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2:学習



 ――つぅ。

首筋に粘度のある液が流れ落ち、ヤナは思わず肩をすくめた。


「おや。動いてはいけないよ、じっとして」


 二の腕を押さえてたしなめたのは、女性にしては少し低めの声の主であるレイアだ。

 ヤナがルルドラ宮殿の5月の塔の一室を自室としてあてがわれた翌日、彼女が突然やってきて「髪を染めよう」と言い出したのだ。


「これは隊長の意向なんだ。今のままの銀髪だとひどく目立つからね。

 大丈夫、ヘナという植物の葉を粉にして練ったものだから傷まずに綺麗な赤毛になる筈だよ。ほら、じっとして……」


 ぺたぺたと刷毛で冷たいヘナを塗られていく間、ヤナは気になっていたことを尋ねてみた。


「あ、の。目、見えなくても、その仕事、できるんですか?」



『ヤーン隊は人が足りない。短期間で仕上がってくれる事を期待している』


 そうジェライムに言われはしたものの、どう考えても盲目の自分が秘密隊員のような仕事をこなせるとは思えない。こうして言葉一つ取ってみても、今まで喋る機会がなかったぶん、ようやっと掠れ声が出せている程度なのに。


「大丈夫だよ。隊長自ら望まれたのだから」


 レイアは垂れこぼした液に気付いたらしく、柔らかな布で首を拭ってくれた。


「あの方に選んでもらえたということは、つまり君はヤーンの直隊で働くことになるだろうよ。

 私とアスク、それから療養中の男がもう一人いるんだが、皆それぞれ隊長に声をかけてもらって今に至るんだ。出自も、教養も、性格だってバラバラで癖がある。

 それでもこうしてちゃんと働けているのだから、君にもきっとその資質があるんだよ」


 最後のひと塗りを終えて待ち時間の間、レイアはヤナにちょっとした心得と情報を教えてくれた。

 城の敷地内には大勢の人がいる。入場が厳しいため怪しまれることはないだろうが、万が一誰かに探りを入れられたら『5番塔にいるミィ・ニニアラに託宣を願いにきたオスターの従妹です』と答えること。

 オスターとニニアラがいない時は城付きの侍女がヤナに就き、専属の講師となってくれ、4時には学舎を終えたベネとゴルゾがここに遊びに来てくれること、など。


「さあ、そうこうしているうちに時間だね。洗ってみようか」


 初めての髪染めはなかなかうまくいったらしい。

 綺麗な赤毛だと褒められながら、赤とはどんなものなのだろうかとヤナは思った。





「よーっし! あんたの教育係は俺とニニアラの二人だ! っつーわけで、今日から張り切って授業を開始するぞっ!」


 5番塔の主、サー・オスターが快活な声をあげた。

 学習初日の今日は、みっちりとオスターとニニアラの二人で半日かけて授業をしてくれることになった。高官ならば仕事量もそれなりに多いのでは……と思ったものの、ヤナにそれを尋ねる勇気はない。

 授業が開催されたのは11番塔だ。金錆のような匂いのする武器庫や飾りの多い5番塔と違い、爽やかで甘い香りがする。

 塔と一言で表してはいるものの、実際の内部は大きな縦長屋敷のようにとても立派なつくりをしている。高官である故に内装が立派で使用人が住んでいるのはどの塔も同じらしいが、雰囲気は全て異なるらしい。

 11塔は全体的にひっそりと静まりかえっていた。使用人は皆女性ばかりでゆっくりと歩き、ニニアラが呼び鐘を使っても落ち着いたたたずまいで後方に控えている。比べると、5塔は随分ざっくりとして気さくな雰囲気だった。やはり塔の持ち主の気質がそのまま全体へと繋がるのだろう。


「建国史や基礎学は俺が担当するぞ。こんなナリに性格だが、まー、そこそこ教えることはできる。筈だ。うん。たぶん――うん?」


 オスターの言い方はヤナを若干不安にさせたものの、もう一人の講師は口がきけないため必然的に彼に頼るほかない。



「っつーわけで、ニニアラ、お前あっちに座って茶でも飲んでろ」


 サー・オスターは、ついいつものくせでニニアラを抱き抱えようとした。

 シャラララ……。薄い真珠貝でできた虹色の花びらが擦れあって音を立てる。

 彼女を持ち上げていると、たまに風にのってそのまま天まで飛んでいってしまうのでは、という錯覚に囚われることがある。それほど儚い見た目と重さだ。

 陽の光では虹色に、燭台の炎では飴色に輝く貝花シェル・フワラーが彼女の頭頂から足先まで細い糸でつながり音を立てるおかげで、オスターは相方がどこにいるのか見失わずに済む。何もない状態であれば、きっと常時かくれんぼでもしているように探す羽目になっていただろう。


 二ニアラはひどく慌てた様子でぽかぽかとオスターの胸を叩いた。


「あー? んだよ、別にいいじゃねーか、これまで通りで」


 二ニアラはとても疲れやすい。おまけに運動能力も低いため、至る所で貝花を引っかけたり何もないところで躓いて転んだりと、見ていて危なっかしいのだ。そのため、オスターはニニアラといる時はできるだけ彼女を抱いて移動するのが常だった。

 11番塔を訪れる度、菓子や果汁といった疲れを和らげそうなものを差し入れもする。『ふとる!』と毎回ニニアラは顔をしかめるくせ、しっかりと食べているのだから面白いものだ。


 ――もう随分と昔の、初顔合わせの日のこと。

 握手を求めて差し出したオスターの手をニニアラはおずおずと握り返してくれた。直後、「軽いなぁー!」と両手で高く抱き上げてしまったために、それからかなり長い間二二アラはオスターに心を閉ざすこととなった。

 仕事で顔を合わせる度に青白い顔となり、少しでも近付こうものならぶんぶんと首を横に振りながら後ずさる。

 まるで怯える子猫だったなぁと、懐かしくオスターは思い返す。


 サーの任命直後でとにかく張り切っていたのだ。前任者が彼女と仲が悪かったと聞いていたため、オスターはミィ・二二アラの体質について事前に調べ、出来る限り手助けをしようと意気込んでいた。

 空回りしたツケは時間をかけて払うことになった。オスターはニニアラの機嫌を取るため連日花束や菓子を贈り、間に人を置かずとも意志の疎通ができるよう、彼女の貝花言葉を懸命に観察した。

 見た目こそ大柄で粗野な物言いをするオスターだが、根は真面目だ。連日11月の塔に通い続けて1年とひと月。オスターはニニアラの言葉を理解した。

 そうして、その頃になるとようやくニニアラも警戒を解き、心を許すようになっていたのだった。


『や や、 おろして。 あのこ に きづかれる』

「はあ~? しゃーねーだろ、身体弱いんだから。

 ヤナは何も気にしてねーって! なっ、ヤナ」

「あ、はい」

「ほーら!」

『だ、だって わたしも せんせいなのに。 だっこ とか』


 貝花に覆われた長い白金の髪の下、ニニアラは目を伏せ小さな頬を朱に染めた。


 ほんっと、飛んでいきそーだわ。


 口に出さずにそう思いつつ、「いーから、いーから!」とオスターはニニアラを抱き上げた。




 そうして始まったオスターによる最初の授業は、国の成り立ちについての基礎であった。


「――ロウである国王以外に国を動かしている11人の高官には、それぞれ月呼び名にちなんだ官職名がつけられている。

 12を頂点として時計周りに5までがダ・ラで、男性高官。6から11までがメ・アで、女性高官。対極にある月同士を二人一組のペアとして政事に関わり互いを見張る。

 ま、夫婦めおとの形で取り組めっつーのが、国に伝わる決まりなわけだなっ」


 オスターの授業は意外な程分かりやすかった。


「ああ、なるほど」


 ヤナは納得して頷いた。


「お二人、夫婦、なんですね」


 どんがらがっしゃーん! 

 ソファ前のローテーブルが勢いよくひっくり返された。


「やー、違う違う。夫婦っつーのは、例えだ例え。実際に婚姻関係にあるわけじゃねーよ」


 オスターはあっさりと否定した。


「ま、実際にそうなるペアもいるっちゃいる。だがな、5(サー)と11(ミィ)が婚姻関係になることは絶対にねえ。ミィ・ニニアラは聖霊嫁だからな、民との婚姻は無理だ」

「せい れい か?」

「おーっと! ……まあそうだよな、そこも説明だよなー……ぐあー、意外とめんどくせーなー、こりゃ」


 がりがりと頭を掻いた後、オスターによる適当な説明が始まった。


「いいか、この国が他国に比べてでっかい理由の一つにな、『精霊』っつー力の存在がある! 目には見えねーがそういう存在が確かにいて、国に力を与えている! ま、このあたりはそのまま流して聞いてくれ。

 で、だ。ダーナン国最初の王には11人の部下がいて、それぞれ異なる精霊の力を使っていて『聖霊』と呼ばれていた。

『祖は建国の芯に王血を据え十一霊が聖柱となり血を囲む。浸されし身は豊穣を生み永久壌土を誓いて是を成す』

 建国記の序章にある言葉だ」


 オスターはするすると書物のくだりを唱えてみせた。


「で。その『建国の芯』って出てくるヤツが~……、ここだっ!」

「ここ」

「そ、宮殿の敷地なわけー。ロウの塔以外の11全ての塔の下に一体ずつ聖霊の遺体が眠っている。

 俺達が塔に住む最大の理由は聖霊の加護を貰うためにあるんだな! ま、それをどう判断するのは別として、そういう『カタチを守る』っつーことも国には必要なわけだ!

 ミィ・二二アラは11聖霊やら何やらを祀る役目を負っていて、かつ優秀な占者でもある。

 つまりは、神の花嫁! そういうこと!」

「はあ……」


 なんだかニニアラさんはとても凄い人なのだと、そう認識し直すべきなのだろう。

 いや、この国の宮殿を囲む塔の主である以上、彼らがどちらも凄い人だと分かってはいたのだけれど。


「だーから、な? 他はともかく俺達は本物の夫婦になんざ絶対ならねーってわけよ! ま、兄妹みたいなもんだ!

 なっ、二二アラ」


 シャン。

 背筋を伸ばしたような、凛とした響きが答えとなった。


 これまでの自分の生の中で国の成り立ちについてなど一度たりとも考えたこともなかった。考える理由すらなかった。


 学習と言うものはなかなか贅沢で面白いものなのだな、とヤナは発見した。




 そうして、彼らの授業を終えての午後。



 コチコチコチ。柱時計の針の音は否が応でも耳に入る。

 チーン、チーン、チーン、チーン。

 4つ打ちに、そろそろかとヤナは点字の基礎教本から顔を上げ、耳を澄ませた。

 学舎の授業が終わる頃だ……と、そわそわして待っていると、やがて窓の外からかすかに声が近付いてきた。きゃっきゃっというあの笑い声は確かに自分に向かって来ているものなのだろうか。


「――あらあら、手に付かないようですね」


 点字の読みを教えてくれていた侍女が、クスリと笑った。

 自分がこの時間を待ちわびていたのが丸わかりだったのが恥ずかしくて、ヤナの頬が少し熱くなる。

 けれど、ここから自由時間となり、仲良くなった友達が来ると知れば浮き立つ心を止めようがなかった。


「ヤナー、来たぞォー!」

「友達も連れてきたー!」


 微妙に抑揚の違う二つの声が、どたばたと足音と共に元気よく扉を開けた。


「おら達、学舎で友達ができ――」

「キュウ!?」


 ガタタッ。侍女の椅子が大きく音を立て、


「え……チュリカ……!? あの、お城じゃ……」


 初めて聞く少年の声は呆然として聞こえた。


「あたし、5番塔に配属になったばかりなの。ヤナ様の講師になってくれって言われて……でも、こんなことって」

「チュリカぁっ!」


 少年は駆け寄ると侍女の胸に飛び込んだ。

 侍女が一旦息を呑み、ややあって、そろそろと腕を伸ばして背に回したことが、気配に聡いヤナには分かった。


(ええっ、と……)


 こういう場合は、おそらく席を外した方がいいのだろう。

 まるで、生き別れの姉弟が出会ったような雰囲気だ。

 だがチュリカは城付きの侍女であり、キュウと呼ばれた少年はルルドラ学舎の生徒だ。いつでも会える筈なのだが……。


(まあ、なんだか、よくは分からないけれど……)


 そろりと音を立てないようにして、ヤナは立ち上がった。気配を消すことには慣れている。

 扉に移動しようと腕を前に出しかけたところで、ぱしりと手首を掴まれた。思わずびくりと硬直すると、「あ、ごめンな」とゴルゾが小声で謝った。


「手を引っ張った方が早えかなって思ったンだけど……怖かったか?」


 ヤナは首を横に振った後で、「できるだけ発声の練習をするように」と言われたことを思い出した。


「先に、教えてくれたら、大丈夫」


 答えた後で、「ありがとう……ゴルゾ」と付け加える。


「お、おうっ」


 ゴルゾは嬉しげに答えると、「じゃ、にぎるぞ?」と断ってから手を繋いできた。


「あーっ、おらもおらも」

 

 ベネも反対の手を握ってくる。


「バッカだなあ、ベネ。両方握るとかえってジャマになンだぞ?」

「えー、じゃァ、後で交代な?」


 温もりに引かれながらヤナは部屋を出ていく。


 扉を閉じてしまうまで、侍女と少年の声は一度も聞こえてこなかった。

 


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