第100話 白狐神ユキ誕生の記憶
これは夢だ。そう気づいたのは、すぐだった。
俺は森の中に立っている。
見覚えのある、大きな木。その根元には柔らかそうな草と枯れ葉が集められ、子供一人が丸くなれば何とか眠れそうな窪みがある。
「……ここ」
忘れるはずがない。異世界へ来た初日、名前すら持っていなかったユキが、一人で寝床にしていた場所だ。
俺は自分の服を見る。茶色いスエードのフード付きハーフコート。黒のニット。黒のデニムパンツ。茶色のワークブーツ。
「また、この格好か」
原宿の夢でもそうだった。どうやら俺の夢にとって、この服は「異世界へ来た俺」の制服らしい。
ただし、今日はユキがいない。
「ユキ?」
呼んでも返事はない。こびゃっこもいない。代わりに――。
「……何だ、あれ」
木の根元から少し離れた場所。直径二メートルくらいの、真っ白な光の渦が浮かんでいた。縦に立った水の渦のようにも見える。
だが液体ではない。無数の細かな光が、ゆっくり回りながら中心へ集まり、また外へ広がっている。
白。銀。ほんの少し青。時々、金色。雪の結晶を細かく砕いて、夜空へ撒いたような光だった。
「配置展開……じゃないよな」
当然、半透明の輪郭ではない。鑑定しようとしても、何も表示されない。
「夢だからか?」
「左様じゃ」
「うわっ!」
真横から声がして、俺は飛び退いた。そこに白い狐が座っていた。
体長五十センチくらい。普通の白狐――と言うには毛並みが白すぎる。雪そのものみたいな白い毛に、細く釣り上がった目。聞き覚えのあるその声は、手のひらサイズのぬいぐるみ姿ではない。
「……こびゃっこ?」
「うむ」
「ちょっと大きくないか?」
「昔はこの程度の姿が通常であった」
「じゃあ、これは過去のお前か?」
「少し違うがの」
こびゃっこは白い渦を見上げた。
「ここはユキの記憶。そして、びゃっこの記憶でもある」
「お前の?」
「正確には、実体を失っておった頃の残留思念体の記憶じゃ」
俺はもう一度周囲を見る。あの日と同じ木。小川。森。だが、妙に静かだった。
「じゃあ、最近の夢と同じなのか?」
「原宿や、ミミバスの夢のことかえ?」
「ト○ロっぽい方はお前の記憶が暴走しただけにしか思えないけどな」
「名作への敬意じゃ」
「巨大化して傘差してたぞ」
「夢には演出というものが必要じゃ」
「お前が演出してるのか?」
「意図してはおらぬ」
「そこが一番怖い」
こびゃっこは尻尾を一度振った。
「ヒカル。ここ最近、びゃっこら三人が同じ夢を見ることが増えたであろう」
「ああ」
昭和の原宿。巨大化したこびゃっこにミミバス。ユキも起きた後に内容を覚えていた。
「何でなんだ?」
「縁じゃ」
「また便利な言葉が出たな」
「便利ではあるが、適当に申しておるわけではないぞ」
こびゃっこが俺を見る。
「おぬしはユキの名付け親じゃ。そして白狐神の加護を受けておる」
「ああ」
「加護とは、単に森で道に迷いにくくなるとか、魔物を感じやすくなるとか、そういう効果だけではない」
白狐の前足が自分の胸元へ触れる。
「神と、その縁を受けた者の間には、細い道ができる」
「道?」
「心と心の間の道、とでも言えば分かりやすいかの」
俺は白い渦を見る。
「それで夢が繋がる?」
「おぬしはユキと精神的にも強く結ばれておる。ユキがおぬしを強く思い、おぬしもユキを強く思う。その状態で眠れば、互いの記憶や感情が夢へ混ざることがある」
「じゃあ、お前は?」
「びゃっこは守護神使じゃ」
「なるほど」
「ユキとの繋がりだけなら、おぬしより古いぞ」
「張り合うところか?」
「事実を述べただけじゃ」
少し得意そうだった。
「だから三人の共通する記憶、あるいは互いに強く残っている記憶が、夢の中で一つの形を取ることがある」
「原宿はお前の記憶だろ」
「ユキが日本を知りたがっておる。ヒカルも日本を思い出す。そこへ、びゃっこの原宿時代の記憶が混じった」
「ミミバスは?」
「……アニメの記憶」
「やっぱりお前じゃないか」
「遊び心が混ざったのじゃ」
「夢に遊び心を持ち込むな」
「びゃっこも制御しておらぬと言うておろう!」
相変わらずだった。俺は少し笑う。
「先代にもあったのか?」
こびゃっこの目が細くなる。
「……あった」
「しらゆきと?」
「宗一郎じゃ」
少しだけ声が柔らかくなった。
「しらゆきと宗一郎も、ときどき同じ夢を見た」
「何の夢?」
「日本の夢が多かったの。宗一郎の故郷。幼い頃の家。雪。祭り。診療所。母親の飯」
「お前も一緒に?」
「時折な」
こびゃっこが遠くを見る。
「朝になって三人で、『あれは誰の記憶じゃったのか』と笑ったこともある」
四百年以上前。まだ湖畔に人が住み、先代白狐神と日本人医師が暮らしていた時代。同じように夢を見ていたらしい。
「じゃあ、今俺たちがやってることも……」
「珍しくはあるが、初めてではない」
「そうか」
少しだけ安心した。いや。神様と夢を共有することに安心するのも、だいぶ感覚が壊れてきている気はする。
俺がそう考えていた時。
白い光の渦が強く輝いた。
「来るぞ」
こびゃっこの声が低くなる。
「何が?」
「ユキじゃ」
◇
白い渦の中心から、小さな人影が現れた。
「……え?」
子供だった。仰向けに眠っている。ゆっくり。本当にゆっくり、光の中からこちらへ押し出されるように姿を現した。
白い髪。白い狐耳。大きな白い尻尾がある五歳くらいの女の子。
「ユキ……」
俺は思わず近づこうとした。
「待つのじゃ」
こびゃっこが止める。
「今のおぬしは見るだけじゃ」
「でも」
「大丈夫じゃ」
白い光が子供を柔らかく地面へ降ろした。そして渦が、少しずつ小さくなる。光が消える。森の静けさが戻る。地面には、一人の幼女が眠っていた。
今のようなトレーナーも、デニムサロペットも着ていない。白い布袋をそのまま服にしたような貫頭衣。腰には麻紐のようなもの。裸足。初めて会った時に見た、あの姿だった。
「……この時から、あの服なのか」
「あれも神力が最低限形にしたものじゃ」
「服まで?」
「裸で生まれるよりよかろう」
「それはそうだけど」
俺はユキを見る。いつも俺の右腕に抱きついて眠っている子供が、今は森の地面に一人で横たわっている。
「どうやって生まれたんだ?」
こびゃっこが白い渦の消えた場所を見る。
「先代のしらゆきと、ほぼ同じじゃ」
声からいつものふざけた調子が消える。
「地球の稲荷神より、この世界へ長く流れ続けた神力」
「宇迦之御魂神の?」
「うむ」
「それと、この森に満ちる魔素粒子」
「さらに、この土地に長く残っていた白狐の霊力」
「白狐?」
「動物として生き、死に、森へ還った白狐たちじゃ。その霊力が長い時間をかけて土地へ溶けておった」
三つ。稲荷神の神力。この世界の魔素。白狐の霊力。
「それが結びついた?」
「うむ」
こびゃっこが小さく頷いた。
「そして、白狐神が生まれる」
俺は眠るユキを見る。
「……誰かの子供じゃないんだな」
「人のような生まれ方ではない」
「最初から五歳くらい?」
「肉体年齢としてはの」
「じゃあ、目を覚ました時が本当の意味で――」
「ユキの最初の日じゃ」
俺は言葉が出なかった。その時、地面に寝ていたユキの耳が動いた。
「……」
指が少し動く。目が開く。黒い瞳。その奥に、ほんのわずかな金色。ユキはゆっくり上体を起こし、辺りを見る。
「……?」
俺とこびゃっこのすぐそばまで視線が来る。だが止まらない。
「見えてない?」
「まだの」
こびゃっこが答えると、ユキが自分の手を見る。そして尻尾を見て、耳を触る。
「……びゃっこ?」
俺は息を呑んだ。
「最初から、その言葉を?」
「教えた」
「いつ?」
こびゃっこは少し黙った。
「生まれる前からじゃ」
◇
「どういうことだ?」
「この子が形を持つ前、まだ神力と魔素の塊に近かった頃から、びゃっこの思念は触れておった」
「お前、実体なかったんだろ?」
「だからこそじゃ」
こびゃっこは自分の身体を見る。
「びゃっこは四百年以上前に、ほぼ全ての神力を使い果たした。肉体は消えた。それでも完全には消滅せず、この森に思念だけが残った」
「残留思念体」
「そうじゃ」
「それがユキに?」
「白狐神の器が生まれ始めた時、引かれた」
守護神使だから、次の白狐神が生まれようとしていることに、実体を失っていたこびゃっこの残留思念が反応した。
「最初は声も届かなかった」
こびゃっこの声が静かになる。
「じゃが、夢に近い場所なら触れられた」
「それで、ユキの夢に出た?」
「うむ」
俺は以前聞いた話を思い出した。ユキが一人だった頃から、夢の中には「びゃっこ」がいた。
「言葉も?」
「教えた」
「魚の捕り方も?」
「教えた」
「水鳥も」
「教えた」
「火を起こす方法」
「それもじゃ」
「食べられる木の実」
「季節ごとにな」
「鳥居は?」
こびゃっこが少し胸を張った。
「当然じゃ」
そして、すぐに少し寂しそうな顔になる。
「ただし、夢から覚めれば細かな言葉は残らぬことが多かった」
「だから鳥居の形は知っていても、名前を知らなかった?」
「そうじゃ」
「塩や料理は?」
「わしが夢で食わせることはできん。言葉を教えても、実物と結びつかねば残りにくい」
「なるほど……」
「それに」
こびゃっこがユキを見る。
「びゃっこ自身も、長い眠りの中で記憶が欠けておった」
「全部を教えられたわけじゃないんだな」
「うむ。じゃが、鳥居結界の様に、身を守る必要最低限の事は教えた。とにかく自分の身を守れと、しつこいくらい語りかけたのじゃ」
ユキは立ち上がり裸足で歩き、小川へ向かう。俺たちはその後をついていった。
◇
場面が、少し飛んだ。夢だからなのだろう。いつの間にかユキは小川の浅瀬にしゃがんでいる。
ユキは水面をじっと見つめていた。
「……」
彼女は動かない。待っていると、魚が近づく。ユキの指先に青白い光が……
「ぱち」
水面が小さく弾け、魚がひっくり返った。
「前に言ってたやつだ」
「夢で教えた方法じゃ」
「電気漁法を五歳児に教えたのか」
「神力漁法じゃ!」
「名前変えてもやってることは似てるが……」
ユキは魚を拾う。次は川岸で、枯れ枝を集める。また小さな放電。
「ぱち」
枯れ枝に火がついた。
「大きい火を怖がってたよな」
「それも教えた。火は便利じゃが、森では恐ろしい」
ユキは魚を焼いた。味付けはない。
ただ火を通しただけ。
ユキは一口食べる。
「……うんみゃあ」
小さな声だった。誰へ言うでもなく、誰も返事をしない。俺の胸が少し痛んだ。
場面が変わる。木の実を探すユキ。赤い実へ手を伸ばしかけ、途中で止まる。
「それは食うな」
こびゃっこが呟く。当然、現在のユキには聞こえない。だがユキは鼻をひくひくさせて、その実から手を離した。
「聞こえたのか?」
「夢の記憶じゃ」
こびゃっこが答える。
「言葉としてではなく、『これは駄目』という感覚だけが残ることもある」
次は水鳥。湖岸でじっと伏せる。近づくまで待ち、神力を小さく放つ。
羽をむしりもう一度、青白い光。
「ぬるぬる、きえた」
ユキが独り言を言う。
「浄化まで無意識に使ってたのか」
「白狐神として生まれつき持っておった力じゃ、血抜きもされ、除菌もされる」
「だから、食中毒にならずに済んだ?」
「おそらくの」
また場面が変わる。今度は森の中。
棘の生えた狼型魔物が現れた。ユキは逃げる。
「しゃー!」
振り返って威嚇する。
「びゃっこ、つよいぞ!」
「……この頃から言ってるのか」
「強がりじゃ」
「知ってる」
木の根元へ駆け戻り、地面へ指で形を描く。二本の柱。横木。その上にも横木。
「まもの、くるな」
ぱち。鳥居紋が光る。魔物が境界の外で唸る。ユキは木の根元へ座り込み、尻尾を抱いた。
「こわくない」
小さく呟く。
「びゃっこ、つよい」
誰も答えない。俺は拳を握った。
「……これを一人でずっと?」
「……そうじゃ」
◇
また景色が流れた。今度は人間の声がした。
「いたぞ!」
ユキが木の陰から覗く。森の中を三人の男が歩いていた。粗末な武装で縄と首輪を持っている。
「奴隷狩り……」
「おそらくそうじゃろ」
その後ろ。首に金属の首輪をつけた亜人が二人歩かされていた。一人が転ぶ。
「立て!」
男が怒鳴ると、ユキの耳が伏せた。
「……いや」
初めて聞く声だった。怒鳴られた本人ではない。ユキがそう呟いた。
「いやな、におい」
鼻を押さえる。
「こころ、すっぱい」
俺はユキの言葉を思い出した。
『うそつきも、くさい』
『こころが、すっぱい』
この頃から感じていた。奴隷の一人が泣いていた。ユキも少しだけ眉を下げる。
「くび、いたい?」
もちろん届かない。
「かなしい?」
ユキは自分の胸へ手を当てた。
「……びゃっこも、いや」
寂しいという言葉は知らなかった。だが、人の悲しさは感じていた。
場面が変わる。別の日の様だ。三人の人間がユキを見つけた。
「白い獣人のガキだ!」
「捕まえろ!」
ユキは逃げ、木の根元へ戻ると鳥居を描く。
「くるな!」
ぱちっ。結界が張られるが、一人が強引に踏み込む。ユキは両手を前へ出す。
「くるな!」
青白い放電。
「うわっ!」
男たちが怯み、逃げていく。ユキはしばらく震えていた。
「……こわかった」
その夜。木の根元で、ユキは大きな白い尻尾を両腕で抱き、丸くなっていた。
「びゃっこ」
小さく呼ぶ。
「いる?」
返事はない。だが――森に淡い光が流れた。風もないのに葉が揺れる。ユキの周囲へ、小さな白い粒が集まる。
「これ……」
俺が言う。
「魔素粒子じゃ」
こびゃっこが答えた。
「ユキが生まれたことで、わしの残留思念にも、ほんのわずかじゃが神力が戻った」
「実体化できるほどじゃない?」
「到底無理じゃった」
「でも、何かはできた」
「うむ」
白い粒がユキを包む。毛布ではない。暖房でもない。それでも、どこか温かそうだった。ユキの耳が少し戻る。
「もり」
小さな声。
「びゃっこ、すき?」
木々がざわめき、光が揺れるとユキが微笑む。
「びゃっこも、もり、すき」
俺は息を吐いた。
「前に言ってたな」
「何をじゃ?」
「『森がびゃっこを好き』って」
こびゃっこは頷いた。
「半分は本当じゃ」
「半分?」
「森そのものの魔素が、白狐神であるユキへ集まった。それに、びゃっこの思念も混ざっておった」
「じゃあユキは……」
「一人ではあった」
こびゃっこが静かに言う。
「じゃが、完全な孤独にはさせぬよう、びゃっこはずっとそばにおった」
「夢の中でか?」
「そう、夢の中で」
「そして森の光で?」
「そうじゃ」
俺はユキを見る。尻尾を抱いたまま眠っている。
「この時、本人は知らなかったと思う」
「知らなくてよいと思っておった」
「何で?」
「守護神使とは、そのようなものじゃ」
こびゃっこが少しだけ胸を張る。
「主が『自分は守られている』と毎日意識せずともよい。普通に生きて、普通に笑えば、それでよい」
俺は何も言えなかった。
「……お前、たまに格好いいこと言うよな」
「たまにとは何じゃ!」
「今の姿だと余計に」
「普段のびゃっこも高貴じゃ!」
「直管コールする高貴な神使は知らない」
「今その話をするでない!」
◇
夢の時間が、早く流れ始めた。雨の日。晴れの日。冷たい朝。暑い昼。ユキが木の実を拾い、魚を捕る。そして水鳥を狩り、それを焼く。
小川から大きな葉へ水を汲み、火を消す。靴のない足には、小さな傷が増えていく。
そして、夜になると尻尾を抱いて眠る。夢の中で、大きな白狐に会う、その姿だけが一瞬見えた。今、隣にいるこびゃっこよりずっと大きい。ユキはその白狐へ抱きついている。
「びゃっこ」
『うむ』
「きょう、おさかな」
『よう捕れたの』
「ユキ、えらい?」
『えらいぞ』
「にくも?」
『明日は鳥を狙うかの』
「にく!」
夢の中では会話できる。
朝になると、ほとんど忘れる。
でも――。
魚の捕り方は残る。
鳥居の形は残る。
火の扱い方は残る。
食べていい木の実の感覚は残る。
そして、
「びゃっこ」
という言葉だけは残った。
「だから自分のことまで、びゃっこって言ってたのか?」
「そうかもしれぬ」
こびゃっこが少し苦笑した。
「夢の中で一番よく聞いた言葉が、それだったからの」
「お前の一人称だからな」
俺は少しだけ笑った。そして――その日が来た。
◇
棘狼――スパイキーウルフ。ユキと初めて出会った時と同じだ。ユキが木の実を抱えている結界の外を、その魔物が回る。
「しゃー!」
足は震えている。
「くるな! びゃっこ、つよいぞ!」
俺は今の自分を見ることになるのかと思った。だが、少し違った。森の向こうから足音がする。茶色いハーフコートに黒いニット。黒いデニムに茶色いワークブーツ。
「……俺だ」
久しぶりに見る四十歳の俺だ。まだ若返る前で顔にも疲れが残っている。見たことのない森で状況も分からず、それでも子供の声を聞いて走ってきた俺。
「おい、そこの狼もどき!」
棘狼が振り返る。俺はライフルを構える。深く呼吸し、発砲する。ドン!俺は思わず肩を竦めた。
「夢でも音でかいな!」
「当時のびゃっこも驚いたぞ」
「お前も見てたのか?」
「ユキの意識を通じて、ずっとな」
二発目。魔物が倒れる。昔の俺が、まだ震える手で銃を下げる。
「……生きてるか?」
ユキが木の実を抱えたまま答える。
「びゃっこ、いきてる」
俺の胸が詰まった。あの時はただ、変なことを言う狐耳幼女だと思っていた。でも、この言葉の裏には何日、何十日、あるいはどれだけの孤独があったのか。
記憶の中の俺が聞く。
「名前は?」
「びゃっこ」
「びゃっこ? それが名前か?」
ユキが首を振る。
「びゃっこは、びゃっこ。なまえは、ない」
横のこびゃっこが小さく息を吐いた。
「ここから先は、ヒカルも知っておる」
「ああ」
水。温かいコンソメスープ。ロールパン。タレ味の焼き鳥。
「にくが、すごい!」
白い尻尾が膨らむ。
「びゃっこも、にくやいた。でも、これ、ちがう。にくが、えらくなってる!」
「……この時と変わってないな、ユキは」
「そうじゃの」
タオル。消毒。絆創膏。靴下。小さなブーツ。白いワンピース。そして、地面の鳥居。
「これ、とりい?」
「ああ。鳥居」
ユキの耳が立つ。
「とりい! これ、とりい!」
俺は隣のこびゃっこを見る。
「この時、お前どう思った?」
こびゃっこは少し黙った。
「やっと、守護者が現れたと言うよりも、本当の言葉を渡してくれる者が来たと思った」
「俺が?」
「うむ」
「大したことしてないぞ」
「お主にとっては、そうかも知れんがの」
記憶の中の俺がユキを見る。
『雪みたいだな』
『ゆき?』
『名前がないなら、ユキってどうだ』
その瞬間、森が揺れた。地面の鳥居紋が光り小川が輝く。俺はあの日、自分の視界へ出た鑑定表示しか見ていなかった。
だが今は違う。森全体から白い光が集まっている。木々。土。小川。空気。そして、俺のすぐ隣にいる白狐。
「こびゃっこ……」
「ああ」
こびゃっこの身体からも光が流れていた。
「名付けの縁が、びゃっこの思念まで強くしたのじゃ」
記憶の中のユキが胸に手を当てる。
「ユキは、ユキ」
その言葉と同時に、景色が白く染まった。
◇
光が収まった時。
「おっちゃん」
「……え?」
目の前にユキが立っていた。白いワンピース姿に小さなブーツを履いている。そして今度は、俺を見ている。
「見えるのか?」
「おっちゃん」
駆けてくるユキ。俺は反射的にしゃがみ、そのまま抱きしめた。
「ユキ」
小さな身体。夢なのに温かい。ユキも俺の首へ腕を回す。
「おっちゃん、いた」
「ああ」
「ずっと、みてた?」
「……見てた」
「ユキ、ひとりだった」
「ああ」
「でも」
俺の肩越しに白狐を見る。
「こびゃっこも、いた」
「うむ」
「このとき、ユキしらなかった」
「知らなくてよいのじゃ」
こびゃっこが言う。
「びゃっこは守護神使じゃからな」
ユキは少し考える。
「でも、ありがとう」
「……うむ」
こびゃっこが顔を横へ向ける。
「夢の中で礼を言われても、困るのう」
「こびゃっこ、ないてる?」
「泣いておらぬ!」
「め、ひかってる」
「夢の演出じゃ!」
「便利だな、その言い訳」
俺が笑うと、こびゃっこが睨んだ。ユキは俺へ顔を戻す。
「おっちゃん」
「ん?」
「ユキ、うまれた?」
「ああ」
「ここで?」
「そうらしい」
「ユキ、おかあさん、いない?」
一瞬だけ迷う。でも嘘をつく必要はない。
「人間みたいなお母さんから生まれたわけじゃないらしい」
「じゃあ、もり?」
「森と、白狐と、稲荷神様の力が合わさって生まれたんだってさ」
ユキは少し考える。
「いっぱい?」
「いっぱいだな」
「むれみたい」
「……そう考えるのか」
「ひとつじゃない」
「ああ」
「じゃあ、ユキ、ひとりから、うまれてない」
また、妙なところで核心を突く。
「そうだな」
「なら、よし」
納得が早い。そして俺を見上げる。
「おっちゃん、あとからなまえ、くれた」
「ああ」
「ユキが、ユキになったとき、おっちゃん、いた」
俺は少しだけ言葉に詰まった。
「……そうだな」
ユキは笑った。
◇
その瞬間。地面が淡く光った。
「何だ?」
木の根元。ユキが昔、枯れ葉を集めて寝ていた場所。その周囲から白い光がゆっくり広がっていく。
さっきまであった木々の輪郭が揺らぐ。風景が、変わる。
「……え?」
俺は思わず立ち尽くした。そこに現れたのは、古く、ひと目で分かるほど、長い年月を経た祠だった。
小さな木造の祠。屋根は黒ずみ、軒先には苔が付いている。柱も雨風に晒されて灰色がかり、ところどころ補修された跡があった。
崩れてはいない。むしろ、何度も誰かが手を入れ、大切に守ってきたように見える。
「これ……湖畔にある俺たちの祠じゃない」
「当たり前じゃ」
こびゃっこが答えた。だが、その声がおかしい。いつもの調子ではない。
「……こびゃっこ?」
俺が横を見る。白狐姿のこびゃっこが、目を見開いていた。
「そんな……」
「知ってるのか?」
返事がない。こびゃっこは祠を凝視している。その隣には、古びた鳥居が立っていた。
朱色だったらしい塗装はほとんど落ち、木肌がところどころ見えている。笠木も黒ずみ、根元には苔が生えていた。それでも、形ははっきり残っている。そして、その脇。
「おっちゃん」
ユキが俺の手を引いた。
「あれ」
「ああ」
低い石碑が立っている。これも相当古い。表面には苔と細かなひび。だが、文字だけは読めた。俺は近づいて見る。
「……漢字?」
この世界では古代文字扱いされることの多い漢字。その下にはカタカナ。石碑には、こう刻まれていた。
【始マリノ祠】
「はじまり……の、ほこら」
俺が呟いた瞬間。
「なぜじゃ」
こびゃっこの声が震えた。振り返る。こびゃっこは、祠の前から動けなくなっていた。
「こびゃっこ?」
「なぜ、これが……ここに……」
「知ってるんだな?」
「知っておる」
返事が早かった。だが、いつものこびゃっこではない。千年以上を生き、四百年以上前の湖畔を知る守護神使の顔だった。
「これは……」
こびゃっこが一歩、祠へ近づく。
「先代しらゆきと、宗一郎が建てた祠じゃ」
「……え?」
俺は石碑を見る。
「でも」
俺は周囲を見た。間違いない、ここはユキが生まれた場所だ。あの大木。小川。地形まで同じ。
「何で、ここに?」
こびゃっこは答えない。祠を見ている。
「びゃっこは……覚えておる」
ようやく、小さく言った。
「宗一郎が石碑の文字を決めた」
「この『始マリノ祠』って?」
「うむ」
「カタカナ混じりなのも?」
「宗一郎らしい書き方じゃ。当時、この世界の者にも読めるよう、漢字だけにせぬと言うておった」
俺はもう一度、石碑を見る。
【始マリノ祠】
宗一郎が書いた。先代白狐神しらゆきと宗一郎が建てた。
「じゃあ、何の始まりなんだ?」
こびゃっこが俺を見る。細い目の奥に、今まで見たことのない色があった。
「……白狐神じゃ」
「え?」
ユキも顔を上げる。
「こびゃっこ?」
こびゃっこは、ゆっくり大木を見る。
「しらゆきも――」
一度、言葉を止めた。
「先代白狐神しらゆきも、この場所で生まれたのじゃ」
森が、ざわめいた。俺は動けなかった。
「同じ場所?」
「うむ。……すまぬの。いずれ話すつもりではおったのじゃが」
「いや、仕方ない。最初にユキが生まれてくる場面の時点で、情報量が多すぎた」
「びゃっこも、この夢は突然で思いがけなかったものでの」
俺はユキを見る。ユキも、大きな黒い瞳でこびゃっこを見ていた。
「しらゆきも、ここ?」
「……そうじゃよ」
こびゃっこの声が、今度は優しくなる。
「ユキと同じじゃ」
ユキは大木を見る。古びた祠を見る。石碑を見る。
「ユキの、まえ?」
「ずっと前じゃ」
「ここで、うまれた?」
「うむ」
俺の背筋に、ゆっくり寒気が走った。偶然じゃない。ユキがここで生まれたことも。先代しらゆきがここで生まれたことも。そして宗一郎たちが、
【始マリノ祠】
という名前を残したことも。全部、何かに繋がっている。
「こびゃっこ」
「……何じゃ」
「俺もユキも、ここに祠を建てようと考えていた。ユキが寝床にしていた、最初の森の拠点として、形に残そうと……」
「うむ。ユキの意識を通じて知っておる。びゃっこがその事を知った時、ここに祠を建てるということは、白狐神の守護者にとって、必然な事なのだとあらためて確信したものじゃ」
「そうだったのか」
「いずれヒカルがここに祠を建立した時に、今の話を含めた先代しらゆきの事も話すつもりでおった」
こびゃっこは祠を見つめたまま答える。
「420年前の襲撃の日、湖畔の里ごと別次元へ送った。住居も畑も設備も、そしてこの祠もじゃ」
「じゃあ、本来ここには残ってない?」
「そのはずじゃ」
俺は目の前の古びた祠を見る。
「じゃあこれは……」
「これは確かに、びゃっこの記憶にある祠じゃ。じゃが……」
こびゃっこがそう言って、石碑に近づく。
「何故?」
一歩近づく。
「今この記憶を」
さらに一歩。
「見せるのか――」
こびゃっこの前足が、石碑へ触れようとした。
その瞬間。カラン。祠の奥から、鈴の音がした。誰も鳴らしていない。
ユキが俺の手を強く握る。
「おっちゃん」
「ああ」
「だれか、いる?」
俺には答えられなかった。こびゃっこも、動かなかった。古びた鳥居。長い年月を経た祠。そして石碑に刻まれた、
【始マリノ祠】
の文字。その前で、こびゃっこが静かに呟いた。
「……しらゆき」
すると白い光が、再び森を包み始めた。
続く




