗真がいる。当然病状は話しておいた方がいい。何かあった時には、救急車を呼んでもらわなければならないし、薬の場所も知っておいてもらったほうがいい。
医師が言っていることは、どれもその通りだと思う。
しかし、正しいからと言って、すぐにはできない事もある。
「息子さん、お仕事のほうは?」
「今は、家にいます」
良子は短く答えた。
医師はそれ以上は聞かなかった。カルテに何かを打ち込み、次の予約日の説明をしてくれた。良子はその日付を手帳に書き写す。手帳の中が、またひとつ病院の予定で埋まった。
会計を済ませ、病院を出た時には、辺りはもう暗くなり始めていた。
冬の日は短い。街灯に照らされた病院の玄関前には、タクシーを待つ人や、迎えに来た家族を探す人が何人か立っている。良子は傘を開き、薬局へ向かった。昼から降っていた雨はまだやんではいない。傘からはみ出した雨粒と冷たい空気が少し身にしみた。
病院の向かいにある薬局の中へ入ると、暖房のきいた空気が頬に当たった。いつもの様に処方箋を渡し、椅子に座る。待っている人は多くなかった。テレビでは夕方のニュースが流れている。画面下の天気予報の小さな文字は、明日の朝はさらに冷えると伝えていた。
良子は鞄から財布を出し、薬の手帳を膝の上に置いた。
その時、スマートフォンが少し振動した。
画面を見ると、スーパーのポイント通知だった。
良子は通知を消して、そのまま連絡先の一覧を開いた。特に意識はしていなかったが、思わず指が勝手に動いた。
斗真。
名前はすぐに見つかった。
何年も前に登録したままの名前は、今もまだ消えていなかった。
電話をかけたら、出るだろうか。
そもそも、斗真が今も携帯電話を持っているかも分からない。
万が一、もしつながったとして、何を言えばいいのだろう。
お母さん、今日病院でね――
そう話し始める自分を想像してみた。斗真は黙るだろうか。面倒そうにするだろうか。怖くなって、途中で切ってしまうだろうか。
想像の中の斗真は、いつも扉の向こうにいた。
「佐藤良子さん」
不意に名前を呼ばれて画面を閉じる。膝に置いた鞄を持ち直し、カウンターへ向かう。薬剤師の女性が、薬の袋を一つずつ並べてくれた。
「今回から、こちらのお薬が追加になっています。朝食後に一錠ですね」
「はい」
「今までのお薬と一緒に飲んでいただいて大丈夫です。もし気分が悪くなったり、ふらつきが強く出たりした場合は、病院へ連絡してください」
「分かりました」
「お薬、少し増えますけど、飲み忘れは大丈夫ですか」
「たぶん、大丈夫です」
いつものように薬剤師は過剰な気遣いの言葉をかけてくる。良子は笑って答えるしかなかった。
薬剤師も笑った。
「飲む時間が分かるように、袋に大きく書いておきますね」
「ありがとうございます」
薬を受け取り、支払いを済ませる。
薬局を出た時、手に下げた袋がいつもより重く感じられた。しかし薬一つで、さほど重さが変わるはずはない。本人も、それが気持ちの問題であると分かっていた。
駅へ向かう途中、よく診察の帰りに立ち寄るスーパーがある。
いつものくせで自然と足が向いた。鍋物の季節だからだろう、入口の近くにある野菜売り場には、大根や白菜が目立つように並んでいる。
良子はかごを持ち、野菜売り場を素通りして卵売り場へと向かった。
卵を一パック。牛乳を一本。豆腐はまだ冷蔵庫にあったはずだ。玉ねぎも残っている。明日の朝もいつもの様に味噌汁と目玉焼きでいい。
良子は卵のパックを手に取ったまま、少し考えた。
昔の斗真は、黄身が半熟の方が好きだった。小学生のころ、黄身を箸で割って、ご飯にのせるのが好きだった。良子が「お行儀が悪い」と言うと、「これが一番おいしいんだよ」と言って笑った。
今はどうだろうか――
気がつけば最近は固めの目玉焼きばかりを作っている気がする。部屋の前に置いておくだけなら、その方がいい。半熟だと傷みやすいからだ。
いつからか、良子は斗真の好みではなく、部屋の前に置いても困らないものを考えるようになっていた。
続けて今度は菓子パン売り場の前で足を止める。
最近は雑になってしまっている斗真のお昼ご飯は、気がつくといつも菓子パンになっていた。
特価の値札がついているチョコ入りと、クリーム入りのパン。斗真はどちらを好んで食べるのだろうか。それも言葉を交わさなければ分からない。分からないので二つとも、かごに入れた。
レジを済ませ、買ったものを布の袋へ詰める。牛乳を下に入れ、卵は上に置いた。薬の袋は鞄の奥へ入れる。濡れないように、タオルで包んだ。
スーパーを出ると、駅前の道は思いのほか混雑していた。
雨なので帰宅する人たちが普段よりも早く家路へと急いでいるのだろう。スーパーからほんの少し歩けば改札へ向かう階段が見えてくる。そこまで行けば、あとは電車に乗るだけだ。二駅乗って、団地まで歩けば30分ほどで家に着く。
いつもの道のりだ。
ただ、その日は何故か階段の前で突然足が重たくなった。
それが病気のせいで無いことは良子にも分かっていた。足を動かせば階段も上れるし、誰かに助けてもらう必要もない。
ただ――今の気持ちのままでまっすぐ家に帰る気になれなかった。
どこかで気晴らしでもしよう――そう考えると、良子の足は自然と人の流れから外れ、改札とは反対側の道へ向かった。
たまには喫茶店かどこかで美味しいケーキでも――そう思って、駅前の通りから一本横へそれた。
道を脇にそれるだけで、辺りは急に静かになった。閉まったシャッターが続き、たまに開いている居酒屋を見つけると、中からはほんのりと出汁と油の匂いが漂ってきた。
しかし、この裏通りに気の利いた喫茶店などありそうもなかった。
傘を持つ手が疲れてきたので、とりあえず良子は軒のある場所を探した。
古い雑居ビルの前で足を止める。
一階は雰囲気の良さそうな喫茶店だった。しかし、店の中は薄暗く奥にぼんやりと明かりが灯っているだけで、入口に小さく閉店の看板がかかっている。
次に病院へ行った時の楽しみにと、良子は明かりの消えた店内を覗き込んでいると、その横に、二階へ上がる細い階段がある。
踊り場の上に、丸い電灯がついていた。
良子はその明かりを見上げた。
何の店だろう。そう思ったら足が勝手に階段を登っていた。もちろん店の中に入ろうとまでは思っていない。ただ、一瞬興味が湧いただけだった。
階段を上り、二階の扉の前まで来ると、木の板に書かれた文字が見えた。
異世界転生相談所。
良子は、その怪しい看板の文字に自分の目を疑った。
異世界転生相談所?
目をこすってもう一度見ても、確かにそう書いてある。
若い人向けの店だろうか。占いか、ゲームに関係した何かかもしれない。そう考えてみたが、わざわざ中に入ってまで確かめる勇気はなかった。
帰ろう。
そう思った時、扉の向こうで物音がした。




