219.記憶の海と切なる祈り(2)
『ヴェローニカ!戻って来い!早く!』
『…白夜?』
「待て」
ふいに手首を掴まれて、ヴェローニカは視線をジルヴェスターに戻した。
向けられた彼女の瞳が、王城庭園の泉に映る儚くも美しい水月を思わせ、ジルヴェスターは声を失う。
ひらりひらりと彼女の周りを舞う、光の蝶。こんなにもこの庭園の花は、薫っただろうか?
「殿下!大丈夫ですか?」
「――ああ。もう、大丈夫だ」
身を案じるフランシスの問い掛けにも半ばぼんやりとして、ジルヴェスターは思いがけない言葉が口をついて出る。
「君は、女神か?」
するとヴェローニカは少しきょとんとし、そして困ったように寂しげに微笑んだ。
『どうだろう。自分でも、よくわからない』
いろんな過去世を巡ったが、結局自分は何なのか。人間?女神?神の伴侶?…ハイエルフ?
「フフッ、そうか。自ら神を名乗るのなら、胡散臭いとは思ったが…っ、ゲホッゲホッ」
「殿下?まだ毒が?」
『毒性はもうないわ。でも、吐いた血が詰まってしまったのね。苦しかったね。待ってて』
ヴェローニカは咳をするジルヴェスターの喉に触れて、ゆっくりと胸まで撫で下ろした。薄闇の中で虹色の光が灯り、軌跡を描く。
『これでもう大丈夫』
「……」
すんなりと咳が止まった。
否応なく死を予感させ、覚悟を強いる苦しみ、寒気、震え。たった数分前のその苦悶と絶望の何もかもが、今は夢だったかのよう。
ジルヴェスターは礼を言うのも忘れて、放心するようにヴェローニカを眺めた。
「君は、ヴェローニカというのか?もしや、神殿が侯爵家から奪ったという、エルーシアの聖女?しかし……子供と聞いていたのだが…」
どう見ても、今のヴェローニカは成人女性だ。しかも少し尖った特徴的な耳の形は、伝承に聞くエルフそのもの。月明かりの下、絹糸のように煌めく銀の髪も、ジルヴェスターが目にしたのは初めてだ。
その上、王太子である自分に対して、このような気負わぬ態度と口調が、さらに彼女を浮世離れして見せる。だがそれがまるで自然で、“無礼だ”などと咎める気も起きない。だからこそ“月の女神なのか”などと、つい連想してしまったのだ。
『ヴェローニカ!』
『良かったね。彼が助かって。…呼ばれているから、もう行くね』
「あ…」
フランシスが反射的に声をかけると、立ち去ろうとしていたヴェローニカは振り返る。こちらの不安に気づいて寄り添うように、彼女は優しく首を傾けた。
『まだ何か、困ってる?』
「え?」
『いいよ。大丈夫。私なら、手を伸ばしたら、掴んであげる』
安心させようと心を砕くかのように。母性の孕んだ柔らかな微笑みを浮かべて手を差し伸べるヴェローニカに、フランシスは面食らう。
「どうして……僕はあなたに、失礼なことを言ったのに」
『あれはこの人を守りたかったからでしょ?それに。…私も、助けて欲しいと思う時はあるから』
「……」
その言葉は、フランシスには込み上げるものがあった。きっと損得でも、理屈でもないのだ。そしてフランシスも本当はずっと、誰かに助けて欲しかった。それはこのような奇跡を起こす彼女でさえも、同じなのだと。
「まだ遠くへは行っていないはずだ!探せ!王太子ジルヴェスターと、その従者フランシスを!」
遠くで叫び声が聞こえ、庭園を踏み荒らす気配がした。
反逆者たちが二人を探している。指名手配がかかったのなら、この先の逃亡が難しくなるだろう。
『王太子?』
「はい。この方は、王太子殿下です。只今、王城はクーデターを起こしたローゼンハイム王国とエーレルト辺境伯軍……それと、それを唆したカレンベルクに制圧されました。僕は殿下をここからお救いしたいのです」
胸に手を置いて畏まり、今度こそフランシスはヴェローニカに誠実に答えた。
それを見たヴェローニカもまた、その誠意に応えたいと思う。
『クーデター?――じゃあとりあえず、あの人たちがここに来れないようにしておかないと。えーと……どうしようかな』
ヴェローニカは少し思案すると、声が聞こえた方向に手をかざした。すると庭園に漂う魔素の霧がたちまち濃くなっていく。
『よし。これでいいかな』
「今、何をしたのだ?」
『この辺りの霧に、方向感覚や記憶を狂わせる幻覚作用を施してみたの。霧を体内に吸い込んだら作用するから、誰もここまでは来れないわ』
「そんなことができるのか…」
ヴェローニカの説明を聞き、ジルヴェスターとフランシスは目を丸くする。
《幻惑魔法》はその昔、人を惑わす魔法と恐れられ、迫害された白魔術師の血統因子による古代魔法だ。黒魔術と並び禁術としてその知識は封印され、詳細は知られていない。
これが神政国家エルーシアの聖女の力。
これでは神殿が彼女に執着するのも無理はない。
「ヴェローニカ!」
空間が歪んで、中から白い髪の男が現れた。同時に、膨大な魔力の威圧感に当てられたジルヴェスターとフランシスは、無意識に身構える。
鮮血を想起させる赤い虹彩。
身が竦むほど畏怖を感じさせる美貌。
見聞にない異国の白装束。
これは、人間ではないだろうと二人は察した。
『あれ?その声。…白夜、だよね?』
「お前……こんな所で何をしている。何故俺の声に応えない。勝手な行動は慎めと、何度言わせるのだ」
『フフッ。やっぱり白夜だ。久しぶりだね。元気そうで良かった』
聞き覚えのある不機嫌そうな低い声に妙に安らぎを覚えて、ヴェローニカは思わず吹き出す。見た目は人型に変わっても、ヴェローニカには変わらず愛おしい存在だった。
けれど、白夜が迎えに来たことで、自分の置かれている状況を思い出す。
『あ、ごめんなさい。私……神殿に捕まっちゃって。もう、知ってた?』
「だから来たんだろ」
『そっか。そうだよね。やっぱり迎えに来てくれたんだ。ありがとう。白夜は私がこんな姿でも、わかるんだね』
「当然だ」
『でも白夜、人化できたのね?…とってもかっこいいね』
ふわりと浮いて、ヨシヨシ…と背の高い男の頭を撫で始めた。人外の存在に対して、まるで犬でも撫でるような気安さだ。白夜がどんな姿であろうと、ヴェローニカにとってはどこまでも愛らしい白い毛並みの大きな狐なのだろう。
「さっさと帰るぞ」
嬉しそうに頭を撫でるヴェローニカをしばらく半眼で眺めて嘆息し、宙に浮いたままの彼女の腰を白夜はくいっと引き寄せた。
『待って、白夜』
「なんだ」
『…この人達をここから逃したいの。送っていってくれないかな?行きたいところまで。白夜なら簡単でしょ?』
「何故俺がそんなことを…」
『…私、転移で人を送るのは初めてだから、うまくできるかちょっと心配で。…でも。うん。じゃあ白夜はあっちで待ってて?もう今は体が軽くなったから、なんでもできそうな気がするし、そのあとはちゃんとひとりで戻れるから』
「っ…」
断られてしゅんとしたあと、健気に笑って見せるヴェローニカに白夜は苦々しい表情だ。そして不承不承といった声で呻く。
「……どこへ行きたいんだ」
『!ありがとう、白夜!』
顔を明るくさせ、ヴェローニカは無邪気に白夜の首元に抱きついた。対する白夜は、内心、承服しかねるという態度。
「……」
『白夜が送ってくれるって。大丈夫よ?白夜はこう見えて、優しいから』
こう見えて……
今もひしひしと感じる不本意さと魔力のプレッシャーに思う所はあったが、フランシスは目の前の大事を優先させる。
ところで“転移”と聞こえたが、現在の《転移魔法》は、王立図書館の禁書庫で管理される魔術書にある古代の転移魔法陣を、宮廷お抱えの高級錬金術師が最上位ランクの貴重な魔術素材を使って調合、錬金した製法秘匿のインクで描き、王家の許可の下りた重要施設にて限定運用されるのみ。
つまり転移魔法とは、個人の使える魔法などではない。
もうフランシスは、彼女達について深く考えることを止めた。
「っ。…それでは、お言葉に甘えて。…殿下、ジークヴァルト伯爵の元へ参りましょう。きっとあの方ならば無碍にはしないはず」
「ジークヴァルトか。あれも公爵家の後継者ではあるからな。優しいだけではないぞ、フランシス」
「ええ。わかっています。ですが他に、反乱軍に対抗できるような勢力は…」
「…そうだな」
フランシスの提案が“最適”どころか、それ以外にはないだろうことは、ジルヴェスターにもわかっている。
『ジークヴァルト様の所?』
「ご存知なのですか?」
『ジークヴァルト・リーデルシュタイン伯爵?』
「ええ、そうです」
『ジークヴァルト様なら、なんとかできそう?』
「それは…」
口籠るフランシスに、ジルヴェスターが援護する。
「だが確かに、筆頭公爵家であるリーデルシュタインの勢力以外に、ローゼンハイム王国を退けられるとは思えない。他の貴族家では手に余るだろう。本来であれば、天下に号令をかけるのは国王であり、我ら王族であるべきだ。だが王室は……民衆の信用を失ってしまったからな」
ジルヴェスターは己の不甲斐なさに声を暗くした。
それとともに、リーデルシュタイン以外の貴族家が舵取りをすれば、功績を争って無策に兵を死なせ、その責任をなすりつけ合い、運良く勝とうものならば今度は利権争いに勤しむのだろうと、王国最大派閥を牛耳る王妃の嫡子である王太子ジルヴェスターには、容易に想像できた。
複雑に絡み合い、重く澱んだ魔力の色。何か思い悩んでいるジルヴェスターを視て、ヴェローニカは白夜に再びお願いをする。
『白夜、できる?』
「俺が人間の名など知っていると思うか?」
『知らないとできない?』
困ったように眉を寄せ、首を傾げるヴェローニカを見て、白夜はまた僅かに苦い表情を見せた。
「行ったことがなければ、魔力を探ればいい。だがこの俺が、人間の魔力など知る訳がないだろ。正規の転移魔法なら、安全性のために正確な座標が必要なんだぞ」
“そっか”としょんぼりしてしまったが、すぐに“そう言えば…”とヴェローニカは閃いた。
『じゃあ、さっきの場所は?あのね、白夜。エルフの里に大きな世界樹があってね。その中に――』
「あれはダメだ。もう二度と触れるな」
『……』
「お前のためだ」
急に白夜の声が険しくなる。
どうして?とヴェローニカの心には疑問が浮かんだが、白夜がそうすることにはきっと意味があるのだろうと素直に思えた。
白夜はきっとあれの存在も、その力もヴェローニカ以上に知っているのだろう。そしてその力ゆえの危険性も。
『…うん。わかった。白夜が言うなら、そうなのね。じゃあ、やっぱり私がやってみる』
「できるのか?」
『だって、白夜は王都を知らないし。でも私も知ってるのは、エーリヒ様の侯爵邸と、ハインツ様の子爵邸だけだけど。あとは、馬車で行った平民区と、市場調査で行った貴族街のブティックやサロンかな?』
指折り数えるヴェローニカに、白夜はさらに苦い顔を深め、息を吐いた。
「是非もなしか」
『何かいい案でも思いついた?』
「……」
覗き込むようにするヴェローニカを白夜は無言で見つめ返した。
再会してからふと見せる無垢な仕草は、本来の彼女の純真さの表れだと白夜にはわかっていた。
窮地に追い込まれたこと。時空を旅して開眼したこと。記憶の海に触れたこと。ここで白夜に出逢ったこと。それらが彼女の虚像を少しずつ剥がしていく。
このままでは、いずれ見つかってしまう。
…それでも。
それまでは。
白夜はヴェローニカを引き寄せた。そしてついでのように他の二人に声をかける。
「お前ら、俺に掴まれ」
「え?…あ、はい」
恐る恐るフランシスは白夜の異国の衣を掴んだ。ジルヴェスターもそれに続いて白い着物を掴んだ時――
「上から見れば、済むことだ」
「え…」
目の前がぐにゃりと歪んで、次の瞬間には、方向もわからない真っ暗な空間の中にいた。だが足下の明かりの群れに気がついて、肝を冷やす。
ヴェローニカを抱いたまま、白夜は王都の上空に転移したのだ。
「うわぁッ?!」
「フハッ!これは凄いな!ハハッ!」
悲鳴を上げたフランシスとは違い、ジルヴェスターは子どものように笑う。空中浮遊という摩訶不思議を心から愉しんでいる。
「どこだ?その場所は」
「え?ちょっ…」
突然地面がなくなり、フランシスは慌ててジルヴェスターを支え、白夜を掴み直す。だが特に落ちるようなことはないようだ。重力を感じずに、彼らはただそこに浮いている。
今夜は信じられない出来事の連続だった。
真っ暗な夜陰に魔素霧が立ち込め、眼下には王都の幻想的な淡い明かりが一望できた。王城に近いほど区画された敷地が広く、建造物が荘厳だ。それが外側の王都門に向かうにつれ、細々とした低い家並みの佇まいになる。
王都を二つに分ける貴賤の隔壁。そのちょうど向こう側に、灯りが集中していた。幾つも揺らめき、蠢いて、それが魔導灯ではなく松明を持った人々の集まりなのだとわかる。
『あれ、どうしたのかな?何か騒いでるみたい』
「…あれは恐らく平民たちだろう。夕刻から貴族門前に集まり、王室や神殿の不正を王都騎士団に訴えていると、聞いた」
「殿下…」
フランシスの気遣う声を聞きながら、ジルヴェスターは改めて、民衆の信頼を失った王室を憂う。
だが、もう憂うだけではいけない。喪うはずだったこの命を、彼女に救ってもらったのだから。ずっと、要らないと思っていたはずの、この命を。
ジルヴェスターは新たな思いを吸い込んで、眼下のとある場所を指差した。
「あの灯りだろう。リーデルシュタイン公爵邸は。恐らくジークヴァルトは王城を撤収したあと、あそこで指揮を執っているはずだ」
そこは貴族街の隔壁の中にあり、堅固な壁に囲まれ、城のような佇まいの館が何棟も建ち並ぶ、一際大きな敷地だった。
『白夜、お願いね』
「ああ」
白夜は再び転移した。ジルヴェスターが指差した、ジークヴァルトのいる王都リーデルシュタイン公爵邸へ。
◆◆◆
ジルヴェスターとフランシスを公爵邸前まで送ったあと。
エントランスへと向かう二人の後ろ姿をヴェローニカが見守っていると、白夜がそっと抱き寄せた。
彼を見上げると、その赤い瞳にはどこか焦りが視えた。
ヴェローニカの胸がしくりと痛む。
白夜はいつ知ったのだろう。大神殿に囚われていることを。きっとまた心配させてしまったんだろうな。
「もう十分だろ?帰るぞ」
“うん”と返事はしたものの、本当はまだ後ろ髪を引かれる思いがあった。
――「この恩は必ず返す、と言いたいところなのだが。情けないが今の私に返せるものなど、何も確約できない。だが、それでもいつか……返したいとは思っている。…ありがとう、ヴェローニカ嬢」
別れの間際、王太子ジルヴェスターは礼儀正しくヴェローニカの手を取った。身を屈め、淑女にするように恭しく指先にキスを落とされて、ヴェローニカはパチリと瞬いて戸惑う。
だが伏せられた黄昏色の瞳は悲哀に陰り、これが偽りない彼の真心なのだと、今のヴェローニカには視えていた。
夢のような過去世で、たくさんの人間に会い、たくさんの感情を視てきたからわかる。
目の前にいる彼は、立派な貴公子。けれど精一杯の虚勢が剥がれ落ちて、顔を出した本心が痛々しく、そんな不器用さにどこか覚えもあって愛おしい。
年齢も立場も性別も、純粋な魂の前には虚飾に過ぎない。
『……やっぱり、待って。白夜』
「……まだ何かあるのか?」
白夜がこんなに急かすのは、何か理由があるのだろうか?聞いたら、答えてくれるだろうか?
白夜はあまり多くを語りたがらない。けれどそれが必要であれば、教えてくれることはわかっている。
そして“白夜は私を害さない”。
それは確信。
いや、白夜なら害されることがあったとしても、それは必然なのだと、ヴェローニカには思うことができる。
例えそれが、この命だったとしても。
それくらい、前世から。繰り返してきた幾星霜の過去世から、白夜は――光の神シュペーアは、この魂を見守ってきてくれたのだから。
「フフ。あのね。やっぱりもう少しだけ、お節介を焼きたいの。…だめ?」
「……」
白夜は不服そうな表情を見せたが、それを聞いてやることにした。彼女の性格を、誰よりも理解していたから。
そしてヴェローニカはもう一つのお節介として、ジークヴァルトの執務室に転移した。
それまでずっと敵対していた“彼らの話をちゃんと聞いてあげてね”と、先に一言、ジークヴァルトにお願いをするために。
◆◆◆
「何者だ?どこから現れた?!」
暗闇の中から不審な人影を見咎めた衛兵は、誰何の声を張り上げた。それを聞きつけた警戒中の兵たちが駆けつけ、手にした槍を一斉に不審者に向ける。
リーデルシュタイン公爵邸の敷地内。
王城は現在、反逆の徒によって封鎖され、それを受けて厳重に警戒していたはずのエントランス前に、どこからともなく二人の人物が姿を現した。だが来客があり正門を通したとの連絡は受けていない。
保安灯の明かりの下まで歩み出た不審者たちは、そこで立ち止まる。
賊は意外にも、高貴な衣装の金髪の貴公子とその従者。そして不穏にも、胸元には浅黒く血がかかっている。
衛兵たちに緊張が走る中、貴公子は優雅な所作で血に染まった胸元を押さえ、槍衾を前に臆することなく名乗りを上げた。
「私の名は、ジルヴェスター・フォン・ヴァイデンライヒ。この邸宅の主、フリードリヒ・リーデルシュタイン公爵及び、我が従弟であるジークヴァルト・リーデルシュタイン伯爵に、目通り願いたい」
予定通り、ニャンニャンニャンの日に更新。(2/22)
過去回でジルヴェスターはヒルデベルトに、
「女は狡猾だぞ、ディト。いつか痛い目をみるからな」
と言ったはず。
そんなジルヴェスターの精一杯の誠意。
次のお話は…
ここで出すか。もう少しあとか。
「暁闇」
The darkest hour is just before the dawn.
の予定です。




