16 遅すぎたのだと思いますわ
夫人はすぐに表情を整えた。
「ただ、イブリンさんのように賢く、落ち着いたお嬢さんなら、今回のことも少しお時間を置けば、違った見え方になるのではないかと思いましたの」
その瞬間、自分の中で何かがすうっと冷えた。
賢い。落ち着いている。
違った見え方。
言い換えれば、今は感情的になっているだけで、そのうちこちらに合わせた考え方へ戻るだろう、と言っているのと同じだった。
私は顔を上げた。
「違った見え方、とは?」
奥方は一拍おいてから答えた。
「たとえば、婚約というものは、ふたりだけのものではありませんでしょう。家同士のお付き合いもありますし、身内に少々厄介な事情がある時には、互いに少しずつ譲り合っていくことも必要かと」
私はそれを聞きながら、唇の内側をそっと噛んだ。
厄介な事情。少々。譲り合い。
やっぱり全部、向こうに都合のよい言い換えだった。
「譲り合い、ですか」
気づけば、そう口にしていた。
「ええ」
「私ばかりが譲っていたように思いますけれど」
応接間が静かになった。
言い方はきつくなかったはずだ。
でも、その言葉は思っていた以上にはっきり響いたらしい。
夫人は一瞬だけ目を瞬かせ、それからかすかな笑みを戻した。
「そう感じさせてしまったことは、残念に思いますわ」
その返しに、私は少しだけ目を伏せた。
――感じさせてしまった。
そこでもまだ、事実ではなく受け取り方の話にされるのだ。
「リチャードにも、今後はもっと気をつけるよう、私どもからもよく申します。ですから、どうか今回のことだけで」
「今回のことだけではございません」
自分でも驚くほど、きっぱり言えていた。
奥方の声が止まる。
お母様も姉様も、黙って私を見ていた。
「今回のことだけなら、ここまでにはなりませんでしたわ。私は、もう何度も同じことを繰り返されてきました。そのたびに、事情があるのだろうと自分に言い聞かせてまいりましたけれど」
そこまで言ったところで、胸の内が少しだけざわついた。
けれど不思議と、言葉は途切れなかった。
「リチャード様は、私との約束を後に回しても、説明すれば済むと思っていらしたように見えました。私はそれが、とてもつらかったのです」
奥方は私を見つめたまま、すぐには何も言わなかった。
その目の奥で、何か計算している気配があった。
言い返す言葉を選んでいるのだろう。きっとここで露骨に否定するのは得策ではない、とお考えなのだ。
「でも、あの子は本当にあなたを軽く見ていたのではなくて」
「結果として、そうなっておりました」
私は静かに言った。
「それに、たとえ軽く見るつもりがなかったのだとしても、私には同じことですわ」
お母様がそっと息をつく気配がした。
否定の気配ではなかった。むしろ、ようやくそこまで言えたのね、とでもいうような。
奥方の顔から、柔らかな社交用の笑みが少しだけ薄れた。
「イブリンさん。若い時分の行き違いは、後から振り返れば、思いのほか小さなことだったと分かるものよ」
「そうかもしれません」
私は頷いた。
「でも、私はこれを小さなこととは思えませんでした」
その一言を口にした瞬間、胸の内がしんと澄んだ気がした。
そうだ。そこなのだ。
向こうは小さなことにしたい。若いふたりの感情のもつれ程度に。けれど私は違う。何度も繰り返されてきたからこそ、もう小さくはないのだ。
奥方は、いよいよ笑わなくなった。
「では、あなたは本当に、この婚約をお考え直しになるお気持ちはないのね」
その問いには、もう迷いようがなかった。
「ございません」
私ははっきり答えた。
「二人で改めてお話しなさるお気持ちも?」
「ございません」
奥方の目が、わずかに細くなる。
「リチャードは、せめてもう一度きちんと」
「昨日、伺いました」
私は言った。
「きちんと説明したかったのだと、おっしゃっていましたわ。でも、その“きちんと”の中に、私への思いやりは感じられませんでした」
それを聞いた奥方の顔に、今度こそ感情が浮かんだ。
不快、と呼ぶほど露骨ではない。けれど、少なくとも思い通りにいかない苛立ちはあった。
そこで私も、はっきりと気付いた。
この方は、息子をかばいに来たのだ。私の気持ちを知るためではなく、私を引き戻すために。
お母様が、穏やかな声音で口を開かれた。
「お気持ちは伺いましたわ。ですが、こちらの娘の考えも、いまお聞き届けいただけたかと思います」
夫人はすぐには答えなかった。
窓の外で、風に枝葉の触れ合う音がした。
その細いざわめきのあと、ようやく夫人は背筋を伸ばし、少しだけ冷えた笑みを浮かべた。
「……そう。では、もうこれ以上申し上げても無駄なのですね」
「無駄、というより」
キャサリン姉様が静かに言う。
「遅すぎたのだと思いますわ」
それはひどく穏やかな声だったのに、夫人は何も返さなかった。
結局、そのあとの会話はほとんど社交辞令だけで終わった。
茶は半分ほど残され、菓子にもほとんど手はつけられないまま、夫人は帰途についた。
扉が閉まったあと、私はようやく深く息をついた。
気づかないうちに肩へ力が入っていたらしい。背が少し重い。
「大丈夫?」
キャサリン姉様に尋ねられて、私は頷いた。
「ええ」
そう答えてから、少しだけ間を置いて付け足した。
「……思っていたより、平気です」
それは強がりではなく、本当だった。
嫌な気持ちにはなった。疲れもした。
けれど、あの方と話したことで、かえってはっきり見えたこともある。
向こうは最後まで、私の気持ちそのものを重くは見ていなかった。
賢い娘なら。落ち着いたお嬢さんなら。家同士のために。
そういう言葉で、私がまた静かに飲み込むことを期待していた。
でも、私はもう戻らない。
お母様が私の手を軽く取られた。
「よく言えました」
その一言に、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
私は窓の外を見た。
曇っていた空が少しだけ明るくなっていて、庭の端の枝先に、かすかな光がさしている。
先方の奥方は、たぶん最後まで私を説き伏せられると思っていらしたのだろう。
けれど実際には、あの短い時間のうちに、私はますます戻れなくなった。
それでよかったのだと思う。
もう、十分だった。




