置き去りの地図係
「ノア、お前はここまででいい」
迷宮都市ラビリスの北門前で、勇者カイルは僕の背負子を指さした。
鍋、毛布、予備の水袋、薬草箱、折り畳みの梯子。全部、僕が三年間運んできたものだ。
「ここまで、って」
「次は深層だ。戦えない荷物持ちは足手まといになる」
仲間たちは目を合わせなかった。魔法使いのセリアだけが少し唇を噛んだが、勇者の決定は変わらない。
「地図なら渡しただろ」
カイルは丸めた羊皮紙を投げてよこした。
それは僕が昨日徹夜で清書した迷宮七層までの地図だった。罠の位置、休憩できる窪地、魔物が嫌う鉱石の線。全部書いてある。
「八層から先は、俺たちでなんとかする。勇者の勘があるからな」
勇者の勘。
その言葉で、どれだけ余計に水を運び、どれだけ遠回りしてきたかを思い出す。
「せめて、八層入口の風向きだけ確認させて。昨日と違っていたら――」
「しつこい」
カイルは僕の背負子から薬草箱だけを抜き取り、硬貨の袋をひとつ投げた。
「退職金だ。田舎に帰れ」
門が閉まる音がした。
僕はしばらく、砂埃の中に立っていた。
泣くと思っていた。けれど最初に浮かんだのは、七層東通路の亀裂のことだった。あそこは昼過ぎになると熱風が逆流する。僕がいなければ、カイルたちは近道だと思って入るだろう。
「……地図、古くなったな」
僕は羊皮紙を広げ、指先で東通路をなぞった。
祖母は昔、僕の力を地図魔法と呼んだ。歩いた場所を覚えるだけではない。地形の息づかいを読み、危険な線を安全な線へ少しだけずらす力。大きな城を動かすことはできない。でも崩れかけた石を支えたり、水の流れを変えたり、人が通れる道を作ることはできる。
勇者パーティーでは、ただの道案内として使っていた力だ。
羊皮紙の上で、東通路の線が細く震える。僕は深呼吸し、線を一本引き直した。迷宮の奥から、ごく小さな石の落ちる音が返ってくる。
「これで、熱風は抜けるはず」
「お兄ちゃん、今の魔法?」
振り返ると、門番小屋の陰から小さな女の子が覗いていた。手には破れた配達地図。迷宮都市では、子どもでも道を覚えなければ生きていけない。
「お父さんの店に薬を届けたいの。でも西市場が工事で通れなくて」
僕は迷ったあと、彼女の地図を受け取った。勇者の深層攻略より、小さな薬のほうが今は大事に思えた。
「ここを曲がって、井戸の裏を通ると早い。ただし赤い屋根の犬には近づかないで。吠えるから」
「すごい! どうして知ってるの?」
「歩いたから」
女の子は笑って走っていった。
その背中を見送ったとき、胸の中にあった重い石が少し軽くなった。
僕は、荷物持ちではなくても地図を描ける。
誰かの道を、安全にできる。
夕方、迷宮の入口で警鐘が鳴った。勇者パーティーが八層で迷ったらしい。
門番が僕を見た。
「ノア、お前、道がわかるか」
僕は新しい羊皮紙を広げた。
「わかります。でも今度は、荷物持ちとしてではありません。地図師として依頼してください」
門番は古い知り合いのボルグさんだった。僕が駆け出しのころ、迷宮で迷って泣いていたのを地上まで引っ張ってくれた人だ。
「依頼料は協会規定で払う。だが危険なら断れ」
「断りません。七層までなら、僕の庭みたいなものです」
そう言ってから、少しだけ笑ってしまった。庭と呼ぶには、罠も魔物も多すぎる。けれど、勇者の背中を追いかけていたころより足取りは軽かった。
僕は新しい地図に線を引く。救助隊が通る道、担架がすれ違える幅、魔物の巣を避ける迂回路。荷物持ちのころは、速さばかり求められた。地図師としてなら、安全を一番上に置ける。
「ノア兄ちゃん!」
さっきの女の子が、父親らしき薬屋と一緒に走ってきた。
「これ、お礼!」
差し出されたのは、小さな方位磁針だった。古いけれど針はまっすぐ北を向いている。
「借ります。必ず返すよ」
迷宮の扉が開く。
奥から湿った風が吹いた。
僕はもう、置き去りにされた荷物持ちではない。
誰かを帰すために道を描く、地図師だ。




