9 従妹の事情、婚約の事情
その夜は、話がそこで終わりにはならなかった。
お父様が「婚約は解消する」と口にしてくださったあと、私はそれでようやく一区切りついた気持ちになっていたのだけれど、皆の顔つきを見ているうちに、どうもそうではないらしいと分かった。
終わりではなく、ここからきちんと片をつける段に入った、ということなのだろう。
暖炉の火が穏やかに燃えている。
その明るさに照らされて、お父様は組んだ指先を見下ろしたまま、少し考えるように黙っていた。
「イブリン」
「はい」
「お前には、今まで詳しく話してこなかったことがある」
その言い方に、私は少しだけ背筋を伸ばした。家の話だ、とすぐに分かったからだ。
「エミリー嬢のことだ」
やはり、と思った。
私が目を上げると、お母様が静かに頷く。
「全部とは言わないけれど、事情は存じていたわ。あなたに余計な先入観を持たせたくなくて、あまり口にしなかったの」
「事情、ですか」
ハロルド兄様が、暖炉のそばで腕を組み直した。
「あの従妹の令嬢が今リチャードの家にいるのは、単に身体が弱いから面倒を見てもらっている、というだけじゃない」
その声音には、もう隠す気のない苛立ちが混じっていた。
私は何も言わず、その先を待った。
「エミリー嬢の実家では、持て余していたんだ」
お父様の声は平板だった。平板だからこそ、かえって耳に残った。
「聞いた話では、どうも気まぐれが激しく、周囲を振り回すわりに、本人は少しも悪いと思っていない。おまけに、兄君の縁談に差し障るということらしい」
私は思わず瞬きをした。
兄の縁談に。
それはつまり、家の内側だけで収まる困り事ではなく、外へ見せられない厄介さになっていたということだ。
「そんな……」
口をついて出た私の声は、自分で思っていたより小さかった。
お母様が私を見る。
「エミリー嬢ご本人は、たぶん、そこまで深刻に考えていらっしゃらないのでしょうね。けれど周りは違うわ。兄君に良いお話が出るたびに、妹が同席するか、しないか、その場で何を言い出すか、誰にどんな態度を見せるか。そういうことを先方に案じさせるだけで、十分困るのよ」
それは分かる気がした。
社交の場では、ほんの少しの違和感が後を引く。
無礼そのものではなくても、妙な空気になった、それだけで「何かあるのでは」と見られることは珍しくない。
ジョン兄様が窓辺からこちらを振り返る。
「で、その実家がグランヴィルの本家なんだよ」
その言い方は軽くても、中身は軽くない。
「だから皆、あまり強くは言えない。厄介者を押しつけられた形でも、表立って揉めたくないんだ」
私は膝の上で指先を重ねた。
そういうことだったのか、と腑に落ちる部分があった。
エミリーがただの病弱な従妹というには、どうにも周囲が甘すぎると思っていたのだ。
気を遣うというより、どこか腫れ物を扱うような、妙な遠慮があった。
それが本家の娘で、しかも実家のほうでも持て余されているとなれば、見え方はだいぶ変わる。
「リチャード様のご家族は……それを承知で」
「預かっている。その筈だ」
お父様が言葉を継いだ。
「もっとも、厚意半分、打算半分だろうな。あちらも本家筋との波風は立てたくない」
キャサリン姉様が、小さく首を傾げた。
「でも、それとイブリンを何度も後回しにすることは、やっぱり別の話ですわね」
「もちろんだ」
お父様の返事は早かった。
「事情があるから婚約者にしわ寄せをしてよい、などという理屈は成り立たん」
その一言に、私は少しだけ肩の力が抜けた。
分かっていただけている。
今夜何度も感じたことだけれど、そのたびに胸の内のこわばりがゆるむ。
お母様が、火の明るさを見つめながら口を開く。
「そもそも、このご縁を望んできたのは向こうでしたもの」
私は顔を上げた。
そこを、お母様はわざわざ言葉にしてくださったのだ。
「事業の結びつきもあるし、年頃の子ども同士で釣り合いが取れる、と。そういう話でしたわね」
「ええ」
お父様が頷く。
「キャサリンはすでに婚約していた。相手のバーナードは留学中で、式は戻ってからになるが、話は前から決まっていた。ハロルドとジョンはまだ職務についたばかりだ。そうなると、年齢も立場も、ちょうどよかったのがイブリンだった」
私はその言葉を聞きながら、少し前のことを思い出していた。
リチャードとの婚約が決まった時、私は周囲から「よいご縁ね」と言われた。
家同士の格も事業上の付き合いも申し分なく、相手も見栄えがして、性格も穏やかだと。
実際その頃の私は、そう思おうとしていた。
特別に熱のある恋ではなくても、穏当な結婚なら十分に成り立つのだろうと。
けれど今になってみると、あちらがこちらに何を求めていたのか、少し違う形で見えてくる。
「向こうは、扱いやすい婚約者がほしかったのかしら」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって答えの代わりのようだった。




