狩り色の日々
弟の初狩りから数日。村の日常は変わらず続いている――。
朝は、いつも母の背から始まった。
まだ陽の差さぬ寝屋で、火床の灰を掻く音が響く。
くすぶっていた炭がぱち、ぱちと再び灯り、家の中に乾いた獣脂と焚き木の香りが立ちのぼる。
母は寝巻のまま戸を引き、森の湿りを孕んだ冷気を流し込んだ。
「……起きぃ」
くぐもった声に、弟はまどろみの中で鼻をひくつかせたが、次の呼びかけを待つことなく、毛布を払って起き上がった。
獣人の子らは眠りが浅い。
けれど、その反応は決して怠惰ではなく、日々に組み込まれた“流れ”そのものだった。
村の朝は、静かでせわしない。
年寄りも子どもも、陽が顔を覗かせる前から動き出す。
身体の熱を保つために、皆がよく食い、よく動いた。長屋のひとつひとつで火が起こされ、煙が天へと溶けていく。
弟の家でも同じだった。
妹たちがふらふらと眠そうな足取りで器を並べ、母が煮物の味を見ているその傍らで、兄は家の裏に目をやっていた。
そこには、彼が半ば執念で育てている葉の畝がある。
「……まだやな。葉の色が足らん。ほんま、日差し弱すぎやろここ」
そうぼやきながら、兄は煙草にもならぬ葉の成長を眺めていた。
土も乾きが悪く、葉も薄い。吸えば吸えるが、味は土と灰の混合物。
弟が一度試しに口にしたときは、咳き込みながら「カエル踏んだ時の匂いや」と言ったほどだ。
それでも兄は、朝のたびに畑に立った。あれが彼にとっての「祈り」なのだと、弟はなんとなく思っていた。
外では、まだ成人していない子どもらが木剣を振るいながら騒いでいる。
弟も、ほんの数日前まではあの輪の中にいた。けれど今は違う。
初めて獲物を仕留めたあの夜から、彼の指には血の匂いが染みついていた。
もう、戻ることはできない。
斧を背負い、戸口を出る弟の背に、母は振り返らずに耳だけを動かした。
それが、彼女なりの“行ってらっしゃい”だった。
「ちい兄ちゃん、気ぃつけてな〜!」
「また肉とってきて〜!」
妹たちの声が響く中、兄は振り返ることなく、ただ言った。
「まだ腹ん中ぐるぐるしとるんちゃうんか? 今日は“出すほう”頑張らんようにな」
――弟は笑った。
兄が言いそうなことや、そういう言い方も、すべてが馴染んでいた。
村は、生きていた。
森は、朝のうちはまだ静かやった。
弟は村の南側、乾いた尾根に向かって歩を進めていた。
初狩りの時に比べると、足取りは軽い。けれど軽率ではなかった。
空気の温度、土の感触、鳥の声の間――そういった微細な“ちがい”に、今は敏感だった。
斧は背中で揺れていた。重さに慣れてきたとはいえ、腰の筋肉にはまだ馴染みきっていない。
長兄が言っていた「肩から抜ける感覚で振れ」という言葉を思い出しながら、彼は何度も姿勢を直した。
今日は見習いの狩人ではなく、たったひとり。
後ろに兄はいない。長兄も、あの片目の古参もいない。
風がひとつ抜けた。葉が揺れ、小枝がきしむ。
弟はすっと身を伏せ、息を潜める。
しばしの沈黙ののち、茂みの奥から現れたのは、背丈ほどの草食獣――“バロット”だった。
気性は荒くないが、跳躍力と突進は侮れない。
距離を計る。呼吸を殺す。
斧をゆっくり抜き、体を斜めに構えた。
一歩。もう一歩。
獣が頭を下げ、地面の草を食んだ瞬間――弟は地を蹴った。
斧が風を裂く音がした。
狙いは肩口。殺しきらず、逃げ道を断つ。
バロットが呻き声をあげてのけぞる。
その体勢を崩した瞬間、弟は側面に回り込み、もう一撃を叩き込んだ。獣が倒れる。心臓は外した。
まだ生きている。
弟は、息を吐いた。殺しきらずに済んだことに、少しだけ安堵した。
けれど、手は迷わなかった。斧を逆手に持ち替え、喉元へ一閃。
温かい血が跳ねる。指先に、その熱が染みこんだ。
数息ののち、森は再び静かになった。
鳥がさえずりを再開するまで、弟はその場に立ち尽くしていた。
自分の耳の奥で、心臓の音だけが響いていた。
それが、“狩り”というものだった。
今回は“日常”の中に刻まれた、小さな変化を描きました。
村はまだ生きています。けれど、この静けさがいつまで続くのか――それは、もう少し先で。