第3話
「コホン、コホン……ハアハア……ふうー……」
今日も朝から激しい労働が待っていた。
ひと仕事終え、丘の上に羊の放牧をしながら一息ついた。
朝から何も食べていない。
お腹が空いて死にそうだ。
オリバーが帰った翌日から継母とクロエによる壮絶なイジメがはじまった。
朝から晩まで叱咤されることはもとより、いつも以上に厳しい労働を強いられた。
早朝から夜中過ぎまで働き続けても終わらないほどの仕事量を与えられている。
家畜の世話と小屋の掃除に畑での農作業、井戸汲みに食事や洗濯、最近ではそれに屋敷の大掃除や鍋磨きまで加わっていた。
仕事量に比例してぜんそくも悪化した。
幸いこれから夏を迎えるため暖かくなりはじめた。
それだけが救いだった。
オリバーがくれたデイジーの花冠は枕の下で枯れていた。
どうしても捨てることができなかった。
枯れた花にわずかな希望を託した。
――ジャンッ! ジャンッ! ジャンッ! ジャンッ!
「あら? あれは……!」
ドラの音の方角を見るとイングランドの王立船が入港するところだった。
まさか!
オリバー!
「ハアハア……」
ぜんそくも忘れ港に向かって全速力で走った。
◇ ◇ ◇ ◇
「ゼイバア……ゼイハア……」
すでに王立船は港に到着していた。
荷物と一緒に見おぼえのある老人が降りてきた。
オリバーの執事だ!
「おや? これはこれは! エマ嬢ではありませんか! もう用意はできておるのですか?」
「ハアハア……用意と申しますと……?」
「オリバーさまの元へ行く準備ですよ! 荷物はどこですか? 積んでしまいましょう!」
「荷物とは、わたくしのですか? コホン、コホン……」
「もちろんですよ!」
「でも……オリバーさまと結婚するのはクロエです。義理の姉であるわたくしが行く意味は、コホッ……」
「ご存知ないのですか? エマさまはクロエさまのお目付け役としてリード家に招待されているんですよ! さあ! 馬車でお宅に行って、荷物を持って参りましょう! イングランドへ!」
「イングランドへ……!」
◇ ◇ ◇ ◇
執事と馬車で屋敷に戻ると継母とクロエがひどくびっくりしていた。
「エマ! なんというご無礼を! すぐに降りなさい! おまえなんかが馬車に乗るもんじゃないよ!」
「カーライル夫人! なんという言い草! エマ嬢も立派な男爵令嬢ですぞ! オリバーさまからくれぐれもよろしくと仰せつかっております。ところで……エマ嬢の荷物の用意はできておるんでしょうな?」
「エ……エマは用事があるのであとからきます! のう? エマ?」
「義母上……」
「エマさまの準備が整うまで出発はいたしません! カーライル夫人! あなた方の荷物を先に港まで運ばせましょう!」
「そんな……くそう……エマ! とっととお降りよ! サッサと荷物の準備をおし! わたしたちは港にいるから、あとからおいで!」
継母はすごい目でわたしをにらみつけると執事を出迎えもせずに屋敷のなかへと入っていった。
わたしは執事に一礼して馬車を降りた。
一目散に自分の部屋へ駆け込み荷をまとめた。
荷物といっても何もない。
少しましな服に着替えて髪を整えた。
――カツーン!
「あら? なにかしら?」
丘で拾った赤ちゃん用の銀のスプーンだった。
すっかり忘れていた。
「もしかしたらこれは、幸運のスプーンかもしれないわ」
わたしはそれを拾い、カバンの1番奥に忍ばせた。
「今度はいつ戻れるかわからない。お墓参りをしていこう」
両親とゾーイの墓参りをしてから港へ行くことにした。
小さな従業員部屋を出るとき、少しだけ寂しい気持ちがした。
8年間この屋根裏部屋で寝起きしてきた。
ここから見る朝日は最高だった。
枯れてしおれたデイジーの花冠だけを枕の下に置き去りにした。
◇ ◇ ◇ ◇
「ハアハア……あっ! メアリー! ジャックー! コホン、コホン……」
両親の墓参を終え丘の上まで上がってきた。
デイジーの花畑でメアリーとジャックが羊の放牧をしていた。
「エマ! よかった! 聞いたわよ! イングランドへ行くんですって? うらやましいわー!」
「都会は恐いところだぞ! 気をつけろよ!」
「ハアハア……メアリー、ジャック! 会えてよかったわ……2人とも、元気でね……」
「永久の別れじゃあるまいし! イングランドへ行ったら、うんとおしゃれして良い男をつかまえるのよ!」
「おれみたいにな!」
「ちょっとー! あんたみたいな田舎者がいるわけないでしょ! なんたってイングランドは都会なんですからねー!」
「言ったなー! メアリーだって田舎娘だろー!」
「もう! お互いさまでしょ!」
「フフ……2人のやりとりが見られなくなるなんて寂しいわ」
「大丈夫よ、エマ! 都会に行ったら、わたしたちのことなんて思い出せないぐらい楽しいことだらけだから! 元気でね……旅の無事を祈ってる!」
「何かあったらいつでも帰ってこいよ! おれたちはいつまでも変わらず待っているからさ!」
「メアリー、ジャック……どうもありがとう。2人を心の支えにしてイングランドでもがんばるわ!」
強い風が吹いてきた。
デイジーの花畑が一斉に揺れはじめた。
まるでわたしに手を振り別れのあいさつをしているようだった。
◇ ◇ ◇ ◇
――ミャウミャウ、ミャウミャウ……。
本土へは半日ほどで着いてしまうが、初めての船旅は快適だった。
飽きることなく水平線をいつまでも眺めていた。
継母とクロエは日に焼けると言いながら早々に船室に引っ込んでしまった。
「エマ嬢がこんなに船がお好きとは! イングランドに着いたらオリバーさまに湖に連れていってもらいましょう!」
「はあ……」
執事は親切でありがたいが、オリバーの婚約者はクロエだ。
義妹を差し置いて義姉がしゃしゃり出るわけにはいかない。
適度に風が吹き快晴のなか、なんの障害もなく船は進んだ。
夕方になり、目をみはるほど大きな港に着いた。
「すごいわ……」
――ドンッ!
「きゃあっ!」
「ちょっと! エマ! 邪魔しないでよ! あんたはわたしの侍女なんだから、いちばん最後に降りなさい!」
クロエがわたしを突き飛ばし大きな腰を揺すりながら舷梯を降りていく。
派手な真紅のドレスに派手な化粧で飾り立てている。
そのうしろから継母が紫のこれまた派手なナリで続いていく。
この人たちと家族かと思うとゾッとした。
「エマ嬢! お手をどうぞ!」
「どうもありがとうございます……」
執事に手を取られ静々と舷梯を降りていった。
自分の姿がとても恥ずかしい。
本土の人たちは誰も彼もがとてもおしゃれで身ぎれいで、わたしのように貧しい身なりの者はひとりもいない。
クロエたちの田舎くさい格好よりもひどいありさまだ。
「セバスチャン! ごくろう!」
とつぜん目の前にオリバーがあらわれた!
「これはオリバーさま! わざわざお迎えにいらしたのですか?」
「ああ! 初めての船旅は不安だろうと思ってね。だがセバスチャンにしてやられた! 先に手を握られるだなどとは……」
「オリバーさま! わたくしのために、なんとおやさしい!」
クロエが気持ち悪いぐらいしなをつくってオリバーに、にじり寄った。
「これはクロエ殿! 船旅はいかがでしたか?」
「船が揺れて不安でしたわ! すっかり船酔いしてしまいました!」
「これぐらいの揺れで船酔いしては、新婚旅行に行かれませんよ」
「まあ! すてき! ハネムーンは船上ですの?」
「はい。ヨーロッパの国々を周る計画を立てております」
8年前、オリバーはしきりと大陸の話をしてくれた。
わたしに広い世界を見せてあげたいと、それは熱心に様々な国の話をしてくれた。
その約束をいま果たそうとしてくれているのだ。
わたしの両目にまた忘れたはずの涙が浮かびはじめた。
「パリには行かれますか? シャンゼリゼ通りにも? 新しい香水を買いたいわ! 服も! 靴も!」
「宝石もね? クロエ! わたしも真珠の首飾りが欲しいわ! 女王陛下のような!」
継母も一緒になって騒ぎはじめた。
どれもこれもすべてオリバーに買ってもらうつもりらしい。
「エマは? エマ嬢は何か欲しいものはございませんか?」
「オリバーさま……」
オリバーがそのやさしいまなざしをわたしに傾けた。
こぼれだしそうな涙をこらえながら素直にこたえた。
「わたくしは……8歳のときから教育を受けておりません。できれば……イングランドにいる間にどなたか教養のある方に学問を学びたいと思っております。それでなければ本だけでも読ませていただければと……」
「それは殊勝な考えですね! では、あなには優秀な教師をおつけしましょう!」
「そ、そんな教師だなどと……!」
「さあ、お疲れでしょうからうちの馬車で我が家へ参りましょう。まだ婚姻まで半年以上あります。ゆっくりとイングランドをお楽しみください!」
オリバーは気さくで明るく、あいかわらず光り輝くような美青年だった。
皆がチラチラとこちらを振り返る。
彼はそれほどまでにどこにいても目立つ存在であった。
これでは社交界でも人気の的だろう。
わたしなどとは最初から天と地ほどの差があったのだ。
婚約しなくて正解だ。
神さまはなにもかも最初からお見通しだったのだ。




