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MURDER HERO  作者: あああ
序章
3/7

3話 薄れた絶望

暗い。


どこまでも、底の見えない暗闇だった。


音もないはずなのに、どこかで“何か”が滴るような音だけが、規則的に響いている。


ぽた、ぽた、と。


まるで血のような、重たい音。


「……なんで」


声がした。


すぐ近くで。


耳元に直接流し込まれるような、逃げ場のない声。


「なんで、守ってくれなかったの?」


心臓が跳ねる。


身体が強張る。


振り向きたくない。


振り向けば、そこに“いる”と分かってしまうから。


それでも、身体は勝手に動いた。


ゆっくりと、ぎこちなく、後ろを振り返る。


そこにいたのは――


朝霧ひよりだった。


いや、違う。


それは、ひよりの“形をした何か”だった。


顔は潰れ、骨格が歪み、片側は原型を留めていない。片目は失われ、もう片方は焦点の合わないままこちらを見ている。


口元は裂け、そこから血が絶えず流れ続けている。


それでも、声だけは確かにひよりだった。


「ねぇ、慧」


一歩、近づいてくる。


ぐちゃ、と足元で何かが潰れる音がした。


「ちゃんと約束したよね。あのとき、あんなに真剣な顔で、“()()()()()”って言ってくれたよね。あれって、嘘だったの?」


「……やめろ……」


慧は小さく首を振る。


「嘘じゃないって言うならさ、どうして来るのが遅かったの?どうして、あと一歩が届かなかったの?どうして、私があんな風になるまで、何もできなかったの?」


一歩。


また一歩。


距離が縮まる。


「やめてくれ……それ以上……」


声が震える。


「怖かったんだよ、慧。ねぇ、分かる?体が潰されていく感覚。骨が折れて、内側から何かが溢れてきて、自分が壊れていくってはっきり分かるあの感じ」


「やめろ……」


「痛かった。すごく痛かった。苦しかった。息もできなくて、声も出せなくて、それでも意識だけは残ってて、“あ、これで終わるんだ”って分かるの」


「やめろって言ってんだろ!!」


叫ぶ。


だが、止まらない。


ひよりは、すぐ目の前に立っていた。


「……でもね」


静かに、ひよりは言う。


「一番つらかったのはね」


顔を、ゆっくりと近づける。


「慧が来てくれなかったことだよ」


「……っ……」


息が詰まる。


「ねぇ、なんで助けてくれなかったの?」


冷たい手が、慧の首に触れる。


「なんで、私だけ死んだの?」


力が、こもる。


「なんで、慧は生きてるの?」


締められる。


呼吸ができない。


「……ぁ……っ……!」


「ねぇ」


耳元で囁かれる。


「――代わってよ」


---


「……おい」


遠くから声がする。


「東雲、起きろ」


肩を揺らされる。


「……っ!!」


慧は勢いよく目を開けた。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」


呼吸が荒い。


心臓が暴れるように鳴っている。


首元に手を当てる。


まだ、締められていた感覚が残っている。


「……またうなされてたな」


杉岡が、少し呆れたように言った。


「お前、さっきからずっと苦しそうな顔してたぞ。寝すぎだろ、ほんとに」


慧はすぐに返事ができなかった。


夢の内容が、あまりにも鮮明で、現実との境界が曖昧になっている。


「……大丈夫か」


杉岡が少しだけ声を落とす。


慧はゆっくりと頷いた。


「……はい……大丈夫です……ちょっと、嫌な夢を見ただけで……」


「そうか」


それ以上、杉岡は踏み込まなかった。


「……着いたぞ」


車が止まる。


---


アパートは古かった。


壁は少し色褪せ、階段は歩くたびに軋む音を立てる。


「ここだ」


杉岡が鍵を差し込み、ドアを開ける。


「……入れ」


慧は中へ入る。


部屋は簡素だったが、生活に困ることはなさそうだった。


「……ここ……本当にいいんですか」


慧が遠慮がちに言う。


杉岡は肩をすくめる。


「どうせ俺は使ってない。元々ここに住んでただけだしな。放っておくくらいなら使った方がマシだ」


部屋を一度見渡す杉岡。


その視線には、ほんの少しだけ過去を思い出すような色が混じっていた。


「……いいか」


玄関に向かいながら、杉岡が言う。


「金は毎週どっかで渡す。最低限の生活はできるようにはしてやる。ただし、それに甘えるな」


振り返る。


「ずっと何もしないでいると、余計に考えることになる。そういうのは、だいたいろくな結果にならない」


慧は黙って聞いていた。


「だからバイトくらいはしろ。体動かして、頭使って、無理やりでも日常に戻れ」


少しだけ間を置いて、


「……それが一番、マシなやり方だ」


静かに言った。


「……はい……」


慧は小さく頷く。


杉岡は軽く手を振った。


「じゃあな」


そのまま出ていく。


ドアが閉まる。


---


静寂。


「……っ……」


慧はその場に立ち尽くした。


夢の感覚が、まだ消えない。


「……なんで……」


声が漏れる。


「……なんで守れなかったんだよ……」


膝が崩れる。


そのまま床に座り込む。


「……助けるって言ったのに……絶対って言ったのに……」


涙が溢れる。


止まらない。


声が出ない。


ただ、嗚咽だけが漏れる。


---


一年が経った。


---


生活は、ゆっくりと形を取り戻していった。


最初は何もできなかった。


何をしても、頭の中にはあの日の光景が浮かぶ。


それでも、働いた。


バイトを始めた。


最初は声も出なかった。


「……い、いらっしゃいませ……」


それでも続けた。


続けるしかなかった。


何もしていないと、全部思い出してしまうから。


夜になると夢を見る。


何度も。


何度も。


同じ夢を。


それでも――


「……いらっしゃいませ!」


いつの間にか、普通に言えるようになっていた。


笑えるようにもなっていた。


だが、完全に消えることはなかった。


テレビで“心喰”のニュースを見るたび、


胸の奥が強く締め付けられる。


「……っ……」


息が詰まる。


それでも、目を逸らさない。


「……次は……」


小さく呟く。


「次は、ちゃんと守れるように……」


そのために、慧は杉岡に頼んだ。


「……少しでいいので、俺に戦い方を教えてください。あのときみたいに、何もできないまま終わるのは……もう、嫌なんです」


杉岡はしばらく黙っていたが、


「……基礎だけだ」


そう言った。


エデン素による身体強化。


ほんのわずかな技術。


それでも、確かな変化を感じた。


---


ある日。


バイト帰り。


ドアの前に立つ。


「……ん?」


鍵が開いている。


警戒しながらドアを開ける。


中にいたのは――


「よっ!」


ソファでくつろぐ杉岡だった。


「……びっくりするじゃないですか。普通に侵入者かと思いましたよ」


慧が少し呆れたように言う。


「またお金ですか?正直、もう生活は安定してきてるんで、そこまで気にしなくても大丈夫ですよ」


杉岡は片手を軽く振る。


「それはついでだ」


天井を見ながら言う。


「今日はただ休みに来ただけだ。あっちは息が詰まる」


「断罪執行機関ってそんなに厳しいんですか」


「厳しいっていうか、面倒だな。規律だの任務だの、いちいちうるさい」


少しだけ笑う。


「まあ、それが仕事だから仕方ないが」


慧は少し安心したように笑う。


「……次の任務はどうなんですか」


杉岡は即答した。


「楽勝だな」


「ほんとに言ってます?」


「俺が負けると思うか?」


「……思いませんけど、そういうのって油断してると危ないじゃないですか」


杉岡は鼻で笑う。


「心配すんな。俺はそんなヘマしない」


少しの沈黙。


穏やかな時間。


やがて杉岡は立ち上がる。


「……そろそろ行く」


玄関へ向かう。


慧が言う。


「……ほんとに大丈夫なんですか」


少し笑いながら。


杉岡は振り返る。


そして、ニカッと笑った。


「だいじょうぶだって」


軽く手を振る。


「お前こそ、ちゃんと生きろよ」


そう言って、出ていった。


---


夜。


車が止まる。


人気のない道。


小さな女の子が立っている。


窓が開く。


「……おおお……じょうちゃん……」


歪んだ声。


「……おかしいいいんるるるる……?」


細い手。


その上に、飴。


女の子は迷う。


それでも、手を伸ばす。


その瞬間。


引き込まれる。


音もなく。


車は、静かに走り出した

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