第28話 人の意地 後編
祝祭の戦場 28 人の意地 後編
夜の草原が、まるで息をひそめるように深い静寂に包まれる。
さわさわと草を揺らしていた風すらも、ピタリと止んだ。
ケイは、目の前の玩具がどう壊れるかを見届けようと、愉悦の笑みを浮かべたままダンを見つめている。
そして――。
冷たい静寂を破り、ダンの口から漏れ出た言葉は、ケイの予想を根底から覆すものだった。
ゆっくりと顔を上げたダンの表情。そこにあったのは、底知れない、だがどこまでも凪いだ「静かな狂気」の深淵だった。
ケイが期待していたような、醜い怒りや絶望の涙には、ただの一滴も染まってはいない。
「ケイ……。それを聞かせれば、俺が怒りに任せて無様に壊れると……そう思ったのだろう? ククッ」
「――っ!?」
ケイの端正な顔が、わずかに強張った。その赤い瞳に、初めて明確な動動が走る。本能的な気味悪さに、怪物の足が、思わず数歩後ずさった。
(こいつ……壊れていない。絶望も、発狂もしていない……どうしてだ!?)
ダンは静かに、だが地鳴りのような力強さを孕んだ濁声を言い放つ。
「お前は、人間というものを何も分かっていない。……俺の心はな、とうの昔に、お前を仕留めること『以外』のすべてを削ぎ落としてあるんだよ。――これが、ただの『人間』の狂気であり、執念だ!!」
刹那。
ダンの身体が、これまでを遥かに凌駕する踏み込みを見せた。
ガチ、と強固な金属音が響くと同時に、至近距離からボウガンの引き金が絞られる。
シュンッ!!
放たれた矢は、風を切り裂き、ケイへと吸い込まれていった。
(どうして……!?)
絶対的な強者として戦場に君臨していたケイの身体が、金縛りに遭ったかのように硬直していた。
刹那、風を切り裂いて肉薄した矢が、肉を裂き、骨を砕く鈍い音を立ててケイの身体に深く突き刺さる。
「グッ……クッ……!」
これまでに味わったことのない鋭い激痛に、ケイの細い身体が大きくたじろいだ。その美しい顔は、初めて味わう恐怖と驚愕に歪み、動揺を隠しきれない。
間髪入れず、ダンはボウガンで追撃の構えをとっていた。冷酷に装填された次弾の矢が、月光を反射して鋭く、禍々しい光を放つ。
「あの世で、ティレナに……這いつくばって詫びろォォッ!!」
ケイの赤い眼が、限界まで見開かれた。
脳裏をよぎる、明確な『死』の予感。――命の危機。
生存本能に突き動かされたケイの双剣が、思考よりも速く、反射的に閃光を描いた。
気がついたときには、冷徹な刃が、ダンの胸元を深く、致命的に切り裂いていた。
ドク、と鮮血が溢れ出し、口から血を吐きながら――しかし、ダンは狂おしく笑った。
肉体を真っ二つにされかねない致命傷を負わされながらも、彼は己の死など、初めから一瞥すら与えていなかった。
「どうやら……お前は、この俺を……『作品』には、できなかったようだな……。ククッ、ゲホッ……!」
それは、傲慢な芸術家気取りの怪物を、精神の底から引きずり下ろした男の、皮肉に満ちた満足げな笑みだった。
ダンは確信していた。ただの人間である自分が、この瞬間、化け物に一矢報い、勝利したのだと。
激しい動揺に耐えかねたケイは、ダンにとどめを刺すことすら忘れ、逃げるようにその場を飛び去った。
夜の草原を疾走しながら、ケイの脳内は、未だかつてない混沌に支配されていた。
(分からない……理解できない! どうしてあいつは、絶望しなかった……!? どうして、壊れなかったんだ……!)
恐怖を打ち消すように必死に思考を巡らせるケイ。だがそれと同時に、身体に突き刺さったボウガンの矢の痛みが、妙に鬱陶しく、そして不気味なほど激しく疼き始めていることに、彼はまだ気づいていなかった。
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夜が明け、戦場に静かに朝日が差し込み始めていた。
優しくあたたかな黎明の光が、血に汚れた草木を、まるで包み込むように等しく照らし出していく。
一本の巨木の根元に寄りかかり、ダンは静かに崩れ落ちていた。
胸に刻まれた傷は深く、流れた血の量はあまりに多すぎる。もはや、助からないことは誰の目にも明らかだった。
だが、死線に立つ彼の心は、奇妙なほど穏やかに、そして深く満たされていた。
「ククッ……ゲホッ。……見せて、やったぞ。ただの『人間』の、意地を……」
その蒼白な唇に浮かんだのは、狂気ではない。すべてをやり遂げた男の、誇らしげで満足そうな微笑みだった。
死を目前にし、ダンの瞳からゆっくりと光が失われ、虚ろに濁っていく。
しかし、その最期の網膜の奥に、――あの日失った、愛しい人の幻影が鮮やかに結ばれた。
それは、叶うはずのなかった未来の調律。
ティレナと交わした夢の結婚式。小さな養子を温かく迎え入れ、木漏れ日の中で笑い合う、穏やかで幸福に満ちた愛の日々。
それらの温かな情景が、走馬灯のように浮かんでは、朝靄の彼方へと儚く消えていく。
「ティレナ……。すまない……。仇は討てなかった……。だけど、俺は……、いや……私は……満足だ。今、ようやく……君の、元へ……」
さわさわと、朝の明かりを浴びた草原が少しだけざわつき、そして、世界に完全な静寂が訪れた。
優しく、どこまでもあたたかな朝日の光が、物言わぬダンの亡骸を包み込む。
その穏やかな死に顔は、復讐の悪魔に魂を売る前の、――かつて歌を愛し、子供たちに慕われていた、あの優しかった頃のダンの表情に、静かに戻っていた。
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ノクシア国、セレナの豪奢な屋敷。
かつてない静寂が部屋を満たす中、ケイは愛用の双剣をじっと見つめたまま、微動だにせず考え込んでいた。
ケイの赤い瞳は、見たこともない動揺に揺れている。
「どうして……あいつは……。どうして、壊れなかったんだ……」
ポツリと漏れ出た声には、これまでの無邪気な余裕など微塵もなかった。
お兄さんを壊して『最高傑作』に仕上げるはずだった。絶望に狂う無様な姿を見るはずだった。
なのに、あの人間は致命傷を負いながら笑っていた。自分を作品にはできなかったと、勝ち誇ったように。
その隣で、セレナは美少年の痛々しい横顔を心配そうに見守っていた。
いつもなら戦場から戻れば嬉々として芸術を語る彼が、今はまるで、正体不明の怪物を目撃してしまったかのように動揺している。かけるべき言葉を、彼女は最後まで見つけられずにいた。
「……うっとうしいな」
ケイは小さく、不快そうに顔を顰めた。
傷口はとうに塞がっているはずだった。
だが、ダンが放ったあの最後の一矢――その痛みの残滓が、今もなお、彼の肉体と精神の奥底を不気味に、激しく疼かせ続けている。
ただの『人間』が命を賭して遺した、消えない呪いのように。




