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欲求の結晶

リビングには、難しい顔で考えを巡らせている三人と、アレっぽい笑顔を向けるアンナ。その笑顔に癒されながらも、笑顔の裏に潜む誘惑に絡め取られそうな僕がいた。

いつものように並んだソファとテーブル、穏やかな照明。だが、空気と会話の密度だけは、どこか異様だった。


「なあ、アンナ。難しい話は分からないし、一緒に寝ようか」


アンナの眉がぴくりと動く。目を瞬かせたあと、すぐに花が綻ぶような笑みを浮かべた。


「はい!ご主人様、すぐに準備いたします」


わずかに身体(からだ)を前のめりにして、浮き立つ声で応じる。

そのアレっぽい無邪気な笑顔の中に、ふいに美しすぎる素体が浮かび上がる。

そして、ベッドで見せる切ない瞳と甘い声——うん、急に恋しくなってきた。

喜ぶアンナと、その気になった僕を止めるように、ラウムが口を開く。


其方(そなた)は何か爺に問うことがあるであろう」


その指がテーブルの上に置かれたグラスに音もなく添えられる。


「でも、なんか、わけの分かんない話になったし、分からない者同士、アンナと寝ようかと思ってさ」

兄様(にいさま)、それは絶対に寝られませんわ」


すかさずレイの声が飛んだ。見ると彼女は呆れたような顔で僕を見つめている。


「レイ、邪魔はいけませんよ。あなたはここで考えて、答えが出たらご主人様に伝えてください」


アンナの声は優しい。その優しい口調で、レイに念を押す。


「明日の朝ですよ。それまでは私がご主人様を慰めていますから、安心して考えてください」


寝室に向かうつもりになっているのか、にこやかな笑顔を振りまくアンナに、ダンタリオンから声がかかる。


「アンナというのかの?良い名じゃ」


その声に応じるように、その顔のいくつかが微かに笑んだ。


「はい、ご主人様に付けていただいた大切な名前です」


胸に手を添える仕草には、ほのかに誇りがにじんでいた。


「アンナも気付いておるじゃろ」

「はい、気付いております。でも、私の全てを受け入れてくださったご主人様を、私はありのままに受け入れますので、何の問題にもなりません」


その言葉は静かで、どこまでも優しかった。

えっ、ちょっと待て。——アンナも知ってるんだ。

あれ、じゃあ分かってないの、僕だけ……?

アレなのは、完全に僕だけじゃないか。


——僕だけアレなのは、少し癪に障るから、ダンタリオンに根本的な疑問を投げてみる。


「そもそも、概念上の存在って何なんだ?」

御館様(おやかたさま)は魔力を知っておるかの」

「感情を貯め込んだものか?」


ダンタリオンは首を小さく横に振る。

首を振ると全部の顔が動くわけだが、その視界はどのように認識されているのだろうか?

不思議に思い首を傾げた僕の目に、真剣な顔で話に聞き入るレイが映った。

僕も真剣に話そう。——ふざけていると後でレイにお仕置きされそうだ。——が、それはそれでご褒美だな。


「それだけに限らん、いわば人間がもつ欲求の形態と考えたほうがよかろう」

「欲求。——僕の場合は感情なだけか」


ということは、悪魔を召喚できるほどの魔力を持つ僕は、膨大な欲求の塊ってことなのか?

人類を滅亡に追い込めるほどに貯め込まれた欲求。——そう考えると、なんか嫌だな。


「然り。感情という欲求を出さずに魔力に変えておるのだろう。強い感情ほど多くの魔力となる」


ダンタリオンは、グラスを傾け、一息ついた。


「では、ワシも御館様に問う」


えっ僕が聞かれるの?——それもなんか嫌だな。


「神は人を創ったと思うか?」

「思わない」

「だが神を敬い崇める者は多い。なぜだと思うかな?」

「そうだな……神の存在を信じているからか?」

「神の存在を信じることは、人間の魔力を神に対して解放する手段じゃ」


じゃあ僕は、ちょっとやそっとでは解放しきれない、極度の欲求不満ってことか?

……それはそれで、なんか嫌だな。


「概念上の存在というのは、言ってみれば人間の想像の中で形作られた者たちじゃ。概念者とでも呼ぶかの。普段は目に見えず、触れることもできんが、存在そのものは確かにしておる」

「それが分からないんだよな。人間の想像の中でこそ成り立つものが、本当に存在できるってことが」


僕はソファに深く腰を預け、ふっと小さな息を吐く。

そんな僕を見て、ダンタリオンは穏やかにうなずいた。


「うむ、ひとりの人間の魔力では存在させるに至らん。だが多くの人間が、同じ想像の存在を信じたら、どうなると思う?」

「多くの魔力が集まってくるか」

「そうじゃ。想像の中で形作られたものに対して、多くの人間が信を寄せ、助力を乞い、祈りを捧げる。そうして解放された魔力が糧となり、そのものは想像から存在に至るのじゃ」


ダンタリオンの声は、どこか感慨深げだった。

僕はただ黙って、それを聞いていた。


「そして一度、存在に至ったものは、意思を持ち、活動をはじめる」

「……おかしな話だな。それで、人間が創造した能力を持つ存在に、人間が助力を乞う手段が魔法陣か」


言葉にした瞬間、リビングの空気がわずかに重くなる。

アンナとレイも、じっとこちらの話に耳を傾けていた。


「聡いの。そうじゃな、だがその話は後にしよう」


ダンタリオンはグラスを傾け、ひと口だけ口を湿らせた。


「重要なのは、ワシら――つまり、ワシやラウムのような者は、人間の概念の中で生まれ、地獄と呼ばれる概念上の世界に『配置』されたということじゃ」

「人間が『悪魔は地獄にいる』と信じたから、そこに収まったってわけか」

「そういうことじゃ。地獄とは『場所』ではなく、『精神的次元にある異世界』に過ぎん。そこにワシらの存在は縛られとる」


今の話の中から、僕の中にひとつの疑問が生まれた。


「その話だと、神と悪魔は同じ存在となるんだが?」

「その通り。全知全能といわれる神とて、人間の概念上に存在し、天界と呼ばれる場所におる。だが、ワシらとは決定的に異なる点がある」

「それは?」

「姿が存在せん」

「神と悪魔が同じ存在って、神職者が聞いたら怒りそうな話だな」

「御館様の知る神道では、善も悪もすべて『神』じゃろう?」

「……待て、それって本当に『存在』するのか?」

「うむ、『姿を持って存在する』のじゃ」


一瞬、ダンタリオンのいくつかの顔が淡く笑ったように見えた。


「なぜ地獄にいるはずの悪魔が、神道の神のことを知ってるんだ?」

「概念上の世界同士は、理の境界が曖昧で干渉し合うことができるんじゃ。行き来はせんが、存在そのものは知り得る」

然様(さよう)であるな。(それがし)は北欧の悪魔と会ったことがあるゆえ、間違いない」


ラウムの口調からすると、彼にとってはそれが常識であるようだった。


「じゃあ、召喚なんて手間を取らなくても、ここに来れるんじゃないのか?」


ダンタリオンはゆったりとした所作で、グラスを静かに揺らしながら、声を落とした。


「それはできんのじゃ」


首を傾げる僕に、ダンタリオンは言葉を続ける。


「現実世界と概念世界は、理を完全に違える異界であり、互いに干渉し合うことはない」


うなずいた僕を見て、ダンタリオンも小さくうなずく。


「概念者が現実世界に渡るには、現実に生きる者の力を借りねばならん」

「……そこに無理やり干渉するのが、召喚魔法か」

「然り。人間は概念上に存在する者、まぁ『概念者』とでも呼べばよかろう。その者に力を乞う術として、召喚魔法を考えた」

「悪魔が知恵を授けたんじゃないのか?」


ダンタリオンは首を横に振る。


「召喚魔法とは、概念世界に干渉し、そこに存在する概念者を探し出し、理を超えて現実世界に引き込み、さらに顕現化せねばならん」


その語り口は淡々としているのに、どこか深淵の水底をのぞき込んでいるような気分にさせられる。

ダンタリオンが僕の顔を伺うのを見て、うなずいて応じた。


「そのためには何かしらの力が必要じゃ」


僕は小さくうなずく。


「そこで、人間が元より持っておる魔力を糧とする方法を選んだのじゃ」


僕は思わずグラスに目を落とした。琥珀色の液体の奥に、自分の欲求の深さ。——違う……魔力の膨大さを覗き見られているようで、少しだけ喉が渇いた。


「でも、そんな魔力持ってる人、そうそういないだろ」

「然様。それほどの魔力を持つ者は、古今東西においても稀なのじゃ」


僕は少し姿勢を変え、深く座って、ほんの少しだけ背中をソファに預けた。

肩の力が抜けたわけじゃないが、意識は確実にこの悪魔の話に惹き込まれていた。


「つまり、誰でもできるわけじゃないってことか」

「その通り。魔力とは『意に応じて、存在や状態を望む形に変じ、あるいは創出する力』じゃ」


ダンタリオンは、指を一本ずつ立てながら、話を続ける。


「その力で他者に害を与える術が黒魔術。その力で他者に癒しを与えるのが白魔術」

「そして、概念世界から概念者を呼び出し、顕現させるのが召喚魔術じゃな」

「……それぞれに、それなりの量が必要ってことか」

「うむ。少しずつ魔力を使っても意味はない。一度に大きく力を解き放たねば、魔術は成功せん」

「じゃあ、僕にはそれだけの魔力の量と出力があると」

「さっきも言ったとおり、力の形を変えれば、この星も滅ぼせるほどじゃ」


ダンタリオンは少し考える素振りを見せるが、すぐに顔を上げた。


「そうじゃな、召喚という術であれば、天使すら呼び出せる」


再び思考を巡らせているようだが、こいつの顔は一斉に同じような表情を浮かべるから、分かりやすい。

嘘をつけないのは、こいつ自身なんじゃないかと思う。

ダンタリオンがふいにアンナとレイに視線を向けた。——まあ顔のどれかはずっと見ているのだろうが。


「実体化と呼ばれる術を使えば、現実世界を彷徨う概念者に『肉体』を与えることも可能じゃ」


僕は少し身構える。


「……顕現化と実体化の違いがよくわからないんだけど」


これはアンナとレイに関わる大切な話だ。僕は家族を失いたくない。


「顕現化された者は、術者が力を注ぎ続ける限り、現実世界に存在できる『一時的な存在』じゃ」


僕の理解を探るように、顔を覗き込む。


「つまり、御館様が魔力を供与している間だけ姿を保つ」

「つまり、術者が意思を手放したら、消える……?」

「うむ。正確にはどちらかが召喚の意思を手放せばじゃな」

「だが、実体化された者は違う」


僕の瞳に変化があったのだろうか、ダンタリオンの顔に一瞬笑みが浮かんだように見えた。


「肉体を持ち、自立した存在として、魔力を与えた者の命が尽きるまで。――いや、場合によっては、それすら越えて、現実世界に存在し続ける」


アンナが静かに目を伏せ、レイが小さく肩を寄せた。言葉はなかったが、それだけで十分だった。

僕の命がある限り、彼女たちと共に過ごせるのかもしれない。——そう思うだけで、少し安心できた。


概念世界にいる概念者と、現実世界にいる概念者が同じような存在だと仮定すると、ひとつの疑問が生じる。


「それならさ、悪魔を実体化することもできるのか?」

「それはできんのじゃ、異なる理の世界に生まれたものに肉体を与えることはできん。そもそも現実に存在し得ない者じゃろう?その二人を実体化できたのは、人間として現実世界に生を受けたからじゃな」

「其方は簡単だと思っておるかもしれぬが、実体化は顕現化の比ではない魔力を要する。できる者など、この世に其方だけであろう」


術に長けたラウムが言うのだから、それは膨大な魔力を意味するのだろう。


「然様じゃな。死してなお、異なる理の存在となる程に、現実世界を恨み、妬み、その生涯に悔いを残し、生に執着した末に、概念者へとなったものに、魔力で肉体を与える。人間の歴史の中でも数えるほどしかおらんじゃろう」


そう言われると、僕が見たアンナの記憶は、彼女がサキュバスと呼ばれる存在となった、経緯だったのかもしれない。

——だが、考えてみればアンナとレイは、僕の魔力という欲求の結晶として存在しているようなものだ。なんだか申し訳なく感じる。彼女たちは、これからも大切にしよう。

一瞬だけ、アンナが僕の指先に触れ、レイがそっと視線を寄越した気がした。

僕が生んでしまったからではなく、僕と共に歩んでくれるから——


話をしながら飲み干したのか、空になったダンタリオンのグラスが目に入った。

僕は黙って、この悪魔への感謝を込めつつ酒を注ぐ。


「そこで、御館様に問う。手を差し伸べるような声が心に聞こえたのは本当であるのかな?」


きっと僕に『救いを求めろ』とか語りかけてきた、あの声のことだろう。


「本当だ。だが分かった気がする。あれは『概念者』だろう」

「ワシもそう思う。そして御館様の中に概念者としてのもうひとりが存在するように感じるのじゃが——」


そう話しながら、ダンタリオンは僕のグラスにウイスキーを注いでしまった。

やはり酒に氷を否定する奴のようだ。


「今ならそれも理解できそうな気がする」

「ほう。それは如何に?」


ラウムが興味深そうな視線を、僕に向ける。

だがその奥に、どこか確かめたいような、期待にも似た気配を感じた。

僕はなみなみと注がれたグラスを、一気に煽った。


「僕は現実から逃げるために、心の中にもうひとりの自分を作ったのかもしれない」


空になったグラスに目を落とす。


「——僕を殴り、脅し、陥れようとする奴らを圧倒できる存在を」

「兄様……」


表情ひとつ変えずに話を聞く悪魔とは対象的に、レイは深刻な表情で、視線を落とした。


「そして、強いそいつに現実で起こった嫌なことを全て押し付けた。そして現実では無かったことにしたかった。幼い頃の僕にはそれしかできなかった。それが一定の時期を除き、大人になってからも続いた」

「ご主人様……」


アンナは目に涙を浮かべ、僕を気遣うように手を添えてくれた。


「たぶんそいつは感情が豊かなはずだ、感情を現すと僕は仕打ちを受けた。だから感情すらそいつに押し付けた。お前が代わりに喜んで、怒って、泣いて、笑えとね」

「さて、御館様よ。一定期間とはなんじゃ?」

「ああ、僕は現実と夢の区別がつかなくなった時期がある。その時僕は心地よい闇の世界にいた」

「そして、時折現実を見る。——もう、夢であってほしいと思うほどの現実を」

「だが、夢であるはずの現実は確実に月日を重ねていた。——僕が現実から逃げている間、もうひとりの僕が現実で生きていたのかもしれない……」

「然様であるか。おそらく其方の魔力は、其方が押し付けた感情を使い、その者が作り貯めて増やしておるのであろう」

「然り、触媒となるものがあればその力を出すことができる。魔法陣もその触媒、ラウムの術も同じであるな」


僕はアンナとレイに目を向けた。僕への心配と、自分自身が抱く不安が混ざって見える。不思議な表情だった。


「仮にひとつになったら、僕は僕を制御できるのかな?多分、アンナとレイの力が必要だろうな——」

「兄様、気付いていましたの?」


レイが顔を上げ、驚いたような表情で僕に問いかけた。


「いや、何となく感じる程度なんだ。レイの言葉が心の奥に響くのは、レイがもうひとりの僕に語りかけられるから。そうだろう?」

「たぶんそうだと思いますの」

「アンナに抱きしめられると、同時にもうひとりの僕も抱きしめられる。だから落ち着きを取り戻せる」

「ご主人様……私には二人のご主人様を抱きしめている感じがするのです」


僕は僕のままでいられるのかな——僕のままでいられないのなら、ひとつにはなりたくない……

声に出さなかった本心は、アンナとレイには分かってもらえていると信じよう。


「ワシは御館様に謝らねばならぬ」


そう言うと突然、ダンタリオンが頭を下げる。

だが、顔が多くて、下げた頭とは逆に、上を向いてしまった顔もあり、滑稽な姿でしかない。


「なぜ謝るんだ?」

「ワシは御館様の存在を知っておった。我が眷属を通じてな」

「眷属?」

「然り、人間の眷属じゃ。その者から恐ろしいほどの魔力を持つ人間がおると聞き、興味を持っておったが、それがラウムを召喚した者と同じではないかと考えておったのじゃ」

「それじゃあ」

「間違いない。ワシの眷属も、もうじきここに来るじゃろう。その者を御館様の近くにおいて、その力を制する方法を探らせたいのじゃが、良いかの?」

「なぜそこまでする?」

「ラウムが惚れた人間じゃ。ワシも、惚れんわけにはいかんじゃろう」

「僕を殺すのか?」

「違うの。御館様が何を為すか見物したいだけじゃ。人間の行動は先が読めんで実に楽しい。それと御館様に語りかけてきた者も気になる」


ダンタリオンの話を遮るように、玄関のチャイムが突然鳴り響いた。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。


2025年9月18日、一部修正しました。

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