51 何に対して謝るのか
その夜、ヘレン・グランヴィルは自室ではなく、小さな書き物部屋にこもっていた。
居間でも書斎でもない、家の女主人が私的な手紙や招待状の返事を整えるための部屋だ。
細長い机と、肘を置きやすい椅子、封蝋の道具、小ぶりのランプ。
それだけの場所なのに、近ごろのヘレンには、ここが屋敷の中でいちばん息のしやすい場所になっていた。
机の上には、便箋が二組並んでいる。
一組は、アシュフォード家へ送るもの。もう一組は、まだ白いまま伏せてある。
ヘレンはまず、前者へ手を伸ばした。
エミリーの件で抗議を受けた以上、何も返さないわけにはいかない。
面談の前に、あちらが“越えてはならない一線”として切り分けてきたものを、こちらも黙って飲み込むか、あるいは最低限の形を返すか。その二択なら、選ぶべきは後者だった。
もっとも、それは謝罪の手紙ではあっても、敗北の手紙ではない。
ヘレンはそう考えていた。無礼があったことは認める。外での不用意な接触については遺憾と述べる。
だが、そこで感情的に平伏する必要はない。家同士の言葉として、整えて返す。それだけだ。
彼女は羽根ペンを取り、ゆっくりと書き始めた。
――先般の件、エミリー・——
そこまで書いて、手が止まる。
エミリー・——
名前のあとへ続くべき言葉が、妙に重かった。
預かっている親族の娘。体調の波が大きい方。繊細で、配慮を要する方。
いままでなら、そういう表現がいくらでも出てきたはずだった。
実際、そのたびにヘレンは、場を整えるための言葉を探してきた。
年長の婦人の前では柔らかく。夫の前では簡潔に。息子の前では深刻にしすぎずに。
けれど今夜は、どの言い回しも紙の上へ落ちてこなかった。
なぜなら、アシュフォード家から突きつけられたのは、曖昧な事情の存在ではなく、その曖昧さごと婚約者へ押しつけた構図そのものだったからだ。
ヘレンは、ゆっくりとペンを置いた。
――アシュフォード家は、間違っていない。
その認識が、いまさらながら腹立たしいほどはっきりしている。
エミリーは実際に人を引きとめたのだろう。
体調の不安を口実にしたのか、本人にその自覚があったのか、そこはまだ分からない。
結果としてイブリンを席へ縛り、婚約の話まで持ち出した。それが礼を失していることに、いまさら異論は差し挟めない。
だが、ヘレンの手が止まったのは、別のところでもあった。
――私は、何に対して謝ろうとしているのか。
その問いが、胸の中にゆっくりと立ち上がった。
エミリーが預けられた時も、話はひどく曖昧だった。
本家の奥方から聞かされたのは、“少し落ち着かないところがある”“あちらも家中が慌ただしい”“しばらくこちらで静かにしていたほうがよいでしょう”——その程度だ。
兄の縁談に差し障る。外で人を困らせた。若い男の周りで妙なふるまいをした。
そういう輪郭のある話は、ヘレンの耳へ明確な形では入っていない。
行間としては読んだ。
読んだが、誰もそこをはっきり口にしなかった。彼女自身も、そこをわざわざ掘り返さないほうが“上品”なのだと、半ば思い込んでいた。
けれど今は違う。
預かり物の娘のせいで、息子の婚約が壊れた。事業のつながりまで切れかけている。
外ではもう、薄く違和感を持つ声が出ている。
そこまで来てなお、自分は“少し落ち着かないところのある親族の娘”という曖昧な認識しか持っていない。
それは、あまりに間の抜けたことではないか。
ノックがして、エドマンドが入ってきた。
「まだやっていたのか」
「ええ」
ヘレンは振り向かずに答えた。
夫は机の端に置かれた便箋を見て、ひとつ頷いた。
「抗議への返事か」
「ええ」
「どの程度まで書く」
「外での無礼は認める。今後、軽々しい接触は慎むと明記する。それ以上は書きすぎない」
エドマンドは、それを聞いて「妥当だな」とだけ言った。
その言い方に、ヘレンは胸の内でかすかに苛立つ。
この人は本当に、妥当かどうかのところへはすぐ来る。けれど、その妥当さを決める前提を、どこまで自分の手で確かめてきただろうか。
「エドマンド」
「何だ」
ヘレンはそこで、ようやく夫を見た。
「あなた、本家からエミリーさんを預かった時、何と聞いていたの」
夫は一瞬だけ黙った。
その沈黙だけで、ヘレンには分かるものがあった。
知っているのではない。知っているつもりで、実は曖昧なのだ。
「何と、とは」
「そのままの意味よ」
ヘレンの声は静かだった。
静かだったが、夫には十分に固く聞こえたはずだった。
「どういう理由で、あの方をこちらへ長く置く話になったのか。兄君の話がどう絡んでいたのか。過去に何があったのか。あなた、正確にご存じ?」
エドマンドは、すぐには答えなかった。
だがそれ自体が答えみたいなものだった。
「……本家のほうも、あまり表立てたくなかったのだろう」
やがて彼はそう言った。
「家の中が落ち着かぬ時期で、娘を静かな家へ移したいと」
「それだけ?」
「行間は読める」
「読める、では足りないのよ」
ヘレンは、そこで初めてはっきり苛立った。
「わたくしは今、アシュフォード家へ何に対して謝るのか、正確に知りたいの。こちらが何を預かっていたのか、何を曖昧にしてきたのか、その前提がぼやけたままでは、もう場当たり的な取り繕いにしかならないでしょう」
エドマンドは、そこで少し顔をしかめた。
責められていると思ったのだろう。実際、責めていないとは言えなかった。
だがヘレンにしてみれば、責めるために言っているのではなかった。もうそこを曖昧にしておく段階ではない、とようやく気づいただけなのだ。
「では、どうするつもりだ」
「聞くしかないでしょう」
ヘレンはきっぱり答えた。
「本家へ」
夫の眉が動く。
「今さらか」
「今さらよ」
その一言は、自分自身にも返ってきた。
今さら。
もっと早く聞くべきだったのかもしれない。だが、いま聞かねばもう遅すぎる。
「書状では埒があかないかもしれない」
エドマンドがそう言うと、ヘレンは冷たく笑いそうになった。
その通りだ。
書状で済むなら、こんなに長く曖昧なままだったはずがない。本家はずっと、必要最小限の言葉しかよこさなかったのだから。
「ええ。だから、呼び出されるなら行くわ」
夫は、その言い方に少し驚いたらしかった。
「ひとりで?」
「まさか」
ヘレンは、そこでようやく白いまま伏せてあったもう一組の便箋を手前へ引いた。
「でも、まずは書きますわ。今回の不始末について、今後の扱いを決めるためにも、当初の事情を正確に承知したい、と」
エドマンドは何か言いかけたが、結局黙った。
たぶん彼も分かっているのだ。いまさら止める理屈がないことを。
婚約が壊れかけ、事業の話まで流れかけて、なお本家の“何となく”に従っていては、この家が持たないのだと。
ヘレンは新しい便箋へ向き直った。
筆先を紙へ置く前に、ひとつだけ胸の内で確かめる。
これは火消しではない。整えるためでもない。
ようやく、自分が何を押しつけられてきたのかを知るためだ。
そう思うと、背筋が少し伸びた。
先に、アシュフォード家への返書を書き上げる。外での無礼を詫び、今後の不用意な接触を慎むことを約す。
そこにはもう、変な迷いはなかった。謝るべきことは謝る。
ただ、それで何もかも丸く収まるとは思わない。
封蝋を押し、脇へ置く。
それから、ヘレンは本家への書状に取りかかった。
文面は丁重に整えた。だが、腹の底は丁重ではなかった。
今回の件にあたり、従来のような曖昧な理解ではこちらも対処できないこと。
当初の事情を正確に承知したいこと。必要であれば、直接伺う用意があること。
そこまで書いて、彼女は筆を置いた。
部屋の中は静かだった。
エドマンドはいつの間にか出ていっていて、ランプの火だけが机の上を明るくしている。
ヘレンは、二通の封筒を並べて見た。
一通は、失礼に対する謝罪。
もう一通は、いまさらの確認。
この順番になったこと自体が、どこかもうおかしかった。
だが、それでも書かないよりはましだった。
封蝋が冷えて固まるのを見ながら、彼女はふと思った。
――もし本家が、ここでもまだ曖昧に濁すようなら。
――もし、自分は何も知らされず、ただ預かって繕う役だけを押しつけられていたのだと、本当にはっきりしたら。
――その時、自分はこの家のために、何をどこまで続けるつもりでいられるのだろう?
答えは、まだ出なかった。
けれど、答えの出る場所が、もう以前とは違うところへ移り始めていることだけは、確かに分かった。




