50 一丸ではない家
(俯瞰視点)
アシュフォード家からの抗議の書状が届いたのは、面談の日取りがほぼ固まりかけた頃だった。
グランヴィル家の執事がそれをヘレン・グランヴィルのもとへ持ってきた時、彼女は封を見ただけで顔をしかめた。
婚約解消の正式な申し入れとは別の書状。つまり、あちらはわざわざもう一段、これを切り分けて言ってきたのだ。
まずい、と思う。
まずい理由は単純だった。
これがただの感情的な不快なら、面談の場で多少なりと丸められる余地もある。
けれど、わざわざ別書状にして抗議を入れてくるということは、アシュフォード家はすでに“今回の婚約”の話と、“その前提として越えてはならない一線”の話を分けているのだ。
そういう家は強い。
怒っている家より、ずっと強い。
ヘレンはすぐに夫を呼ばせた。
エドマンド・グランヴィルは、書斎へ入ってきた時点ではまだ、それがどの程度のものか分かっていなかった。
封筒の数がひとつ増えたくらいにしか思っていない顔だった。
「今度は何だ」
その問いに、ヘレンは封筒を差し出した。
「読めば分かりますわ」
夫は封を切り、読み始めた。
最初の数行で眉が寄り、途中であからさまに不快な顔になる。最後まで読む頃には、口元まで固くなっていた。
「……抗議、だと」
「ええ」
「リチャードが、婚約者の縁者へ手紙を回した件。それから――」
エドマンドはそこで一度、文面を見返した。
「エミリー嬢が外でイブリン嬢を引き留め、体調不安を口実に席を作り、婚約の話に触れた件」
書斎がしんと静まる。
ヘレンはその沈黙を、ひどく冷たい気持ちで聞いていた。
抗議されて当然だろう、と思う一方で、ここまできっぱり文にされると、さすがに腹立たしさもある。
腹が立つのは、自分たちの体面が傷つけられたからだけではない。あちらの見立てが、こちらの曖昧さをほとんど取りこぼさず言い当てているからだった。
「ずいぶん細かい」
エドマンドが言う。
その一言に、ヘレンは思わず目を細めた。
細かい、ではない。
あちらはようやく、こちらが細かいと見て流してきたものを一つひとつ取り上げたのだ。
「細かいのではなく、区切りを入れたのですわ」
ヘレンは静かに言った。
「婚約解消とは別に、“これ以上こういう真似は許さない”と、先に置いたのでしょう」
エドマンドは返事をしなかった。
返事をしない時のこの人は、たいてい認めたくないことを認めかけている。
抗議の文面は、ひどく整っていた。
感情に流れていない。罵倒もない。だが、そのぶん逃げ道もない。
アシュフォード家の意向を受けたあとでなお、リチャードが別口から家族の周辺へ接触したことを“意図的な回り込み”として見ている。
そして、エミリーの件もまた、“偶然の立ち話”では済ませない。
それを読まされた時、グランヴィル家の当主としての不快は当然あった。
だが、それ以上に、これはもう一歩も引いてくれない家だという現実が、じわじわ効いた。
そこへ、書斎の外で足音がして、リチャードが入ってきた。呼ばれていたのだろう。
彼は父と母の顔つきを見ただけで、良い話ではないと悟ったらしい。
だが、机の上に開かれた書状を見る目には、まだ少しばかり“今度は何だろう”程度の軽さがあった。
「父上、母上」
「座りなさい」
エドマンドの声は、前よりわずかに険しかった。
リチャードは椅子へ腰を下ろしたが、その姿勢は落ち着かなかった。指先が膝の上で一度ほどけ、また組み直される。
ヘレンはその様子を見て、また少し苛立った。
こういう時に、この子は身体のどこかしらがそわそわとする。
落ち着きがないくせに、自分から何を言うべきかまでは考えつかない。
「アシュフォード家から、別便で抗議が来た」
父がそう告げると、リチャードは目を瞬いた。
「抗議?」
「そうだ」
エドマンドは文面を持ち上げる。
「お前が、こちらの意向を受けたあとでなお、アシュフォード家と縁のある人物へ直接手紙を書いた件」
その一言で、リチャードの顔色が変わった。
彼はすぐに、それが何を指すのか分かったのだろう。
バーナード・ウェストンへの手紙。
自分では押しかけていない。怒鳴ってもいない。だから、あれは少し考えた行動だったはずなのに。
「でも、あれは」
「でも、ではない」
エドマンドが切った。
「先方は、すでに“今後の直接接触を控えよ”と伝えていた。その上でお前は、別口ならよいと判断した」
「そんなつもりじゃ」
「そういうつもりでなくとも、そう受け取られて当然だ」
父の声は重かった。
リチャードはそこで言葉を失った。
失ったが、納得した顔ではなかった。まだどこかに、“そこまで悪いことだったのか”という戸惑いが残っている。
その戸惑いの顔を見て、ヘレンはどうにも疲れた気持ちになる。
――やはりこの子は、禁止された《《理由》》より、禁止された《《範囲》》ばかり見ている。
押しかけてはならないなら、手紙ならいいのではないか。そういう考え方から抜けられていない。
「それから」
エドマンドは続けた。
「エミリーの件だ」
リチャードの視線が、そこで少し揺れた。
「外でイブリン嬢を引き留め、お茶に付き合わせ、婚約の話へ触れたことについて、先方はこれも礼を失しているとしている」
「お茶?」
リチャードは、今度は本当に驚いた顔をした。
ヘレンはその反応に、胸の中で冷たく思う。
知らなかったのだろう。
知らないのは、ある意味では当然だ。
だが、その“知らない”の多さこそ、いまこの家が抱えている病みたいなものだった。
何かが起きても、その場にいた者しか知らず、次の綻びが来ると前のことは曖昧になる。
「エミリーは何と?」
と、リチャードは尋ねた。
問いの向きが、ヘレンにはもう腹立たしかった。
抗議の中身ではなく、《《エミリーが》》何と言ったかから入る。結局いつもそこだ。
「何と、ではありません」
ヘレンは先に言った。
「起きたこと自体が問題なのです」
リチャードは、ようやく口を閉じた。だが、その顔には、なおも迷いが残っている。
エミリーが本当にそんなふうに押しつけがましく振る舞ったのか、自分には思いにくい、という戸惑いと、でも抗議されている以上は何かあったのだろうという困惑と、その両方だった。
そこへまた、扉の向こうで小さな物音がした。
ヘレンは、内心で本当に嫌になった。
この家では、なぜこう、話が一番悪いところへ来た時に限って、別の糸がするりと垂れてくるのだろう。
「誰だ」
今度はエドマンドの声が前より硬い。
向こうで一拍の間があり、細い声が返る。
「……エミリーです」
リチャードの視線が、またそちらへ動く。
ヘレンはそれを見て、ほとんど諦めに近い気持ちになった。
この子は本当に、そこを見る。
父と母の前で抗議の書状を突きつけられていても、扉の向こうに“気にかかる相手”がいれば、そちらを見てしまう。
エドマンドは、珍しくはっきりと苛立っていた。
「今は入るな」
短く言い放つ。扉の向こうは静かだった。
その沈黙に、ヘレンはまた嫌な予感を覚える。
エミリーは、ここで泣いたりすがったりはしない。しないからこそ、やりにくいのだ。
「……ごめんなさい」
やがて声がした。
「ただ、少しだけ、お話ししているお声が聞こえて……わたくしのことで、ご迷惑をおかけしたのかと」
そこまで言われると、リチャードの肩がまた動く。
ヘレンはその横顔を見て、胸の中で小さくうんざりした。
――わたくしのことで。ご迷惑を。
そういう言い方は、いつも同じ場所へ刺さる。相手の良心へ、まっすぐ。
「関係ない」
エドマンドは切るように言った。
「部屋へ戻りなさい」
返事は、すぐにはなかった。その“返事のない間”がまた、絶妙だった。
無視でも反抗でもない。ただ、引き下がる前に、相手がもう一歩言葉を足したくなるくらいの間。
案の定、リチャードが口を開きかけたところで、ヘレンが先に言った。
「エミリーさん」
声音は冷たすぎないように気をつけた。
だが、いつもよりは硬かった。
「今夜はもう休んで。これはあなたがここで立ち聞きしてよい話ではありません」
扉の向こうで、ごく小さく息をのむ気配がした。
ヘレンは、その反応に胸の奥が少しざらつくのを感じる。
ここで“立ち聞き”などと言いたくはなかった。だが、もうそうとしか呼びようがない。
「……はい」
返事は素直だった。
その素直さが、本当に素直なのか、その場に合うように置かれたものなのか、ヘレンにはもう分からない。
分からないまま、それでも扱わなければならないのが、この家の複雑さだった。
扉の向こうの気配が去る。
だが、書斎の中は少しも落ち着かなかった。
リチャードは、まだ扉を見ていた。
その顔に浮かんでいるものは、抗議の書状への危機感と、エミリーが傷ついたかもしれないという気がかりと、その両方だ。両方あるのに、どちらもちゃんと片づいていない。
エドマンドは、その息子を見て不快そうに言った。
「見ての通りだ」
ヘレンはその一言で、夫が何を指しているのか、痛いほど分かった。
見ての通り、話が散る。中心がずれる。
重要なことと、いま目の前で弱っているように見えるものとが並んだ時、この家は後者へ流れる。
そういう癖そのものを、アシュフォード家は見抜いているのだ。
「抗議には返答する」
エドマンドが言った。
「だが、弁明の色は薄めろ。これ以上、言い訳がましく見えるのはまずい」
ヘレンは頷いた。そこは正しい。
ようやく、そこまで来たかと思う。
「面談の前に、“接触を慎む”ことだけは明言すべきですわ」
「そうだな」
「そしてリチャード」
ヘレンは息子へ向き直った。
「あなたはもう、《《本当に》》何もするのではありません」
リチャードは、反発しかけて、飲み込んだ。
それでも顔には、“どうしてそこまで”が残っている。そこに、ヘレンはまたじわじわとした苛立ちを覚える。
この子は、自分が《《何をしてしまうか》》より、《《何を禁じられるか》》のほうに先に痛みを感じる。
「何もするな、という意味が分かるか」
今度はエドマンドが問うた。
リチャードは、少し遅れて答えた。
「……はい」
その返事に、ヘレンは少しも安心しなかった。
こういう時の“はい”ほど、危ういものはないからだ。
分かっていないのに、これ以上は言い返せないから頷いた声。
あとで、自分なりの意味に置き換える余地をまだ残している返事。
まさにこの家らしい、とヘレンは思った。
一丸ではない。
誰も同じものを見ていない。
夫は事業と体面のほうへ重さを置き、息子は目の前で弱るらしい者のほうへ心を引かれ、自分はその間を縫って整え続ける。
そして、肝心の預かり物の娘は、扉の向こうからでも場をずらしていく。
こういう時こそ、家は一つにならなければならないはずなのに。
けれど実際には、綻びの方向が四方へ伸びるばかりで、どこにもきれいに寄ってこない。
ヘレンは、ふと自分の手元を見た。
知らないうちに、手袋の端をまたきつくつまんでいる。
疲れる、と彼女は思う。
息子の未熟さにも。夫の遅さにも。エミリーの曖昧な弱り方にも。
それらを全部、見栄えのする形へ繕い続けてきた自分自身にも。
抗議の書状は、机の上で静かに開かれたままだった。
丁寧な文面。
揺るがない区切り。
そして何より、あちらはもう家として同じ方向を見ている。
そのことが、いちばんこたえた。




