第20話
「ハアハア……ノア……どうか……どうか無事でいて……!」
――パカッパカッパカッパカッ! パカッパカッパカッパカッ!
必死でクロエのあとについていった。
彼女は王城の前を通り過ぎると左へ曲がり、目と鼻の先にある高級宿泊施設の前で馬をとめた。
「ハアハア……ここにノアが……?」
「エマ! 2階の正面の部屋よ。手荒な真似をして悪かったわ。あんたがいくら頼んでも会ってくれないから仕方なかったのよ」
「ノアを……ハアハア……ノアに早く会わせて……ゴホン、ゴホン……!」
馬を降りクロエに詰め寄った!
「ちょっと、落ち着いてよ! 息を整えなさい。また発作が出るわよ? 見てのとおり、ここは一流の宿屋よ。めったなことは出来ないわ! さあ、いきましょ!」
クロエが先に立ち高級宿屋に入っていった。
従業員たちの応対も一流だ。
息を整えクロエに続いた。
正面の階段を上り2階へ行くとすぐ目の前の部屋のドアを開けた。
奥の窓の下にキャロルと長椅子に座るノアがいた。
いつかのナニー、子守もいる。
「ノア!」
「ママー!」
すぐにノアが飛んできて抱きついた。
「よかった……どんなに心配したことか……ハアハア……」
「ママ、ママー! 恐かったよー!」
ノアを抱きしめ心からホッとしていた。
こんなひどいことをしたクロエを許すわけにはいかない!
――バタンッ。
ドアが閉まる音がした。
ノアを胸に抱きしめたまま振り返った。
不敵な笑みを浮かべたクロエが立っていた。
「コホン、コホン……帰るわ。そこを通してちょうだい!」
「力ずくでもここは通さない! しばらく一緒にいてよ」
「なんのために?」
「窓から通りを見てごらんなさいよ。正面の大きな建物が誰の館だかわかる?」
「えっ……?」
宿屋の前には宮殿のように美しい白亜の館が建っていた。
ノアを抱いたまま窓に近寄りキャロルの真上から外を眺めた。
その館の窓ガラスはピカピカに磨きあげられ、劇場を彷彿とさせるせり出した美しいバルコニーが建物とよく調和していた。
要人の住まいなのだろうか。
アーチ状に区切られたエントランスには衛兵が立っていた。
――ガラガラガラガラッ、ガラガラガラガラッ……!
王城方向、わたしたちの来た方角から馬車がやってきた。
館の前で停車した。
2人連れの男女が降り立った。
「うそ……ハアハア……」
オリバーだった!
ルーシー・ウォルターも一緒だ。
オリバーは衛兵にあいさつをしてエントランスから中へ入ろうとした。
だが、すぐに内から着飾った女が出てきてオリバーを押しのけるとルーシー・ウォルターに詰め寄った。
ネル・グウィンだ!
この館はネル・グウィンの住まいだったのだ。
「クロエ……! これは……! ゴホン、ゴホンッ……」
いつの間にか隣りに並び立ち、一緒に窓の外を眺めるクロエに聞いた。
「お察しのとおりよ。正面の館の女主人はネル・グウィン。そして、オリバーさまが足繁く通う場所の住人」
ネル・グウィンとルーシー・ウォルターの小競り合いはまだ続いていて、オリバーが間に入ってなだめている。
ネル・グウィンがルーシー・ウォルターのお腹に人差し指を突きつけながら何か叫びはじめた。
ルーシー・ウォルターも負けてはいない。
オリバーを指差し賢明に言い訳をしているようだが、こちらからではよくわからない。
痺れを切らしたネル・グウィンが、手の平を大きく振り上げた。
ルーシー・ウォルターが叩かれる!――そう思った瞬間オリバーがネル・グウィンの前に進み出て、彼女の手の平を自分の頬に受けた!
わたしは唖然としてしまった。
あの賢騎士オリバー・リードが頬を叩かれるなんて!
それも、彼はそれを甘んじて受けた。
手の力が抜け、ノアを腕の中からずるずると足下の椅子に座らせてしまった。
オリバーは暴れはじめたネル・グウィンを強引に押さえつけ、ルーシー・ウォルターを衛兵に頼みそのまま館のなかへ入っていってしまった。
あとに残ったルーシー・ウォルターは馬車の中から出てきた侍女に支えられ、再び馬車に乗り去っていった。
「エマ、これをあなたに見せたかったのよ。ルーシー・ウォルターが一緒に来たのは、うれしい誤算だったわ! とにかく、オリバーさまは浮気をしている。それも飛びきり上等な女どもと!」
「ハアハア……子供たちの前でおかしなことを言うのはやめて……ゴホン、ゴホン……」
「ママー! だいじょうぶ?」
「ノア……」
ノアが下からわたしの顔を見上げて心配している。
「エマ! そこの長椅子に座って休みなさいよ! 水差しの水でも飲んだら?」
「ハアハア……クロエ……あなたの差し出すものなど……飲むわけがないでしょう?」
「そう? ご自由に?」
クロエはクルリとうしろをふり向き、テーブルの上の水差しから自分だけコップに水を注いで飲んだ。
わたしは、ノアの隣りに腰かけた。
「ハアハア……」
「ママー……」
「ノア……大丈夫よ……少ししたら、いつものように良くなるから……コホン、コホン……」
ノアが背中をさすってくれた。
だんだんと息が落ち着くことで、周りの様子が見えてきた。
キャロルがナニーの腕のなかで、きょとんとしながらこちらを見ている。
あまり食べていないのか、この前より痩せて顔色が悪い。
キャロルの額に手を当てようとしたら、クロエの叱責が飛んできた。
「その子にさわらないで! いいから、放っておいてよ!」
「クロエ……そんな言い方……」
クロエの大声にキャロルがビクビクしている。
普段から怯えた生活を送っているようだ。
ナニーも恐怖からか一言も話さず微動だにしない。
クロエの子供に生まれたキャロルを心の底から気の毒に思った。
◇ ◇ ◇ ◇
ぜんそくの発作が治まってきた。
ノアもキャロルも寝ている。
キャロルはナニーの腕の中でしきりにマミー、マミーと寝言をいっていた。
かわいそうに。
この子は母親の愛情に飢えているのだ。
――カーン、カーン、カーン、カーン……。
教会の鐘の音があたりに響き渡る。
この宿屋に入ってからすでに三時間は経過している。
オリバーはいっこうにネル・グウィンの館から出てこない。
もう充分だ。
オリバーの女性関係は充分すぎるほど把握した。
あとは忘れる努力をするだけだ。
オリバー自身と、彼を心から愛してしまったわたしのこの心ごと。
「クロエ……そろそろ帰してちょうだい。気は済んだでしょ?」
「まだよ、エマ。役者が揃わないと!」
「役者? なんのこと? お芝居でもはじめるつもり?」
「よくわかってるじゃないの! そうよ! これから楽しい楽しいエマ・リードの人生劇場の第2幕目がはじまるのよ! 観客はあんたに関わるわたしたち全員よ!」
「クロエ……いつまでそんなにわたしを憎み続けるの? あなたの気持ちは充分に伝わったわ。ここらでもう解放してちょうだい。それと……今度ノアを巻き込んだら承知しないから!」
「その取り澄ました態度! 本当に勘にさわるよ! そんな大口たたけるのもいまのうちだよ。あんたの人生が平穏無事なのが気に入らないのさ! エマのために波乱万丈な幕開けを用意してやった! 存分に楽しむがいい!」
――バンッ! ガチャッ!
――コツコツコツコツッ……。
「あっ! クロエ! クロエ、待って! コホン、コホン……」
クロエの立ち去ったドアへ駆け寄り、いそいで取っ手をまわした。
――ガチャガチャッ、ガチャガチャッ!
外から鍵が掛けられていて、びくともしない。
――ドンッ! ドンッ、ドンッ!
「ハアハア……誰か……! 誰か、助けて!」
ドアを叩きながら大声で叫んだ。
ここはきちんとした立派な宿屋だ。
きっと誰かが助けにきてくれるだろう。
――ツカツカツカツカッ!
――ガチャガチャ、ガチャッ!
――ガチャリッ!
「よかった……すみません! 小さい子がいるんです! ハアハア……どうか助け……」
ドアを開けた男を見て凍りついた。
ダニエル・リードだった!




