第32話 国家の限界と二人の満点
祝祭の戦場32 国家の限界と二人の満点
1. ヴァルディア軍事部・作戦会議室
「――英雄タニア、今回の撃破数、ゼロ。……これは一体、どういうことだ?」
重厚な円卓を囲むヴァルディア上層部の一人が、先の戦場から転送された魔導記録を睨みつけ、冷厳な声を放った。
並み居る将校や有力者たちが息を呑む中、前線報告を担う若き士官が、冷や汗をにじませながら頭を垂れる。
「は、報告によりますと……ノクシア側に『ガラム』が参戦していた模様。タニア殿は、終始彼に抑え込まれていたとのことです」
「ふん……相変わらず忌々しい名前だな。最近は神隠しにでもあったかのように聞かぬ名だと思っていたが、まだ生きていたか」
別の有力者が不快そうに鼻を鳴らす。
ガラム。かつて天空の戦場を震撼させた、ノクシアの英雄だ。
「だが、いくら過去の遺物とはいえ、衰えた英雄一人に抑え込まれるなど情けない。……もっとも、それが今回の敗戦の本質ではなかろうがな」
中央に座す最高責任者の言葉に、会議室がしんと静まり返る。
ヴァルディアという国家の強みは、その圧倒的な「安定性」にある。
魔導アカデミーによる均一な教育、規律ある軍構造。兵の平均的な質において、ヴァルディアの右に出る国はない。
だが、それは同時に、突出した「異能」が生まれにくいという構造的欠陥でもあった。
「タニア一人が抑えられた程度で、戦線全体が揺らぐこと自体が問題なのだ。個の力に依存した我が国の限界が、早くも露呈した。……大神殿と魔導アカデミーに通達せよ」
責任者は冷徹な目で一同を見渡し、告げた。
「圧倒的な『個』を探せ。人格、素行、出自、一切不問。他国を力で圧殺できるほどの怪物を、至急見つけ出すのだ」
「いかにも。どのような狂犬であろうと、我ら有力者が手綱を握り、従わせれば良いだけの話ですからな」
居合わせた貴族たちが、醜悪な笑みを浮かべて賛同する。
彼らにとって、戦場に立つ同調者も、それを生み出すマスターも、国家に富をもたらすための「都合の良い道具」に過ぎなかった。
2. 屋敷の廊下
同じ頃、ヴァルディアのアークの屋敷。
いつもならまだベッドの中から出てこないはずの時間に、主であるアークが廊下を歩いていた。
「ふわぁ……」
アークは大きなあくびを噛み殺し、眠そうに目元をこする。
彼は自他共に認める「朝にめっぽう弱い」人間だ。
普段なら、使用人が何度も声をかけてようやく昼前に起き出すのが日常茶飯事である。
そんなアークが、まだ朝霧の残るこんな早朝に、寝癖も直さずふらふらと廊下を歩いている。
すれ違った使用人は、驚きに目を丸くしながらも慌てて頭を下げた。
「あ、旦那様。お珍しいですね、こんなに早いお目覚めなんて」
「……ん。タニアはどうしてる? ……やはり、昨日の戦線のことで落ち込んでいるか?」
まだ半分眠っているような掠れた声だったが、その質問だけは妙に切実だった。
自分の睡眠よりも、目覚めて真っ先に思い浮かんだのはタニアの容態だったのだ。
「タニア様でしたら、早朝の鍛錬はいつも通りにこなされておりました。ただ……先ほど終えられてからは、自室に籠もり、どなたも通さないご様子でして」
「そうか……うーむ……」
アークはまだ回らない頭で眉根を寄せ、タニアの部屋へと続く重い扉を見つめた。
いつも毅然としている彼女の、見えない傷。
アークは一つ深呼吸をして眠気を吹き飛ばすと、決意を固めて彼女の部屋へと足を向けた。
3. タニアの自室
コンコン、と控えめなノックの音が静寂を叩いた。
「タニア、入るぞ」
返事を待たずに静かに扉を開けると、部屋の奥、ベッドの縁に腰掛けたタニアがハッとしたように顔を上げた。
まだ鍛錬による汗が引ききっていないのか、金色の前髪が額に薄く張り付いている。
その胸元では、彼が贈った緑のネックレス――フェイトチャームが、朝日に照らされて静かに光を放っていた。
「マスター……。申し訳ありません、お休み中でしたのに、お騒がせしてしまって」
いつものように凛とした声を作ろうとしている。だが、アークの目は誤魔化せなかった。
彼女の深い緑の瞳は、これまでに見たことがないほど暗く沈み、細い肩は強張っている。
アークは彼女の正面まで歩み寄ると、その場に膝をついた。マスターでありながら、従者である彼女を見上げるような姿勢で、その冷たくなった手をそっと包み込む。
「謝るな。……悔しかったんだな」
「……っ」
アークの真っ直ぐな言葉に、タニアの息が詰まる。
彼女は唇を噛み締め、視線を床へと落とした。
「私は……あなたに勝利を捧げるために、この世界に創られた同調者です。あなたの魔力を、富を、これ以上ない形で証明するための人形。それなのに、昨日の戦場では……撃破数、ゼロ。ノクシアのガラム一人に終始手も足も出ず、ただ時間を浪費させられました」
ぽつり、ぽつりと、堰を切ったように本音が溢れ出す。
「戦士の誇りもない、卑劣な足止めでした。ですが、それを打破できなかったのは、私の未熟さです。……こんなことでは……!」
その声は、かすかに震えていた。
自分を責め抜く彼女の言葉を聞きながら、アークの胸に切ないほどの愛おしさと、激しい感情が湧き上がる。
アークは包み込んだ手に少しだけ力を込め、彼女の視線を自分へと向けさせた。
「タニア、俺を見ろ」
タニアが驚いたように目を瞬かせ、緑の瞳がアークを映す。
「俺が欲しかったのは、俺のために戦う無敵の人形じゃない。ましてや、あの欲深い貴族どもに誇るための便利な道具でもない。……あの日、大神殿でお前を呼び出した時、俺はお前という『存在』そのものを求めたんだ」
アークは首を振り、確固たる口調で告げた。
「お前が五体満足で、俺の元に帰ってきてくれた。それだけで、俺にとっては百点満点だ。朝に弱い俺が、こんな時間に起きてお前のところに来た意味を考えてくれ。辛い時は俺が側にいる。共に乗り越えよう……」
「マスター……」
タニアの瞳の奥で、沈んでいた緑の光が、フェイトチャームの輝きと呼応するようにじんわりと熱を取り戻していく。
彼女はゆっくりと深呼吸をすると、アークの手をきゅっと握り返した。
「……はい、マスター。次は必ず。あなたと共に、あの底知れぬ闇を払い、勝利を掴んでみせます」
ようやく、いつもの強い光が彼女の目に宿った。
二人の絆が、この挫折を経てより強固なものへと変わった瞬間だった。




