第十五羽. 鬼人の青年と黒衣の男
身体が、勝手に反応していた。
セリアは反射的に相手の攻撃を《ツクヨミ》の柄で受け止めていた。衝撃が腕を貫き、地面を転がる勢いのまま身体が大きく跳ねる。
ーーーとっさとはいえ、よく柄で受け止められたものだ。
セリアは起き上がりながら、自嘲気味に自身の対応を褒めた。直後、左腕に異変を感じる。
明らかに感覚が鈍い。
痺れが指先まで広がり、力の入りが悪い。まともに攻撃を受けていれば、今頃左腕は使い物にならなくなっていただろう。左腕に走る激痛が、それを物語っていた。
当然、油断などしていない。
《オモイカネ》との会話中も、相手から一度も視線を逸らしてなどいない。むしろ視界に捉え、警戒し続けていた。
それでも、だ。
相手の攻撃が、認識できなかった。視界に入っていたはずの相手の動作は、途中をすっぽりと抜け落ち、結果だけが突きつけられる。そんな感覚をセリアは抱いた。
反応が少しでも遅れていたら。そう思うだけで、セリアは冷たい汗が背中を流れ落ちるのをはっきりと自覚した。
『《オモイカネ》、リソースの幾分かを左腕の回復に回せ。それとチャクラを第三階梯まで開くぞっ。』
セリアは戦闘中、常に第一階梯を解放した状態を維持している。第三階梯までの解放が可能であることは理解しているが、身体への負担が大きく、現状では一度も使用していない。
つまり、ぶっつけ本番。
『承知しました。第二、第三階梯のチャクラを解放。』
応答と同時に、セリアの身体から今までとは明らかに質の異なる濃密なエーテルが溢れ出した。圧縮されたエーテルの奔流が、セリアの身体を通して《ツクヨミ》に一気に流れ込む。
《ツクヨミ》の表面に赤い模様が浮かび上がり、脈打つように明滅し始める。
元々、セリアの左目は赤色をしている。
だが今は、その赤がさらに深みを増し、内側から光を放つかのように輝き始めた。
セリアが《ツクヨミ》を構え直した瞬間、コクヨウが再び距離を詰めてきた。先程と同様の攻撃。だが前回とは違いセリアが攻撃を《ツクヨミ》の柄で受け流すと、そのまま踏み込み、脇腹へ一撃を叩き込む。
それでも構わずに、コクヨウの猛攻がセリアを襲う。襲いかかる連撃を躱し、いなし、その合間に確実にダメージを重ねていく。
数分の間、その攻防が続いた。
そんな二人の攻防をアルジェントとテトラは、遠目から見ている事しかできなかった。そして隣に立てない自分たちへの悔しさを噛み締めていた。
この攻防の中で、コクヨウの身体には、深い傷が数多く刻まれている。致命傷とまではいかないが、確実に蓄積されているはずだ。
にも拘わらず、セリアの胸中には少しずつ焦りが広がっていた。攻撃の威力は、確かに衰えてきている。それでも、勢いは衰えを知らずにいた。
ーーーこの状況が長引けば・・・。
最悪のシナリオが、セリアの脳裏を過る。
そんな最中、左腕に走る鋭い痛み。ほんの一瞬、生じた痛みでセリアの動きが鈍る。その機を見逃さず、コクヨウが腕を大きく振りかぶり、拳を叩きつける。
間一髪。
セリアはコクヨウの真後ろに転移し、コクヨウの片腕を躊躇なく切り飛ばした。そのまま跳躍し、コクヨウの背中へと飛び乗る。
「これで、終わりだっ!」
叫びと共に、首目がけて《ツクヨミ》を振り下ろす。だが、その刃が途中で止まった。《ツクヨミ》の刃はコクヨウの首を刈り取るには至らず、中ほどで、確かな抵抗をもって受け止められていた。
ーーーまずいっ・・・。
その判断が浮かんだ時には、すでに遅かった。
セリアが《ツクヨミ》を引き抜くより早く、コクヨウは残された片腕で《ツクヨミ》を無造作に掴み取る。そのまま引き抜くと、セリアの身体を力任せに地面へと叩きつける。
「ぐっはっ!!!」
一度では終わらない。
視界が反転するたび、背中と大地が激突し、衝撃が骨を通して内臓まで揺さぶる。呼吸のタイミングすら奪われたまま、数度、無慈悲に叩きつけられた。
最後の一撃で、肺にあった空気がすべて外に吐き出される。息ができず、受けた衝撃でセリアの視界が大きく揺らぐ。地面に手をつき、何とか身体を起こそうとするが、力が入らない。まるで身体が、自分のものではなくなったかのようだった。
霞むセリアの視界に、死を覚悟するには十分な攻撃が映し出される。
ーーーここまでかっ。
セリアが死を覚悟した、その瞬間。
セリアを覆った影がコクヨウの一撃を完全に防ぐ。それと同時に、炎弾が唸りを上げて飛来し、コクヨウを強制的に後退させた。
影はアルジェント。
先程の炎弾はテトラのフレイム・バレットだった。
「セリア様。言いつけを守れず、申し訳ありません。ですが、これ以上、セリア様が傷つくのを黙って見ているわけには・・・まいりません。私とテトラで抑えます。その間に回復をっ。」
『あるじ~、だいじょうぶ?』
距離を取ったコクヨウを警戒しつつ、セリアの様子を窺うアルジェントとテトラ。
『・・・あまり大丈夫ではないが、心配されるほどじゃない。』
そう返しながら、セリアは無理やり身体を起こす。ストレージから回復薬を取り出し、喉へと流し込む。アルジェントたちの加勢もあり、最低限の回復はできた。だが、状況が好転したとは言い難い。依然として分は悪い。
ーーーこのままでは、確実に押し切られる。一気に決めなければ・・・。
そう判断したセリアは、意を決した。
「アル、テトラ、一分だっ。そいつを抑え込めっ!」
セリアの掛け声と同時に、コクヨウへと駆け出すアルジェントとテトラ。そんな一人と一匹を後ろから見つめ、セリアは準備へと入る。
『《オモイカネ》、奴を倒せる術を《グリモワール》から検索。』
『検索完了、《グリモワール》より術式のロードを完了。』
『第三階梯のチャクラを閉鎖、第一、第二階梯チャクラを並行励起。』
『身体への負担を考えると、六十秒が限界です。』
『構わんっ!』
『並行励起を実行。限界までのカウントを開始。六十、五十九・・・。』
「黄泉より来たりし八つの雷
頭に抱きしは大雷 胸に抱きしは火雷
腹に抱きしは黒雷 陰に抱きしは裂雷
左手に抱きしは若雷 右手に抱きしは土雷
左足に抱きしは鳴雷 右足に抱きしは伏雷」
詠唱が進むにつれて、セリアの身体に変化が生じはじめる。
頭、胸、腹、下腹部、そして四肢。
詠唱で呼び上げられた雷の名に呼応するように、各部位を起点として黒い雷が生まれ、這い、噛みつく。
闇を帯びた雷光。
空間そのものを引き裂くような低い轟音と共に、セリアの輪郭を塗り潰していく。やがて、セリアの全身は、黒い雷に覆われる。
雷に纏われているのではない。雷そのものが、そこに立っているかのようだった。
「集いて誘い 巡りて八重 喰らうは天地
在るは黒き顎 生為す全ての物にその意を示せ」
詠唱の終盤に差し掛かった瞬間、周囲の空気が一段沈む。今まで全身を巡っていた雷が、まるで意思を持っているかのように徐々に右手へと集束していく。
雷が引き剥がされるたび、身体の内側が空洞になるような感覚が走る。だが代わりに、右手には莫大なエネルギーの塊が存在していた。
黒い雷が渦を巻き、圧縮される。
『十三,十二・・・』
右手に収束した雷が、低く唸る。
地面に走る亀裂、逆立つ砂塵。この一点から漏れ出た破壊の残滓が周囲に傷跡を刻み込む。
『十、九・・・』
「アル、テトラ!」
セリアの意図を理解したアルジェントとテトラは、その場を素早く離脱する。
アルジェントとテトラの離脱を確認したセリアは、右腕を前に突き出して術式を行使する。
「雷撃術式 黒顎」
セリアの右手から放たれた黒い雷は、身をくねらせ、牙を剥き、雷が龍の姿を成す。黒き龍は咆哮と共に大地を抉り、空間を裂き、一直線にコクヨウへと喰らいついた。
当初、コクヨウは踏みとどまり、吼え、全身でその暴力に抗っていた。次第にその圧倒的なまでの暴力に飲み込まれ、黒い顎の餌食となる。
コクヨウの姿は黒い雷の奔流の中へと消えていった。
爆風が静まり、荒れ狂っていたエーテルが落ち着きを見せる。舞い上がった辺り一面の砂埃が収まる中、人影が薄っすらと浮かび上がる。
とどめを刺すために、セリアは瞬時に動き出す。だが、振り下ろした刃は、首を刎ねる寸前で止まっていた。そこにいたのは、先程までの獰猛さが見る影もない顔、コクヨウは穏やかな顔を浮かべ、セリアに視線を向ける。
「俺を止めてくれて、ありがとう。」
そう言って、笑みを浮かべながら、軽く頭を下げる。
「躊躇なく首を刎ねてもらって、一向に構わなかったのだが・・・おかげで礼を言う機会ができたな。」
この一言が限界であったのだろう。コクヨウの身体が徐々に崩れ始めた。
『《オモイカネ》、何とかできないか?』
『原因が不明なため、対処不可能。』
「くそっ・・・。」
《オモイカネ》の回答に苦虫を嚙み潰したような表情で、セリアは唇を噛む。
「そんな顔をする必要はない。」
崩れゆく中で、コクヨウは穏やかに言った。
「では迷惑ついでに俺の妹を、アヤメを・・・」
言い終わるより早く、コクヨウの身体が完全に崩れ落ち、一陣の風と共に跡形もなく消えて行った。
その場に残されたのは、宝石のように輝く石だけだった。セリアはそれを拾い上げると、静かに握り締める。
「コクヨウ・・・お前のその願い、必ず・・・。」
ーーー果たそう。
天を仰ぎ、小さな声でセリアは呟いた。
◇◇◇◇◇◇
回復薬による治癒で、身体はだいぶ楽にはなった。だが、流石に本調子とは言い難い。筋肉の奥に残る鈍い違和感が、先ほどまでの激戦を否応なく思い出させる。
未回収であったキングの死骸を回収し、セリアたちはダンジョンへと足を踏み入れた。そこには細く長い回廊が、地下の奥深くに向って伸びていた。壁面は粗く削られ、足音がやけに大きく反響する。そして傾斜を下り切ったその先で、視界が一気に開けた。
広大な地下神殿。
整然と並ぶ石柱。過剰な装飾などは一切なく、ただ空間そのものが持つ重みが、荘厳な雰囲気を漂わせた。微かに揺らぐ冷気が、回廊を歩くセリアたちの肌を静かに撫でた。
そして、最奥。
そこには巨大なクリスタルのようなものが鎮座し、圧倒的な存在を放っている。そこにあるだけで、周囲の空気が歪んで見えた。
その手前、祭壇の前には、黒衣の男が佇んでいた。
「まさか・・・本当に辿り着くとはな。俺の下まで、寄るがいい。」
黒衣の男の低い声が、空間全体に響き渡る。反響した音が幾重にも重なり、まるで空間そのものが語りかけてくるかのようだった。
促されるまま、セリア達は祭壇へと近づいていく。そしてこの距離まで来て、祭壇の上に人影が横たわっているが確認できた。祭壇はセリア達より数段高い位置にあり、細部までは確認できない。ただ、それが人であることだけは分かった。
「辿り着く可能性自体は、一応は想定していた。だが・・・その場合でも、もっと時間が掛かると踏んでいた。」
振り返りながら語る黒衣の男。その声には、想定外の事象を歓迎するかのような、そんな愉悦が僅かに滲んでいた。
「想定外の速さで、俺の下に辿り着いた・・・褒美だ。受け取れっ。」
次の瞬間。
黒衣の男は祭壇に横たわる人物を無造作に掴み上げ、そのままセリアへ向けて放り投げた。放物線を描いて落下してくる、それをセリアは反射的に受け止める。
「そいつが褒美だ。コクヨウから頼まれていただろ。妹の事を。」
黒衣の男は淡々と言い放つ。
「本来なら、コクヨウと同様に俺の玩具にする予定でいたが・・・まぁ、受け取れっ。」
セリアの腕の中には、稚い顔立ちをした少女だった。額からは、コクヨウと同様に二本の角が生えている。白い髪にはメッシュのように所々赤色が混じっていた。
「それでは・・・本題に入るか。」
確かに、この男は言っていた。辿り着けば、情報を出すと。
「偉大なりし女神に使える御使いが一人。己が名をムリエル、巨蟹宮の座を預かる者っ!」
口上と共に、黒衣の男は右手を自らの顔にかざすと、ゆっくりとその手を下ろしていく。そこには今まで靄で覆われ判然としなかった顔に、はっきりと記号が浮かび上がった。
ーーー見覚えが・・・ある・・・。
それも、この世界に来てからではない。転生前、そう前世で幾度となく目にしてきたもの。必死に記憶の糸をたぐるセリアの脳裏に、一つの解が浮かぶ。
ーーーそうだ・・・星座。黄道十二星座。あの記号は確か・・・そう、蟹座っ。
そして、その解は単純ではあるが、確かな事実を突きつける。
ーーー最悪だな・・・。
つまり、十二宮全てにムリエルと名乗る黒衣の男と同じ存在がいることになる。
ーーーこんな化け物が、まだ十一人も・・・。
「我が主の名はエリニュス。」
ムリエルは、静かにそう告げた。誇示するでもなく、声を張るでもない。だが、その名を口にした瞬間、神殿の空気がわずかに沈む。
「女神エリニュス。創世に名を連ね、多くの神々、そして人の上に立っていた存在だ。」
言葉を紡ぐたび、ムリエルの視線がゆっくりと持ち上がる。まるで、遥か上位の存在を見上げているかのようだった。その眼差しには、敬意と同時に、歪んだ執着が宿っている。
『マスター、創世神話に、エリニュスという名の女神は存在しません。』
《オモイカネ》の冷静な分析が、思考の奥で響く。
「・・・私の知る限り、創世神話にそのような女神は存在していなかったが?」
セリアは視線を逸らさず、ムリエルを見据えたまま口を開いた。
その一言に、ムリエルの口角が僅かに吊り上がる。
「当然だっ。」
セリアの指摘を切り捨てるように、短く即答した。
「紛い物が知る神話などに・・・真実があるわけなかろうっ。」
そう言いながら、ムリエルは肩をすくめる。その仕草は軽いが、理解できぬ者を前にした嘲りが含まれていた。
「我が主の名は貶められ、そしてお前らの知る通りその名を消された。」
最後の一語を吐き捨てるように告げた瞬間、濃密なエーテルが、じわりとムリエルの足元から滲み出した。怒りではない。それは、当然の理として受け入れている者の確信だった。
「・・・その事と、今していることに、何の関係があるっ?」
セリアの問いに、ムリエルはゆっくりと首を傾げる。
「それは・・・。」
一瞬、言葉を区切る。
「お前らが・・・知る必要のないことだっ」
視線が、真っ直ぐにセリアを射抜いた。そこには説明する気も、理解させる意思も存在しない。
「さて・・・約束した情報はここまでだ。」
そう言って、ムリエルは一歩、前に出る。たったそれだけで、セリアたちに向けられた圧が増す。
「与えた情報で・・・何か推測はたったか。セリア・ロックハート。」
名を呼ばれた瞬間、セリアの背筋に冷たいものが走る。
ーーー名乗った覚えは無いぞ。鑑定されたのか、それとも・・・。
「お前ら紛い物を鑑定するなど・・・造作もないことだ。」
焦りを覚えるセリアの思考を読み取ったかのように、即座に言い放つムリエル。
「だが・・・答え合わせの時間は、永遠に来ることは無い。」
次の瞬間、ムリエルから殺気が湧き上がり、全身から濃密なエーテルが噴き出す。ムリエルの圧倒的な存在感が空気を軋ませ、神殿全体を震わせた。
「ここで、屍を晒すがいいっ。」
「まずいっ!」
反射的に、セリアは転移による離脱を試みる。だが、目に見えない障壁に阻まれ、その行為は失敗に終わった。
「ここから逃げられると思うなよ!」
無造作にムリエルは掌をセリアたちに向ける。凝縮されたエーテルの塊が、弾丸のように放たれた。セリアは立ち上がると、即座に防御結界を展開する。エーテルが半透明の障壁を形作り、セリアの前方で広がる。
その直後、防御結界にエーテル弾が次々と着弾する。爆発音が轟き、衝突点から光が弾け、障壁の表面を無数の波紋が走る。
押し潰すような圧が全身に叩きつけられ、足元の石床に亀裂が入った。セリアは歯を食いしばり、辛うじて踏みとどまる。
「ほぉ・・・では、もう少し威力を上げるぞっ!」
先程よりも威力のある攻撃が、次々と障壁を襲う。コクヨウとの戦闘で蓄積した負荷が、ここに来て表に出始めた。エーテルの制御に乱れが生じ始めた。反撃する隙も無く、ただ攻撃を耐える時間が続く。
『セリア様、私が引き受けます。』
盾を構え、アルジェントがセリアの前へと出る。
『分かった。アルはそのまま、奴の攻撃を防いでくれ。テトラは元素砲を奴に向けて放て!』
「守りの御手!」
アルジェントと、その後方を包み込むように防御フィールドが展開される。それを確認したセリアは、自らの障壁を解除。フレイム・ジャベリンを、間髪入れずにムリエルに向けて連射する。放ち終えると同時にテトラの元素砲が追撃として放たれた。
爆発と衝撃。
周りの構造物は、耐え切れず粉々に砕け散る。爆煙が舞う中、ムリエルは、悠然とその場に立っていた。
「素晴らしい。久々だ・・・これほどの攻撃はっ。」
称賛すら、余裕の表れだった。
「それも、これで終わりだっ。アビス・フレイム!」
セリアたちの四方から、漆黒の炎が溢れ出し、周囲を埋め尽くしていく。炎はまるで意思でもあるかのように蠢き、触手となって幾重にも絡み合い、やがてセリアたちを飲み込んでいく。
アルジェントの防御フィールドが限界を迎える。セリアたちは、逃げ場を失い、漆黒の炎の繭へと、その身を委ねるしかなかった。
セリアたちの死を、ムリエルは疑っていなかった。
あの漆黒の炎は、肉体もエーテルも焼き尽くす。逃げ場などなく、既に限界を超えていた。
消滅。
そう結論づけ、踵を返そうとした、その瞬間だった。視界に映った光景に、ムリエルは僅かに目を細める。
灰すら残らず消え去っているはずの場所に、何事もなかったかのように立つセリアたち。そして、そこに見覚えのない存在が一人、加わっていた。
白髪の老人。
ただ立っているだけだというのに、荒れていた周囲のエーテルが妙に静まり返える。エーテルの流れが、そこだけ清流のように穏やかだった。
「・・・何者だっ。」
警戒感を籠もった低い声。
「わしの事を知らんか。ほぅ・・・その座を預かって、まだ間もないようじゃのぉ。」
老人は、ムリエルを見据えながらも、まるで値踏みするかのような口調で言った。
自分の攻撃を受けて、なお無傷。その事実だけで、老人に対してムリエルの警戒は最大級へと引き上げられる。
「ここで引くのなら・・・何もせん。」
「引くなら、見逃すと?」
「そう言っておるじゃろうに。わしの気が変わらぬうちに、立ち去るがよい。それとも・・・おぬしの手並みを、見せてくれるのかな?」
次の瞬間、老人から放たれた殺気が、空間を切り裂いた。
踏み込めば殺す。
無言の圧がムリエルに伸し掛かる。
「・・・なるほど。」
ムリエルは一瞬、計算する。勝てない相手ではない。だが、不確定要素が多すぎる。ここで無理をする理由は、どこにもなかった。
ーーー計画に支障が出るのであれば・・・ここで引くのも。
「では・・・引くとしよう。」
そう言い残し、ムリエルの姿は黒い靄に包まれ、掻き消える。
「セリア殿、大丈夫かの?」
「助けて頂き、ありがとうございます。」
セリアは老人に対して、深く頭を下げた。
「なぁに、気にせんでもよい。」
「ですが・・・あのままでは、全員命を落としていました。お礼は、言わせてください。」
「律儀じゃのう。まぁ・・・礼は受け取っておくとするかの。」
「それよりも・・・依頼を終わらせねばならんのぉ。」
指差された先には、巨大なクリスタルが鎮座している。
「あのクリスタルがなにか?」
「あれは魔晶石というてな、エーテル濃度が濃いところでエーテルが結晶化したものじゃ。辺り一帯の魔物の凶暴化はあれが原因で間違いないじゃろう。それが原因で魔物が森の外縁部まで押し出されたんじゃろうな。魔晶石は本来、小石程度でも数十年から数百年の時間を必要とする代物じゃ。じゃがあれは・・・まぁ、考えても埒が明かん。とりあえずあれを回収じゃ。お主の持つストレージなら、問題なかろう。」
老人が、こちらの事情を把握していることに一瞬警戒を覚えつつも、セリアは頷き、魔晶石をストレージへと格納した。
その瞬間、事態が一変する。
突如として、周囲の空間が歪み始めた。
「これは・・・設置型術式か。発動条件は魔晶石の奪取かっ。」
老人は即座に状況を把握する。
「わしの周りに集まれ!」
セリアは鬼人族の少女を抱え、アルジェント、テトラと共に老人の傍へと駆け寄る。
次の瞬間、セリア達はその場から姿を消した。
◇◇◇◇◇◇
遠く離れた場所で、その一部始終を見下ろす者がいた。
ムリエルである。
「撤退すると言っただけだ。無事に帰すなどとは・・・一言も言っていない。」
冷たい笑みが浮かぶ。
「永劫の牢獄の中で、足掻き、苦しめ。その身が朽ち果てるまで・・・な。」
黒い靄がムリエルを包み込み、その姿は完全に消え去った。
誤字・脱字等ありましたら、よろしくお願い致します。
次話から幕間として1000文字程度の短話を数話にわたりお送りしたいと思っています。




