密談
ソフィアは薔薇園の子供たちと、軽く立ち話をし、それからそこを出た。後のことは、氷晶の薔薇の部下が常駐しているので、彼らに任せることにする。
鉄製の門扉を開け、大通りへ繋がる一本道から何気なく上を見上げてみると、茜色の空がゆっくりと暗い闇に呑まれていくところだった。そんな悠長に過ごしている暇はなかったのにと、焦燥が足を速める。急いで本部に戻らなくては。しかし、そんな矢先、彼女は金縛りにでもあったかのように足をピタリと止める。
建物の壁に一人の男が寄りかかっていた。いや、黒いフードを被っているので、一目だけでは性別はわからぬのだが、その異様な雰囲気は他に思い当たる節もない。彼はソフィアの存在に気づくと、顔だけこちらに向ける。
「こんばんは。二、三週間振りくらいですか?」
「薔薇園には近づかないと約束したはずだけど」
ソフィアは冷たく言い放つ。
「ひどいですね。これでも、色々と尽くしてきたつもりなんですが」
男は恐縮したように頭をかくが、口元から漏れる笑い声は、むしろこちらを手玉に取ろうとする者が出すものだった。
「また何の取り柄もない子どもたちのために苦心惨憺されてるのでしょう? さっさと見切りをつければいいのに。協約なんて、もし表沙汰になったら一巻の終わりですよ?」
ソフィアは眉をひそめた。
「あなた、どこまで知っているの…… ?」
「それはもう、ほとんど全てと言っても過言ではない。あなたが相対しているのが誰なのか、わかっているでしょう? あ、でも安心してください。これは他の誰も知らないし、今後も内緒にしておきますから」
「ただし」と男はすかさず右腕を伸ばして、一本指を立てた。ローブの影から覗く、不吉な赤い三日月を見て、ソフィアは周りに暗雲が立ち込めたかのように不安に胸がざわつく。
「しっかりと仕事をこなしてくれたらの話ですけどね」
「狙いは…… 前と同じなの?」
「もちろん。それ以外の要件で、わざわざ内々に頼み事なんてしませんよ」
「今更だけど、何があなたをそこまで駆り立てるの? あなたが動くほどの、価値があることなの? 前は仕方なく了承したけど、でもーー」
ソフィアが言い切らない内に、男はわざとらしく息をつき、これまた芝居がかった感じで肩をすくめ首を振った。
「あなたは何もわかっちゃいない。自分がどれだけ強大な力を保有しているか。あなたは今、歴史が大きく変わるかもしれない、まさに分水嶺を目撃しているというのに!」
男は一人興奮し、演説でもするように大きな身振り手振りを伴って、声高に説明した。その恍惚とした声や息遣いには、誇張や演技はなく、ただ剥き出しの欲望が溢れているようだ。その後も、しばらく彼は何かに取り憑かれたように、ぶつぶつと何かつぶやいていた。
その狂態に、ソフィアはただただ呆れ返る他なかった。
「よくわからないけど…… もう、あなたの頼みを聞きたくない。みんな家族なの。これ以上弄ぶような事なんてしたくない」
「まったく、まだ依頼内容すら教えてないというのに。というか、自分に拒否権なんてないことくらい、わかっているでしょ?」
「……」
ソフィアは反論できず、どうしようもなかったので、ただ憎しみのこもった目を向けるしかない。
「ああ、なんて悲しい目。でも、ご安心を。ずっと鞭打っているだけというのは、少し退屈ですから。今回の報酬には、あなたが今一番欲しているであろうものを用意しておきました」
「私が一番欲しているもの…… ?」
「わかりませんか? 察しが悪いですね。あなたのギルドが優位に立てるよう、お膳立てしてあげると言っているんです」
「そんなことが…… いえ、そうね。あなたならそんなこと造作もない」
ソフィアがその一点においては、強い確信を持っていた。そして、それは彼女が喉から手が出るほど求めているものと言って間違いない。
「その通り。それで、引き受けてくれますね? 聡明なあなたなら、損得の計算くらいわけもないと思いますが」
「わかったわ……」
選択肢などない。これは歯向かうことのできない命令だ。ソフィアは風に流され、川にたゆたう木の葉も同然だった。先が見えない。さりとて、流れに抗う手段など何一つ持ち合わせていない、全くの無力。
男は左半身をもぞりと動かし、そして、一枚の紙を挟んだ手をこちらに差し出してきた。ソフィアはそれを受け取ろうとするが、妙な違和感を感じて、その手を止める。そのモヤモヤと霧がかったものは、すぐに驚愕へと姿を変え、身体中を駆け巡った。
「待って…… それ、どうして。だって、前に会った時は…… !」
「そんなに驚くじゃないですよ。これが"天使"というものの力ですから」
「天使? それって一体……」
呆けているソフィアの手を、男は丁寧にすくい上げ、その掌に先ほどの紙を被せた。
「さあ、商談成立です。それでは、良い結果が出ることを、心からお待ちしていますよ」
訳もわからず、ソフィアが目をパチパチさせていると、次の瞬きの後には男の姿は消えていた。前と同じ。まるで、鮮明な悪夢でも見させられていたような気分だ。いや、これが夢ならどれだけ幸せか。目覚めれば、朝日がどんよりとした思いをすすぎ、新たな一日の始まりに、夢は遥か過去のものとして消え去るのだ。
しかし、自分の手に乗る一枚の紙は、それが夢ではないことの証明である。彼は天使がどうとか言っていた。別にそれが何を意味しているかはどうでもいい。ただ、彼が残していったのは、天使の羽のように清くふわりとしたものではなく、いかめしく重々とした自分へ当てられた罪状のようだ。
「これが私の花……」
彼女は紙を自分の胸の前で抱え、コソコソと本部へ急いだ。




