第10話:生まれし魂
雨の滴が、暗く沈んだ雲から落ち始め、水面に跳ね返った一粒一粒が、横たわるムザの顔に垂れていった。
水が顔の半分を洗い流したころ、ムザは目を開けた。うめきながら起き上がろうとした。痛みが全身を駆け巡っていたが、限界に達するまで体を無理に動かした。
膝が揺れ始め、地面には、あらゆる窪みに泥水がたまっていった。まだ地面に横たわっているオワが見えた。
関節のいくつかがかなりひどくずれているのがわかった。
残った力を振り絞って歩き出したが、オワのすぐ隣で地面に倒れ込んだ。
「オワ……オワ……起きろよ、オワ」
「おじさん、どこにいるんだ?オワを助けてくれ」
「ひげおやじ!」ムザは何度も叫んで叔父に助けを求めたが、返事はいっこうになかった。
だがムザは、そのまま諦めはしなかった。オワを背中におぶろうとした。試すうちに何度か滑って転んだが、それでも力の限り大声で叫びながら試し続けた。
8回目の試みで、ようやく猿を背負うことができた。猿の腕を自分の首に巻きつけ、しっかりつかまる支えにした。
ムザは、昨夜自分が殺したジンのいた場所のほうを見た。だが、そこに見えたのは死体ではなく、代わりに黒い灰が残されているだけだった。
ジンの血の跡はまだ地面に広がり、熱い蒸気を立てていた。
このとき、ムザはジンが何なのか、そして彼らが何者なのかを悟った。
叔父がなぜ今まで一度もそれを語らなかったのか、なぜ今になって突然、生まれて から一度も見たことのないものを見せたのかも悟った。
まるで、これまでムザが見てきた明るい世界は、巨大な鳥かごの中から聞こえてきた戯言にすぎなかったかのようだった。
今回の登山では、ムザは持てる荷が重すぎて、いくつかの備えを置いていかざるを得なかった。残っていた食料も、いくつかはもう食べられる状態ではなかった。
ムザが知らなかった事実が一つあった。彼は6日間も眠り続けていたのだ。ジョルダが流し込んだ霊力の使用が、彼の体に耐えられないほどの重い負荷をかけていた。
そのため、この登山は力や持久力だけに頼るものではなく、意志と、いつか訪れる奇跡に懸けるものになった。
今のムザは、一歩ごとに何本の木を越えたかなど、もう気にしていなかったのかもしれない。頭にあるのは、ただこれだけだった。「一歩は生きるため、一歩は生きるため、一歩は生きるため」
鳥たちは雲の上を飛び、下を歩くムザと並んでいた。叔父の試練を終えようとする少年を、励ましているかのようだった。
木の葉は風に吹かれて舞い始め、オワはなおも意識を失ったまま、生きているのか死んでいるのか、誰にもわからなかった。
時はあっという間に流れていったが、雨はいっこうに止まなかった。太陽は月に替わり、そしてまた日の出に替わった。
丸一日、ムザは歩き続けた。体は折れる寸前の木の枝のように痩せ細っていったが、その目の鋭い光は消えなかった。
やがて、上のほうから激しい滝の音が聞こえてきた。ムザは顔を上げ、丘の頂がもうすぐ目の前にあるのを見た。山頂にほとんど手が届くところまで来ていた。
「一歩ずつ……頼む……」
ムザはついに丘の頂に着いた。そこには、建てられたばかりのような小さな小屋が一つあり、叔父は少し高くなった岩の間に座っていた。
「よう、坊主。おめでとう」ジョルダはそう言って、跳び下りてムザに近づいた。
だがムザはゆっくりとオワを背から下ろし、すばやく叔父に向かって進み出た。
まだ傷痕の残る右手で、叔父の顔を強く殴った。
「このひげおやじ、ぼくを殺す気か――」ムザの拳はたちまち力を失い、叔父の腕の中に倒れ込んだ。
「ああ、お前の叔父は確かに、ろくでなしだ」
ジョルダはゆっくりと二本の指を、猿のオワのほうへ向けた。
霊力で猿の体を持ち上げ、薬草がいくつも入れられた水をたたえた池へ、ゆっくりと入れた。池はちょうど滝のところにあった。
その間、ジョルダはムザを抱えたまま、激しい滝の流れの下を素早く歩き、ムザの体を、激しい水流の下で座禅を組む姿勢にさせた。
ジョルダは両手を合わせ、胸の真正面に置いた。ゆっくりと、濃密な霊力が辺りを巡り、丘の頂を美しく取り巻いて、虹が一つできるほどだった。
「バティン・開門」
ジョルダは手のひらを返し、ムザの背中に、押すような動きで叩きつけた。意識のないムザの体がびくりと跳ね、どす黒い血を吐いた。
魂から出た残りかすだった。
ムザの体から、すぐに強い風が吹き出した。まるで魂が自然に洗われているかのようだった。
丘の岩が一つ、また一つと崩れ落ち、いくつかの木が倒れて下へ転がり、頂で地すべりが起きた。
務めを終えたジョルダは、ゆっくりと手を引き、滝に打たれ続けるムザを残して立ち去った。歩きながら、ジョルダはつぶやいた。
「この先は、お前に任せる、ムザ」
今、ムザには何も見えなかった。すべてが暗く、周りにはわずかな光さえなかった。
「ぼくは、もう死んだのか?」
ムザは周囲を手探りしてみたが、何も感じ取れなかった。空っぽの空気のように、虚ろで、あまりにも空虚だった。
「ぼくの運命は、こんなものなのか?はあ……まったく、思いもしなかった」
少年は虚無の中に身を横たえ、観念したようにゆっくりと目を閉じた。
だがその瞬間、かすかに波の音が聞こえ、浜辺のカモメの鳴き声が響き始め、大きな 光がどこからともなく突然現れたかのようだった。
ムザは反射的に目を開け、周囲を見回した。その部屋はすっかり変わっていて、幼いころに夢見た世界のようだった。
その世界の床は、自分の姿を映すほど澄みきったガラスでできていて、その中央には小さな島があり、そのまん中に白い光があった。
ムザは、自分がバティンの核を作り出したことを知らなかった。だから、足を踏み しめているその世界こそ、ほかならぬ自分自身のバティンの世界だった。
少年はゆっくりと、回り続ける白い球の渦へ近づいた。その周りには、薄い霊力が球を取り巻き始めているのが見えた。
だが近づくにつれ、球の周りに熱気を感じ始め、ムザは滝のように汗をかいた。そ の球が何なのか知りたかったが、近づけば近づくほど、皮膚がどんどんはがれていった。
突然、その世界の大地が、地震のように激しく揺れた。いくつもの岩がゆっくりと島を取り囲み、砦のようにそれを守った。
目の前の3つの岩には、それぞれ一語だけを説明する文字が刻まれていた。ジ=思考、ロ=心、ス=魂。
ムザにはそれらの意味がわからなかったが、今は本当の体へ戻らなければならなかった。その間にも、焼けた皮膚は、ひとりでに治り始めていた。
「出ろ!!!」
「目を覚ませ!!!」
「体!!!」ムザは叫び、自分を目覚めさせようとした。
それでも何も起こらなかった。ムザは、そんなばかげた言葉を叫ぶのをやめ、ほかの方法を探した。
少しずつ、目の前の岩を読み進めた。習ったことのない文字なのに、なぜかその文字は自らの意識を持っているようで、ムザを選んで、自分の意思で読ませているかのようだった。
時間はそのまま過ぎていき、ムザは自分の世界にある謎を解き続けた。最初に入ったとき、波の音が聞こえ、次に鳥、そして光が来たのを思い出した。
「うーん、この3つの意味と関係があるのか?」
「鳥が上、光が真ん中、波が下……もしかして――」
ムザはゆっくりと試した。座禅を組み、霊力を思考に集中させてから、心へと下ろした。だが霊力を心へ流そうとしたとき、霊力の衝撃で弾き飛ばされた。
別の方法で、魂から心へ流し込んでみたが、またしても弾き飛ばされた。ムザは頭をかくしかなかった。どこが間違っているのか。
そして最後にもう一度試した。心にそっと意識を集中させ、静かな思考で霊力を流し、魂の中にある真実のために流した。
白い光が体から爆ぜ、破れていた服は元のとおりに戻り、見えない右目には、やわらかな滝がそこに流れ込んでいるかのように、かすかな冷たさが感じられた。
「出ろ!!!」
最後にムザが叫ぶと、周囲の空気が波打ち、意識は本当の体へ戻った。体は、最後に見たときと同じく、滝の下で座禅を組んだままだった。
だが、肌はいつもより少しきれいになっていて、目の前では、叔父がオワと、そのリンゴで遊んでいた。
ジョルダは、6か月ぶりに目を開けたムザを見つめた。
「お帰り、ガキ」




