第7章 蛇の足
「ねえ、そろそろ教えてよ」
「教えてって、なにが?」
「しらばっくれないでくれ。パドレが言っていた『ジェルノ』の意味だよ」
「ああ……、そういえば、そんな約束もしてたっけ」エレーナは、わざとらしく視線を泳がせた。
ぼくらは今、火星住民をひとまず月にまで送り届ける高速船に乗るべく、かつてパボニス・エレベータの宇宙港だったステーションに向かっていた。大型の宇宙船を発着出来る施設は、宇宙港にしかないのだ。ぼくはバルダージ博士の計らいで登場者名簿をいじってもらったので、そこでタルニンテ一家と合流する。それまでに答えを聞き出さないと、格好がつかない。
「うーん、イマドキどっちが先に言うべきか、決まっているわけじゃないんだけれど、」エレーナは引き続きもったいぶる。「そういうのはやっぱり、オトコの人が言うべきだと思うの。その、兄貴もアンさんにそうしたらしいし、ね?」
5秒くらい考えて、ようやくぼくも気が付いた。
「あー、えと、うん」
「なによ、人生のパートナーはやっぱり地球人がいいの?」
「そうじゃなくって、なんていえばいいのか。……よっし、わかった」
ぼくは深呼吸をし、エレーナの両肩を大げさに掴んだ。
「え、えーと」
「ほら、がんばれがんばれ」エレーナもこの場の当事者のくせして冷やかす。ついでに、ぼくの陶器の中のヒトも、これに乗じて一緒に囃し立ててきたように感じられた。
「あの、ぜひとも、そのう、ぼくの『ジェルナ』になってくださいませんか……?」
ぼくは最大限誠意をこめてこう言ったはずだ。しかし、彼女はどういうわけか、思いっきり噴きだしてしまった。
「アハハ、『ジェルナ』かあ。そんな単語、よく思いついたわね」
「だって、『ジェルノ』を女性名詞に直せば、『ジェルナ』だろう」
「違うって、違うってば。……はーあ、お腹痛い」
彼女は文字通り、宙ででんぐり返しをするほど笑い転げてしまった。そして元の位置に戻り、にじんだ涙をぬぐってから改まった表情でこう返答した。
「それじゃあ、私の方からもお願いします。是非ともあなたの『ノビア』にしてください。私は唯一の、大切な故郷を失ってしまったばかりです。でもこれからは、あなたの行きたいところが、私の故郷です。私と一緒に、冒険してください」
言い終わると彼女の顔はどんどん近付いてきて、柔らかい部分同士が触れた。
「――指輪の一つでもあるといいんだけれど」
「窓の外を見て。ほうら、一個見つけた」
元火星の周囲を漂う天体の残滓、ふわふわ漂うだけだったそれは母星の消失から3日経ち、肉眼でもわかるリングにへと凝集していた。
「待ってなさいよ宇宙人、私たちの子供か孫ぐらいが、アンタたちをぶっ潰してやる!」
エレーナは勇んだ。彼女を見ているとこれからの生活がよほどハードなものになるような気がして、少しだけ背筋が震えた。
虚脱感が抜けずにいると、ふと、一見どうでもいいようなことを思い出してしまい、それが延々気になったり、ひたすら不安になってしまうことがある。そしてぼくが想像したことは、未知な部分が多い分、あながち杞憂だと一蹴できないことだった。
(――あの『スポンジ』は、あのまま火星の公転軌道を大人しくまわっているのだろうか?)
この船の中では陶器のネット回線が使えないので、乗客に配られている安物の端末を、隣で寝ているエレーナを万が一肘で打ち、起こしてしまわないよう注意しながら操作する。別に船内が相部屋にしなければならないほど混雑しているわけではないにもかかわらずぼくはエレーナとムリヤリ一人用の簡易ベッドに収まっていた。そのはだけた首には、ヒモを通したドッグ・タグの一枚がひらひら宙に舞っている。
パラボラアンテナにこびりついていた残りの漂着物も、ヒトの体温に接触すると、またあのドッグタグに変態した。予備のためだろう。書かれていた内容は、最初の3枚とまったく同じだったが、バルダージ博士はそれを渚でビーチグラスを集めた子供のように、嬉々として眺めている。エレーナの胸元で輝いているのはおすそわけされたその内の一枚で、おかげで彼女の手が空き、こうして肌を合わせながら、ぐっすり寝ているというわけだった。――ちなみにぼくはチャイナ・ボックスの中にヒミコそのものがいるようなものなのでと断ったのに、せっかくだからと一枚もらってしまった。
(『スポンジ』について、今現在わかっていることは、と。)
この船のサーバーには、ここ数日間の各メディアの情報が更新され、その他ライブラリも揃っていたので、地球の通信網とのリアルタイム通信ができなくとも軽い調べ物くらいできた。それにぼくが調べたいことは、あちらこちらの論文をひっくり返さなければならないほどのことではなかった。
検索にかければ、精神が怠惰になりそうなくらいに事細かく結果が返されるが、真っ先にプッシュされるのはやはりマレヴィチ博士やバルダージ博士がしたスピーチだ。あのスピーチの原文に、改めて目を通す。
(バナッハ=タルスキーの定理……。)
この単語が気になり、横文字を指でなぞってもう一度検索に掛ける。先頭に出るのは一世紀以上自堕落な学生の御用達となっているWikipediaで、そこにはスピーチでは省かれた、もう一つの定理が説明されている――。
〈球体を適当に有限個に分割して、寄せ集めることにより、元の球体と同じ球体を好きな数つくることができる。〉
これはつまり、外からの資源なしに、「スポンジ」を好きな数だけ増やせるということらしい。「ラプラス」がもしゲームに飽きた場合、「スポンジ」の数を爆発的に増やして、チート的手段でチェックメイトをすることも可能だというわけだ。そんなことが可能なら、太陽系には散弾が撃ち込まれたのに等しい。さらに無限個にまで増やせば、宇宙をビッグ・クランチにまで持っていくことだって可能なのではないか?
考えてみれば、二つの対になる定理についての、もう片方の仕組みだけを応用するなんて、魚を片側だけ食べて捨ててしまうようなものだから、道理に合わない。いや、あいつらの目論み自体、道理もへったくれもないのだが、実際のところ、ぼくらに残された時間は、もうほとんど残されてないんじゃあないか? ヒミコやアイダさんの送ってくれた神託に、この疑問を解決する法則は書かれているのだろうか。もしそうなら、バルダージ博士はまた、私情で人類を絶滅の危機に追いやった人物として、また批判の矢面に立たされてしまうのだろうか。その時、ぼくやエレーナは、彼女を擁護することができるのだろうか?
しかし、火星人とアンドロイドたちが、地球人に遺してくれたあの知恵の実、あれもひょっとすれば、とんでもない、もう一個の「スポンジ」なのでは? あれの中身を全て解読した後、ぼくら地球文明はどうなる? 「ラプラス」たちと同じく、世界を知り尽くしたなどと、奢りたかぶってしまうのだろうか。脳裏に嫌なイメージが沸く。GMの広告が貼られた地球製の高性能爆弾――『スポンジ』そのものでもいい――が他の恒星系にまで転送され、そこの星を消滅させる。ぼくら地球人は、コカ・コーラを飲みながらそれをスポーツ観戦のつもりで眺めて楽しむ。こんな想像を鮮明に描くヒミコのクオリアが恨めしかった。
ぼくが思うに、地球文明が「ラプラス」の境地に達してしまう日は、すぐそこまで来ているのだろう。それはすでに22世紀までの現代史が教えてくれている。地球の都市に引きこもった地球市民、火星に逃げ込んだニューカマー……、そうだ、彼らは「ラプラス化した知性」のミニチュアなんだ。技術の発達に伴い、彼らが存在する比率も否応なしに増していき、地球文明すらゆっくりと熱死していく。これはなんて暗く、哀しいことなんだろう! ぼくは両親からもらった図鑑に載っていた、「50億年後に太陽は寿命を迎える」という事実を突き付けられた時と同じような、冷たい手で首をゆっくり絞められているかのような息苦しさを覚えた。
ひょっとしたら知恵の実なんて食べなくとも、時間の流れの果て、結局アダムとイブは罪を背負って楽園から追い出されていたのかもしれない。そういえば誘惑して知恵の実を食べさせた蛇はなんとなくイカロスたちの姿とかぶる。……なにメルヘンチックかつ馬鹿なことを考えているんだろう。キリのない不安に果てしなく追いかけられて、想像は枝分かれを続ける。とうとう壁を隔てたその先は真空の死の世界ということまで思い出してしまった。ぼくは気を紛らわそうと、エレーナに再び寄り添う。
彼女の匂いを感じていると、陶器を通してでは感じられない、なんとも幸福なクオリアが湧き起こる。そうだ、まずはこの大事なヒトがホームシックにかからないよう、十二分に幸せにしてあげないと。彼女がいてくれれば、ぼくはもうちょっとだけ、未来について希望が持てるような気がする。目が覚めればあこがれの地であった元パボニス・エレベータへの、二度目の訪問だ。あそこにもユーコン第一彗星の欠片が届いているはずで、ひょっとしたらひょっとして、この大混乱の中、ついに火星には持って行かれずじまいにそのサンプルが残されているかもしれない。それを見てみたい。……いやその前に、ぼくの実家にエレーナを紹介するメッセージを送らないと。
未知への恐怖ではなく、こんな期待感を共有できる人を、もっともおっと増やしていければいいのだけれど。まずはエレーナが一人目、そのままネズミ算式に共感者を増やしていけば、その内宇宙を巻き込む、壮大な潮流になるかもしれない。「ラプラス」でさえ目をむくような、そんなとんでもない潮流。ヒミコやアイダさんが先に出来たんだ。二人の創造主である生身の人間が出来なくてどうするんだい? そう思いながらエレーナの額をそっとなでる。彼女はなにか寝言を漏らすが、何と言っているかは聞き取れない。ただ、楽しそうな表情をしているな、とは思った。その唇の動きを見届ける。……ぼくも眠くなってきた。両親に宛てる文面を考えるのは、船が港に着いてからで構わないだろう。
そうだ、私物を入れる棚にはもうひとつ、考えているとわくわくするような物をしまっていた。ヒミコから「捨てろ」と言われていた、あのプラネタリウム――。本当に死んでいるのかどうかは疑問だが、これも彼女の忘れ形見だ。地球の税関の眼をどさくさに紛れて持ちこんでやろう。隙はいくらでも見つけられるはずさ。そう意気込んで陶器をシャットダウンさせる。彼女の匂いがより強く認識され、幸福のクオリアの感度が、ますます跳ね上がって叫びたいような気持になった。この感覚は陶器を通さないので、ぼくが一人占め出来ている。もう少しこの感覚を堪能していたいが、睡眠欲がそれを邪魔する。ぼくは1分と経たず、それに屈服した。
――その時のぼくは知る由なかったが、船は乗客がほぼ寝入ったのを見計らい、今まで予定されていた進路から少しずつ逸れて、そのまま火星と地球との中継基地に向かうルートに乗り換え始めていた。その進路変更はひっそりと行われ、目も耳も利くはずのエレーナですら、それにまったく気が付かなかったほどだった。
おわり
ぼくの大好きな、小松左京「日本沈没」、ピーター・ハイアムズ「2010年」を念頭に置いて執筆。しかしカタストロフィーものを一人称で書くには視界的限界があり、竜頭蛇尾というか、後半盛り上がりに欠ける結果に。……とりあえず書いていて楽しかった。
2012年夏の「星海社FICTIONS新人賞」にも投稿してあるんです。さてどうなることやら。