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病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?  作者: さんけい


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16/21

16 遅すぎたのだと思いますわ

 夫人はすぐに表情を整えた。


「ただ、イブリンさんのように賢く、落ち着いたお嬢さんなら、今回のことも少しお時間を置けば、違った見え方になるのではないかと思いましたの」


 その瞬間、自分の中で何かがすうっと冷えた。

 賢い。落ち着いている。

 違った見え方。

 言い換えれば、()()感情的になっているだけで、そのうちこちらに合わせた考え方へ戻るだろう、と言っているのと同じだった。

 私は顔を上げた。


「違った見え方、とは?」


 奥方は一拍おいてから答えた。


「たとえば、婚約というものは、ふたりだけのものではありませんでしょう。家同士のお付き合いもありますし、身内に少々厄介な事情がある時には、互いに少しずつ譲り合っていくことも必要かと」


 私はそれを聞きながら、唇の内側をそっと噛んだ。

 厄介な事情。少々。譲り合い。

 やっぱり全部、向こうに都合のよい言い換えだった。


「譲り合い、ですか」


 気づけば、そう口にしていた。


「ええ」

「私ばかりが譲っていたように思いますけれど」


 応接間が静かになった。

 言い方はきつくなかったはずだ。

 でも、その言葉は思っていた以上にはっきり響いたらしい。

 夫人は一瞬だけ目を瞬かせ、それからかすかな笑みを戻した。


「そう感じさせてしまったことは、残念に思いますわ」


 その返しに、私は少しだけ目を伏せた。


 ――感じさせてしまった。


 そこでもまだ、事実ではなく受け取り方の話にされるのだ。


「リチャードにも、今後はもっと気をつけるよう、私どもからもよく申します。ですから、どうか今回のことだけで」

「今回のことだけではございません」


 自分でも驚くほど、きっぱり言えていた。

 奥方の声が止まる。

 お母様も姉様も、黙って私を見ていた。


「今回のことだけなら、ここまでにはなりませんでしたわ。私は、もう何度も同じことを繰り返されてきました。そのたびに、事情があるのだろうと自分に言い聞かせてまいりましたけれど」


 そこまで言ったところで、胸の内が少しだけざわついた。

 けれど不思議と、言葉は途切れなかった。


「リチャード様は、私との約束を後に回しても、説明すれば済むと思っていらしたように見えました。私はそれが、とてもつらかったのです」


 奥方は私を見つめたまま、すぐには何も言わなかった。

 その目の奥で、何か計算している気配があった。

 言い返す言葉を選んでいるのだろう。きっとここで露骨に否定するのは得策ではない、とお考えなのだ。


「でも、あの子は本当にあなたを軽く見ていたのではなくて」

「結果として、そうなっておりました」


 私は静かに言った。


「それに、たとえ軽く見るつもりがなかったのだとしても、私には同じことですわ」


 お母様がそっと息をつく気配がした。

 否定の気配ではなかった。むしろ、ようやくそこまで言えたのね、とでもいうような。

 奥方の顔から、柔らかな社交用の笑みが少しだけ薄れた。


「イブリンさん。若い時分の行き違いは、後から振り返れば、思いのほか小さなことだったと分かるものよ」

「そうかもしれません」


 私は頷いた。


「でも、私はこれを小さなこととは思えませんでした」


 その一言を口にした瞬間、胸の内がしんと澄んだ気がした。

 そうだ。そこなのだ。

 向こうは小さなことにしたい。若いふたりの感情のもつれ程度に。けれど私は違う。何度も繰り返されてきたからこそ、もう小さくはないのだ。

 奥方は、いよいよ笑わなくなった。


「では、あなたは本当に、この婚約をお考え直しになるお気持ちはないのね」


 その問いには、もう迷いようがなかった。


「ございません」


 私ははっきり答えた。


「二人で改めてお話しなさるお気持ちも?」

「ございません」


 奥方の目が、わずかに細くなる。


「リチャードは、せめてもう一度きちんと」

「昨日、伺いました」


 私は言った。


「きちんと説明したかったのだと、おっしゃっていましたわ。でも、その“きちんと”の中に、私への思いやりは感じられませんでした」


 それを聞いた奥方の顔に、今度こそ感情が浮かんだ。

 不快、と呼ぶほど露骨ではない。けれど、少なくとも思い通りにいかない苛立ちはあった。

 そこで私も、はっきりと気付いた。

 この方は、息子をかばいに来たのだ。私の気持ちを知るためではなく、私を引き戻すために。

 お母様が、穏やかな声音で口を開かれた。


「お気持ちは伺いましたわ。ですが、こちらの娘の考えも、いまお聞き届けいただけたかと思います」


 夫人はすぐには答えなかった。

 窓の外で、風に枝葉の触れ合う音がした。

 その細いざわめきのあと、ようやく夫人は背筋を伸ばし、少しだけ冷えた笑みを浮かべた。


「……そう。では、もうこれ以上申し上げても無駄なのですね」

「無駄、というより」


 キャサリン姉様が静かに言う。


「遅すぎたのだと思いますわ」


 それはひどく穏やかな声だったのに、夫人は何も返さなかった。

 結局、そのあとの会話はほとんど社交辞令だけで終わった。

 茶は半分ほど残され、菓子にもほとんど手はつけられないまま、夫人は帰途についた。

 扉が閉まったあと、私はようやく深く息をついた。

 気づかないうちに肩へ力が入っていたらしい。背が少し重い。


「大丈夫?」


 キャサリン姉様に尋ねられて、私は頷いた。


「ええ」


 そう答えてから、少しだけ間を置いて付け足した。


「……思っていたより、平気です」


 それは強がりではなく、本当だった。

 嫌な気持ちにはなった。疲れもした。

 けれど、あの方と話したことで、かえってはっきり見えたこともある。

 向こうは最後まで、私の気持ちそのものを重くは見ていなかった。

 賢い娘なら。落ち着いたお嬢さんなら。家同士のために。

 そういう言葉で、私がまた静かに飲み込むことを期待していた。

 でも、私はもう戻らない。

 お母様が私の手を軽く取られた。


「よく言えました」


 その一言に、胸の奥がじんわりあたたかくなる。

 私は窓の外を見た。

 曇っていた空が少しだけ明るくなっていて、庭の端の枝先に、かすかな光がさしている。

 先方の奥方は、たぶん最後まで私を説き伏せられると思っていらしたのだろう。

 けれど実際には、あの短い時間のうちに、私はますます戻れなくなった。

 それでよかったのだと思う。

 もう、十分だった。

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