3話 薄れた絶望
暗い。
どこまでも、底の見えない暗闇だった。
音もないはずなのに、どこかで“何か”が滴るような音だけが、規則的に響いている。
ぽた、ぽた、と。
まるで血のような、重たい音。
「……なんで」
声がした。
すぐ近くで。
耳元に直接流し込まれるような、逃げ場のない声。
「なんで、守ってくれなかったの?」
心臓が跳ねる。
身体が強張る。
振り向きたくない。
振り向けば、そこに“いる”と分かってしまうから。
それでも、身体は勝手に動いた。
ゆっくりと、ぎこちなく、後ろを振り返る。
そこにいたのは――
朝霧ひよりだった。
いや、違う。
それは、ひよりの“形をした何か”だった。
顔は潰れ、骨格が歪み、片側は原型を留めていない。片目は失われ、もう片方は焦点の合わないままこちらを見ている。
口元は裂け、そこから血が絶えず流れ続けている。
それでも、声だけは確かにひよりだった。
「ねぇ、慧」
一歩、近づいてくる。
ぐちゃ、と足元で何かが潰れる音がした。
「ちゃんと約束したよね。あのとき、あんなに真剣な顔で、“絶対助ける”って言ってくれたよね。あれって、嘘だったの?」
「……やめろ……」
慧は小さく首を振る。
「嘘じゃないって言うならさ、どうして来るのが遅かったの?どうして、あと一歩が届かなかったの?どうして、私があんな風になるまで、何もできなかったの?」
一歩。
また一歩。
距離が縮まる。
「やめてくれ……それ以上……」
声が震える。
「怖かったんだよ、慧。ねぇ、分かる?体が潰されていく感覚。骨が折れて、内側から何かが溢れてきて、自分が壊れていくってはっきり分かるあの感じ」
「やめろ……」
「痛かった。すごく痛かった。苦しかった。息もできなくて、声も出せなくて、それでも意識だけは残ってて、“あ、これで終わるんだ”って分かるの」
「やめろって言ってんだろ!!」
叫ぶ。
だが、止まらない。
ひよりは、すぐ目の前に立っていた。
「……でもね」
静かに、ひよりは言う。
「一番つらかったのはね」
顔を、ゆっくりと近づける。
「慧が来てくれなかったことだよ」
「……っ……」
息が詰まる。
「ねぇ、なんで助けてくれなかったの?」
冷たい手が、慧の首に触れる。
「なんで、私だけ死んだの?」
力が、こもる。
「なんで、慧は生きてるの?」
締められる。
呼吸ができない。
「……ぁ……っ……!」
「ねぇ」
耳元で囁かれる。
「――代わってよ」
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「……おい」
遠くから声がする。
「東雲、起きろ」
肩を揺らされる。
「……っ!!」
慧は勢いよく目を開けた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
呼吸が荒い。
心臓が暴れるように鳴っている。
首元に手を当てる。
まだ、締められていた感覚が残っている。
「……またうなされてたな」
杉岡が、少し呆れたように言った。
「お前、さっきからずっと苦しそうな顔してたぞ。寝すぎだろ、ほんとに」
慧はすぐに返事ができなかった。
夢の内容が、あまりにも鮮明で、現実との境界が曖昧になっている。
「……大丈夫か」
杉岡が少しだけ声を落とす。
慧はゆっくりと頷いた。
「……はい……大丈夫です……ちょっと、嫌な夢を見ただけで……」
「そうか」
それ以上、杉岡は踏み込まなかった。
「……着いたぞ」
車が止まる。
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アパートは古かった。
壁は少し色褪せ、階段は歩くたびに軋む音を立てる。
「ここだ」
杉岡が鍵を差し込み、ドアを開ける。
「……入れ」
慧は中へ入る。
部屋は簡素だったが、生活に困ることはなさそうだった。
「……ここ……本当にいいんですか」
慧が遠慮がちに言う。
杉岡は肩をすくめる。
「どうせ俺は使ってない。元々ここに住んでただけだしな。放っておくくらいなら使った方がマシだ」
部屋を一度見渡す杉岡。
その視線には、ほんの少しだけ過去を思い出すような色が混じっていた。
「……いいか」
玄関に向かいながら、杉岡が言う。
「金は毎週どっかで渡す。最低限の生活はできるようにはしてやる。ただし、それに甘えるな」
振り返る。
「ずっと何もしないでいると、余計に考えることになる。そういうのは、だいたいろくな結果にならない」
慧は黙って聞いていた。
「だからバイトくらいはしろ。体動かして、頭使って、無理やりでも日常に戻れ」
少しだけ間を置いて、
「……それが一番、マシなやり方だ」
静かに言った。
「……はい……」
慧は小さく頷く。
杉岡は軽く手を振った。
「じゃあな」
そのまま出ていく。
ドアが閉まる。
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静寂。
「……っ……」
慧はその場に立ち尽くした。
夢の感覚が、まだ消えない。
「……なんで……」
声が漏れる。
「……なんで守れなかったんだよ……」
膝が崩れる。
そのまま床に座り込む。
「……助けるって言ったのに……絶対って言ったのに……」
涙が溢れる。
止まらない。
声が出ない。
ただ、嗚咽だけが漏れる。
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一年が経った。
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生活は、ゆっくりと形を取り戻していった。
最初は何もできなかった。
何をしても、頭の中にはあの日の光景が浮かぶ。
それでも、働いた。
バイトを始めた。
最初は声も出なかった。
「……い、いらっしゃいませ……」
それでも続けた。
続けるしかなかった。
何もしていないと、全部思い出してしまうから。
夜になると夢を見る。
何度も。
何度も。
同じ夢を。
それでも――
「……いらっしゃいませ!」
いつの間にか、普通に言えるようになっていた。
笑えるようにもなっていた。
だが、完全に消えることはなかった。
テレビで“心喰”のニュースを見るたび、
胸の奥が強く締め付けられる。
「……っ……」
息が詰まる。
それでも、目を逸らさない。
「……次は……」
小さく呟く。
「次は、ちゃんと守れるように……」
そのために、慧は杉岡に頼んだ。
「……少しでいいので、俺に戦い方を教えてください。あのときみたいに、何もできないまま終わるのは……もう、嫌なんです」
杉岡はしばらく黙っていたが、
「……基礎だけだ」
そう言った。
エデン素による身体強化。
ほんのわずかな技術。
それでも、確かな変化を感じた。
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ある日。
バイト帰り。
ドアの前に立つ。
「……ん?」
鍵が開いている。
警戒しながらドアを開ける。
中にいたのは――
「よっ!」
ソファでくつろぐ杉岡だった。
「……びっくりするじゃないですか。普通に侵入者かと思いましたよ」
慧が少し呆れたように言う。
「またお金ですか?正直、もう生活は安定してきてるんで、そこまで気にしなくても大丈夫ですよ」
杉岡は片手を軽く振る。
「それはついでだ」
天井を見ながら言う。
「今日はただ休みに来ただけだ。あっちは息が詰まる」
「断罪執行機関ってそんなに厳しいんですか」
「厳しいっていうか、面倒だな。規律だの任務だの、いちいちうるさい」
少しだけ笑う。
「まあ、それが仕事だから仕方ないが」
慧は少し安心したように笑う。
「……次の任務はどうなんですか」
杉岡は即答した。
「楽勝だな」
「ほんとに言ってます?」
「俺が負けると思うか?」
「……思いませんけど、そういうのって油断してると危ないじゃないですか」
杉岡は鼻で笑う。
「心配すんな。俺はそんなヘマしない」
少しの沈黙。
穏やかな時間。
やがて杉岡は立ち上がる。
「……そろそろ行く」
玄関へ向かう。
慧が言う。
「……ほんとに大丈夫なんですか」
少し笑いながら。
杉岡は振り返る。
そして、ニカッと笑った。
「だいじょうぶだって」
軽く手を振る。
「お前こそ、ちゃんと生きろよ」
そう言って、出ていった。
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夜。
車が止まる。
人気のない道。
小さな女の子が立っている。
窓が開く。
「……おおお……じょうちゃん……」
歪んだ声。
「……おかしいいいんるるるる……?」
細い手。
その上に、飴。
女の子は迷う。
それでも、手を伸ばす。
その瞬間。
引き込まれる。
音もなく。
車は、静かに走り出した




