第一話 花びら
この村の女は、みんな足りない。
足りないから、男を呼ぶ。
呼んで、迎えて、朝になったら送り出す。
母と姉は、そのいちばん目立つ看板だった。
母の口癖は、あたしが覚えているかぎりずっと同じだ。
「男は、女のいちばんの滋養やろ」
――ある朝、あたしは母の部屋の戸を開けた。
母はいない。
寝床に散っていたのは、花びらだけ。
姉はそれを両手ですくい上げて、笑った。
「増えた。うちの種花が、また増えた」
*
その半月前。
夜のあいだ中、村には声が浮いている。
戸の向こうから、板の隙間から、どこの家からも。
朝の日が屋根に当たると、それが一度に止む。
止んだあとの薄い耳鳴りで、あたしはいつも目を覚ます。
夜明けに、男が二人、母と姉の部屋から出てきた。
一人は帯を結び直しながら歩き、もう一人は下駄を片方しか履いていない。
井戸端で立ち止まって、昨夜どちらがよかったという話をしている。
声を落とす気はないらしい。
あたしは桶を提げて、その横を通った。
「おい、まだもう一人いるぞ」
「そっちは若すぎるだろう」
「若いのがいいんだよ」
笑い声。
あたしは足を止めない。
下駄の男が振り向きざま、袂から何かを落とした。
銀色の、小さな箱。
掌に入るくらいの。
あたしは桶を置いて、それを拾う。
拾って、袖に落とした。
男は気づかない。
坂を下りていく背中が、朝の靄に溶けていった。
井戸のつるべは、片方だけ去年替えた。
新しいほうの木の色が、どうやっても合わない。
誰も直そうとは言わない。
井戸端には、もう女が三人集まっていた。
「昨日のは、当たりやった?」
「途中で帰ってしもた。次の家に呼ばれたとか言うて」
「あんたとこの戸、朝まで鳴っとったけどねえ」
「鳴らしとかんと、来てくれんやろ」
笑い声が水の音に混ざる。
「なずなちゃんは?」
一人がこちらを向いた。
悪気はない。
この村では、天気の話と同じ種類の問いだ。
「まだ」
「まだって、あんた十八やろ」
「うちの娘なんか、去年のうちに五人連れて帰ってきたわ」
「五人は多いて」
「多いことないよ。多いほうが、早う終わる」
早く終わる。
何が終わるのかは、誰も言わない。
あたしは桶に水を張って、その輪から抜けた。
*
母の部屋は、まだ夜の匂いが残っていた。
窓は開けない。
母が嫌がる。
母は寝床に投げ出されたまま、掛け布も引かずに、窓の外を見ている。
「母さん。拭くね」
返事の代わりに、喉の奥で短い音がした。
それが「ええよ」の意味だと、あたしは知っている。
湯を絞って、肩から拭く。
白い。
どこも白い。
娘を二人産んだ体には見えないと、村の女たちは言う。
その白さの上に、昨夜の指の痕が浮いていた。
腕に四つ、脇腹に一つ。
押さえつけた側の形が、そのまま残っている。
あたしは指の股まで拭く。
爪のあいだも拭く。
匂いを一つ残らず落としてしまいたくて、湯を三度替えた。
母はされるままでいる。
痛いとも、冷たいとも言わない。
鎖骨のくぼみに、紅い黒子が一つある。
濡れた布がそこを通ったとき、母の喉が鳴った。
体が、風に押された草の動きをする。
あたしは布を止めた。
「母さん。それだと拭けない」
母は声を止めて、こちらを向く。
近くで見ると、やっぱりきれいな顔をしている。
男が坂を上がってくる理由がこの顔だということは、あたしにもわかる。
「うちの末っ子は、いつになったら開くんやろ」
「……うん」
「うんやない」
母は笑った。
「志乃はもう開いたやろ。あんた一人、いつまでも水やりばっかりして」
あたしは湯を替えに立つ。
立ったついでに、答えを考えた。
「あたしのことは、男の人が見ないから」
嘘だ。
坂を上がってくる男は、あたしのことも見る。
見たうえで、母か姉のほうへ行く。
そっちのほうが早いからだ。
「そんなん、簡単やろ」
母は枕に頬を預けた。
「大雨の日にな、林で濡れて待っとき。
そのうち、かわいそうやと言うて傘を差しかけてくる男がおる。
あとは、ついていったらええ」
「……うん」
「うんばっかりやね」
母は息を吐いて、目を閉じた。
「まあ、ええわ。うちと志乃で、あんた一人ぐらい食わせられるやろ」
それから思い出したように、枕の下から小さな包みを出してきた。
「これ、食べとき」
町の菓子だった。
村では、誰も物を食べない。
朝の日が差すあいだに露を飲む。
それで足りる。
村の女たちは、それで足りる。
あたしは足りない。
包みを袖に入れた。
銀色の箱の隣に。
*
「なずな。遅い」
姉の部屋は、母の部屋より暗い。
昼でも雨戸を半分閉てている。
姉は寝床に腹ばいになって、足の裏をこちらに向けていた。
「ねえ、もう少し優しく拭いてよ」
「痛い?」
「痛くない。優しいほうが好きなだけ」
姉の肌は母より薄い。
その分、痕がよく出る。
肩甲骨のあたりに、歯の痕が二つ並んでいた。
「昨日の人、当たりだった?」
「悪くない。顔はいい。でも雑」
「雑って」
「痕の付け方。急いでる人は、だいたい雑」
姉は枕に顎を乗せたまま、目だけ動かす。
「三日前の人のほうがよかったな。あれは味が濃かった」
姉は男を菜で数える。
濃い、薄い、脂っこい、後を引く。
ひと月前まで、姉は男の話を一度もしなかった。
「姉さん」
「なに」
「……面倒なことには、ならないの」
姉が笑った。
枕に頬を潰したまま、鼻から抜けるような笑い方をする。
「ならないよ。向こうが来たがってるんだから」
「でも」
「ねえ、なずな。あんた、この村で誰に食べさせてもらってると思ってるの」
これは、怒っているときの呼び方だ。
あたしは布を替えて、腰から下を拭いた。
「姉さん。痛かったら言って」
「痛いって、なずなに言ってどうなるの」
「……湯を、ぬるくする」
「じゃあ、ぬるくして」
「一人だけね」
背中から声がした。
「わたしの体に、痕を残さなかった男がいた」
「……うん」
「それだけ。忘れて」
拭き終わって、桶を持って立つ。
足元に、乾いた花びらが一枚落ちていた。
小さいころ、姉はこれをよくあたしの口に入れた。
甘いよ、と言って。
甘くなかった。
噛むと舌の奥が痺れて、水を飲んでも取れない。
あたしが吐き出すたび、姉は怒りもせずに、もう一枚出した。
「ねえ、なずな」
姉は寝返りを打って、天井を見ている。
「わたし、あんたが羨ましいときがあるよ」
「なにが?」
姉は答えない。
笑ってもいない。
「……水やり、行ってきなよ」
「うん」
「行って。ここにいないで」
戸を閉める。
隙間が細くなっていくあいだ、姉はずっとこっちを見ていた。
その目は、男の話をしているときの目ではなかった。




