第二の悪魔
郵便物を取りに行ったアンナが、一通の手紙を手にリビングへ戻ってきた。その表情には、普段あまり見せない、僅かな困惑の色が浮かんでいる。
彼女の指先が掲げる封筒の表には、大きく赤い文字で『魔法陣在中』と書かれていた。
「——こんな手紙、初めて見たな……」
封筒の違和感に思わず声が漏れる。
それは単なる注意書きではなかった。何かが『封じられている』ような緊張が、表面からじわじわと伝わってくる。
アンナは手元の封筒を見下ろした後、首を傾げるように僕に顔を向ける。
「ご主人様、これはどういう意味でしょう?」
彼女の声は静かだが、その奥にはわずかな警戒が含まれている。
それは敵意ではなく、愛する者を不意に傷つけられることへの、本能的な警戒だろう。
「分からない。けど……たぶん、僕が触ってはいけないってことだけは分かる」
それは僕に対して『開けるな』という警告だろう。
僕が不用意に触ると、勝手に魔法陣が発動してしまうかもしれない。あのカラスを召喚したときのように。
「アンナ、悪いけど……預かってくれないかな」
「分かりました」
返事は短く、だが確かだった。
アンナは封筒を、僕に見せつけるようにそっと胸元に収め、不意に見つめてきた。
自然の理に抗えないように、アンナの胸元に引きつけられていた僕の目を見返すその瞳には、何かを期待する光が宿っている……
愛する者を静かに追い詰めるような輝きに、僕は目を逸らすしかなかった。
——手紙を送りつけてきたのが誰かは分からない。
だが、空気の読めない悪魔が絡んでいることは、ほとんど確信に近い。
嫌な予感は、まるで湯気のように、封筒から立ちのぼっている気がする。
「多分、今夜ラウムが来ると思う。……酒の用意をしておいてくれる?」
「お任せください」
アンナの目が一瞬で輝く。
それは、まるで僕に酒を飲ませることが人生の目的でもあるかのような、期待と幸福に満ちた目だった。
そしてその目に、微かに『色香』のようなものが宿っていた気がする。
なんだか、嫌な予感はますます強まる。
そういえば、レイはラウムが来ると、疑問に思うことを聞くのが楽しいようだから、伝えておいたほうがいいだろう。
僕は、夜にラウムが来ることを伝えようとレイの部屋に行くことにした。
ノックをしても今日は返事がない。——いつもなら元気な声が聞こえてくるのだが、読書に夢中になっているのだろうか。
「レイ、いないのか?」
少しドアを開けてのぞくと、レイはベッドに寝ているが、少し様子がおかしい。
「はぁ……兄様の匂いですわ。胸が熱くなります。こんなに汗をかかれて、いったいレイをどうするおつもりですの……」
レイは、僕が畑から戻って着替えたシャツを抱きしめるように嗅ぎながら、ベッドで悶絶していた。
両脚はぎゅっと揃えて折りたたみ、身体を小さく縮こまらせるその姿は、祈るようでもあり、煩悩に沈むようにも見える。
だが、それは見なかったことにしてそっとドアを閉じ、リビングに戻るとアンナが振り向いて首を傾げた。
「レイはいませんでしたか?どこに行ったのでしょう」
「いや、部屋にいると思うけど、なんか忙しそうだし、ラウムが来ることを後で伝えといてくれるかな?」
「いたのですか……」
アンナはレイがいないほうが良かったのかな?
レイがいないときのアンナは、僕を膝の上に載せたり、お姫様抱っこをしたりと、人形の様に弄ぶのが楽しいみたいだし、少し期待してしまったのだろう。
「部屋にいるのでしたら、今伝えておきますね」
アンナは手を拭きながらレイの部屋へ向かう。止めようかと思ったが、それはそれで説明が面倒だ。
「レイ、今日の夜にラウムさんが——」
一瞬静かになったので、なぜか僕まで安心したが、すぐにアンナの声が響いてきた。
「レイ!何をしているのですか!それはご主人様の洗濯物ですよ」
「何でもありませんの。もう少しですから出ていってくださいまし」
「いけません。すぐに洗濯します」
「あぁ……そんな……アンナはひどいですわ!」
何が『もう少し』で、何が『ひどい』のか……僕にはまるで分からない。
——何も聞かなかったことにしておこう。それが、この家を平和に保つ、唯一にして最善の知恵だ。
——夕食を済ませて、三人でくだらない話をしていたら、リビングに黒い霧が立ちこめはじめる。
集まりはじめたその霧は、しだいに何かを包み込むように渦巻く。
すっかり慣れてしまい、すっかり忘れてしまっていたが、空気を読めない奴が来る。
「——久しいな」
「そうでもないと思うけど」
「某には久しいのであるな」
まあ、聞くまでもないのだが、社交辞令的に確認しておこう。
「それで、魔法陣と酒のどっちがいい?」
「酒であるな」
僕がリビングのソファに腰を下ろすと、なぜかラウムが隣に座る。
近い。——というか密着するほどの距離だ。
「近くないか?」
「否、魔法陣を使えば彼奴がくるゆえ。ここで良い」
……いや、良くない。が、僕の意見など、最初から考慮されていないのだろう。
相変わらず、僕に酌を求めてくるが、これも、もうすっかり慣れてしまった。
その仕草には、酒を賜るというよりも、僕から何かを得ようとする『儀式』のような厭らしさがある。
「魔法陣を某が用意したことを知っておったのであるな?」
ラウムは僕のグラスにウイスキーを注ぐ。それもたっぷりと——氷を入れるという習慣はないのだろうか?
「ラウムくらいしか思い当たらなかったからな」
「某も少しは其方の意識にあるようだな」
「それはそうさ。良くも悪くも世話になってる」
グラスが半分ほど空いたタイミングで、ラウムが少し顔を寄せてきた。
「さて、魔法陣は何処であるか」
ただでさえ近いのに、さらに顔を近づけて聞くようなことなのか?
ラウムの吐息が耳元にかかる距離で、さすがに僕も少し身を引いた。
「うっかり僕が触るといけないから、アンナに預けてある」
「殊勝な心掛けであるな」
「アンナ、持ってきてくれる?」
「はい、ご主人様」
ラウムがアンナから受け取った『魔法陣在中』の封筒を開ける。
中には赤色の模様が描かれた黒い紙が一枚入っていた。
「では、主人よ、頼めるか?」
「頼むも何も、持つだけでいいんだろ?」
僕が紙を手にすると、中に描かれた魔法陣が激しく輝きはじめた。
魔法陣全体に光が満ちてくると、紙は僕の手元から離れ、床に落ち、さらに光を増しはじめる。
その眩しさに、アンナとレイは顔をしかめ、手を前にかざした。
一方で僕とラウムはグラスを傾けながらしっかりと見つめている。
魔法陣からたくさんの紙が噴き出し、紙一枚一枚が微かに脈打つように揺れ、まるで感情を持っているかのように部屋を舞う。
渦巻きながら一か所に集まりはじめ、渦の中央で重なり合うたびに、ざらりとした音が空気を震わせる。
全ての紙が重なると、一瞬輝き、一冊の分厚い本になった。
その本が勝手に開かれ、ページの間から右腕が突き出る。まるで本の中に潜んでいた肉体が、紙の膜を破って現実に滲み出してくるように。
現れたのは、無数の老若男女の顔を持ち、青白く輝く法衣のようなものを着た異形のものだった。
その右手には先ほどの本が、しっかりと握られている。
後には、空気が凍るような静けさだけが、部屋を満たしていた。
「ほほー、これはすごいの」
「素晴らしいとしか言えぬ」
「妾も心が溶けそうじゃ」
「ラウムが羨ましいですねぇ」
静けさに飽きたかのように、全ての顔が一斉に、異なる声色と抑揚で声を上げる。
それはまるで、老若男女の合唱団が同時に異なる言葉を重ねているような、不協和音めいた奇妙な響きだった。
その様子を見ていたラウムが、静かに冷たい声を放つ。
「やかましい。爺、其方ひとりが話せ」
「これはすまんかった。我が名はダンタリオン。ラウムと同じ悪魔と呼ばれる存在じゃ」
ダンタリオンの姿に、アンナは震えながらも拳を構えている。
けれど、その目には恐怖だけでなく、耀を守ろうとする決意が宿っている。
レイは腰を抜かしたように床に崩れ落ちていたが、視線だけは鋭く異形を追っている。
その目には、わずかながらも知的好奇心がちらついているのが見て取れる。
「アンナ、レイ、大丈夫かい?おそらく敵対はしないから、アンナはその構えを解いてくれないか」
「ご主人様は平気なのですか?」
「大丈夫だ、ダンタリオンは僕の疑問を解いてくれる。そうだろ、ラウム」
「然様であるな」
「なら、何も恐れることはない」
「お嬢さん方、すまなかったな。心配せんでも、ワシは其方らの主人には勝てんわ」
「爺もそう思うか?」
「ああ、間違いなく勝てん」
ダンタリオンは僕の対面に腰を下ろし、顔のひとつひとつに異なる笑みを浮かべている。
混沌としたその姿は不気味なはずなのに、なぜか少しだけ滑稽に見えた。
たぶん、あまりに現実離れしたその姿に、やたらと人間臭い口調が加わったからだろう。
「ワシにも酒をもらえんか?」
ラウムと言いダンタリオンと言い、悪魔というのは酒が好きなのだろうか?
「アンナ、グラスをお願い」
「はい……」
ダンタリオンがボトルを手に取り、無造作にラベルを眺める。
「ほれ、まずは一献、お近づきに」
そう言うと、半分ほど残っていた僕のグラスに、惜しげもなく酒を注ぎ込んだ。
悪魔というのは、僕に氷を入れさせないための存在なのだろうか?
アンナがグラスを持ってきて、恐るおそるダンタリオンに手渡す。
「御館様よ、一杯もらえんか?」
差し出されたグラスに、僕はウイスキーを注ぎながら、ダンタリオンに話しかける。
「ひとつ聞いてもいいか?」
「なんじゃな?」
「どんな疑問にも答えられると聞いたんだが」
ダンタリオンはグラスを傾け、琥珀色の液体をゆっくりと喉に流し込む。
見ている僕にまで酒が沁みるような表情を浮かべ、シワだらけの顔に笑みを浮かべた。
「それは誇張しすぎかもしれんのじゃ。だがの、誰であってもワシには嘘はつけんのじゃ。ゆえにワシから伝えるのも真実のみじゃな。よって、分からんもんは分からんと言うぞ」
「嘘をつけないと言うのは?」
「言葉にする前から匂うのじゃよ、嘘というのは。目の奥に、声の揺れに、あるいは沈黙の隙間にさえ、嘘は染み出す。嘘とは、心が隠したつもりで零す――ワシにはそれが見えるのじゃ」
「人間でも精霊でも悪魔でもか?」
「そうじゃな。神であってもじゃ」
僕は軽くグラスを傾ける。
「——で、御館様とは?」
「この館の主であるのでな。……それと、ワシを呼んだのも、お主なのじゃよ。無意識のうちとな」
ダンタリオンの声に、微かに愉悦と、少しだけ哀しみのような響きが混じっていた。
「そうか……どうしてもすぐに知りたいことがある」
「ほほう、聞かせてくれんかな?」
僕は一瞬ラウムに視線を向けた。
「ラウムが僕に求める、本当の目的を知りたい」
ラウムが僕に視線を向けたのが分かった。
それは、いつもの冷徹な目線ではなかった。
「やれやれ、気づかれておったか。爺に嘘はつけぬゆえ、話そう。だが、最後まで黙って聞いてくれぬか」
ほんのわずかだが、ラウムの声にはためらいが混じっていた気がした。
「辻褄の合わないことが多いからな。分かった、最後まで聞こう」
「嘘があればワシが伝えるから安心せい」
ラウムは軽くグラスを傾けたあと、僕に問いかける。
「某と其方の契約は覚えておろう」
「ああ、『僕の魔力をラウムが自由に使って、ラウムは僕を死から守る』だったな」
「それは否である。某と其方の契約は二つある」
ラウムはグラスをテーブルに置いた。
「ひとつは、『其方の魔力を某が自由に使い、某は其方の望みを叶える』その結果は、アンナとレイ、それと金であるな。これからも望むものがあれば申すと良い」
「それでもう一つは?」
「其方を死から守る代わりに、某が其方の命を刈り取る」
ラウムの声に、わずかに沈んだ響きが混じっていた。
それが哀しみなのか、決意なのか、僕には判断がつかなかった。
それに、ダンタリオンは何も言わなかった。嘘はひとつもなかった——その沈黙が、むしろ確信を与える。
……やっぱりか。なんとなく想像はしていたが、そして、ラウムの言葉に僕よりも激しく反応した二人がいる。
「どういうことですの!」
「ラウムさんであっても許しません!」
僕は声を荒げる二人に手を向け制止する。
「二人は黙っていてくれないか」
僕の制止にアンナとレイは口を閉じたが、ラウムには厳しい視線を向けたままだ。
「ラウム、ごめん続けて」
ラウムは僕に顔を向け、じっと僕の顔を見つめている。
「某は其方が持つ魔力に惚れたのだ。そして、その魔力を持つ其方にも惚れ、惚れたゆえにこの手にかけたいと考えてた」
僕は黙ってうなずく。
「だが、その爺の言うとおり、某は其方に勝てぬ。故に其方が寿命を終える直前に、其方に乞うつもりである」
ラウムが僕を守る理由が分かった。
「話は終わりか?」
ダンタリオンがラウムの方に、身体を向ける。
「御館様よ。嘘はもうしておらん。だがまだ些細なことを言えずにおるようじゃ。しかし、それはほんの些細なことじゃしな、いずれラウムの口から伝えるまで、許してやって欲しいのじゃが。ダメかの?」
「いいに決まってる」
「兄様!全て聞くべきですわ」
僕はアンナとレイを見る。二人とも険しい表情のまま、ラウムを睨んでいた。
「アンナとレイを僕の護衛に選んでくれたのは、ラウムだしな。感謝してる」
「ご主人様……」
アンナの目が潤んでいた。怒りでも悲しみでもない、ただ耀を思っての涙だった。
レイが何か言いかけて口を閉じた。強く握られた拳だけが、未だ心のざわめきを伝えていた。
二人は僕を殺すと宣言した悪魔によって、僕と巡り合った。複雑な心境になるのは仕方のないことか……
「今までどおり、僕の力は好きに使っていいし、隠したいことはそのままでいい。その代わりに、たまには酒の相手をしてくれよ」
「其方に感謝する」
僕は一気にグラスを煽り、ラウムに差し出した。
「でも、おかしな話だよな。僕を殺すために、殺せる時まで僕を守るんだろ」
「然様であるな」
「僕の力はそこまでなのか?」
「御館様よ。たとえば御館様の魔力を熱として一気に解放することができれば、この星を消滅させて釣りがくるんじゃが……」
なんか僕は、人類を滅亡させるための、最終兵器的な扱いをされているようだ。
「気をつけるよ。て言っても、どう気をつけたらいいか分からないんだよな」
「其方と、其方に宿るもうひとりの其方を、ひとつにできれば良いのであるが」
突然吹き出す声が部屋に響いた。
「あ、あなたも気付いていましたの?」
レイが驚いた表情で、ラウムに問いかけるが、僕には何のことか分からない。
「うむ、某は、心の深淵と思っておったが、そうではなかった。別の者がおるようであるな」
「ワシの思うに、もう一人は概念の世界におるの」
「ええ、レイもそう思いましたの。精霊に近い存在ですわ」
「もしできれば、恐ろしい力を使いこなすことになるのじゃ。興味深いの……」
「某も惚れなおすであろう」
なんか、僕の知らないところで話が進んでいってるし、内容がなんだか怖いんだが。
——でも、思い当たることはある。
僕が幼い頃から話し相手になってくれた、誰にも見えない『何か』の存在。
心が折れそうなとき、僕を闇で優しく包み、時には黒歴史をつくってくれた。——そんな存在だ。
それは現実とはあまりにもかけ離れていて、僕自身、理解できているとは言い難い。
けれど確かに、あの頃の僕は現実の光を避け、闇に包まれた世界で生きていた。
それは夢のような時間だった。優しくて、あたたかくて、でも時に痛みすらあった。
どちらが本当かは分からない。現実と幻想がまじりあって、僕はただ、そこにいた。
……うん、やっぱり分からない。
でも、とりあえず聞いてみよう。
「あのさ……それは僕の話?なのかな……良く分からないんだけど——」
挙動不審な僕の隣に、アンナが来て、そっと手を握ってくれる。アンナはいつも優しい。
「ご主人様、大丈夫です。私にも分かりません」
言ってることはちょっとアレっぽいが、優しい微笑みに心が癒される。今夜は一緒に寝てもいいかな……
アンナの胸に抱かれて、そのまま夜の帳に包まれ、一度全部を忘れてしまい、明日になってから考えればいいだろう。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月18日、一部修正しました。




