【第192話】「眠っていた船の知性」
【第192話】「眠っていた船の知性」
場所: ASTRAEON VELORIA — エンジニアリングデッキ → ASTRAEA OF THE SILVER LANTERN 中枢システム
メイン視点: セラフィエル・ヴェロリア → カリスタ・フェロ → セラフィナ・ヴァルクレイン・ヴェルドラコン
### POV:セラフィエル・ヴェロリア
診断画面に、小さな活動パターンが現れた。
セラフィエルはしばらくその反応を観察してから、表示を拡大した。
目の前では、ASTRAEAのコンピューティング・コアを再現した三次元モデルがゆっくりと回転している。そこには、メインハンガーのスキャナーによってマッピングされたモジュールの配置が映し出されていた。
船のシステムの大部分は、依然として隔離状態にある。主エネルギー経路はまだ復旧しておらず、二基の主機は交換用ユニットの完成を待っている。武装ネットワークも非稼働状態のままだ。
コンピューティング・コアに何が残されているのかを調べるためだけに、すべてのシステムを起動する理由はない。
「カリスタ、中枢の一部から応答を検出しました」
部品データを確認していたカリスタが顔を上げた。
「応答? 大半のモジュールはまだ使えないんじゃなかった?」
「その通りです。ただ、主経路が切断されているにもかかわらず、応答を返している処理モジュール群が一つあります」
「見せて」
セラフィエルは画面を室内中央へ移動させた。
カリスタは近づき、表示された反応パターンに目を向ける。
「これは昨日確認した部分?」
「はい。このモジュールは、一般的な艦隊指揮艦の仕様を大きく上回る処理能力を備えています。それに、標準的なネットワーク構成に完全には従っていない接続経路も見つかりました」
カリスタは眉を寄せた。
「つまり、電力経路が切れていても、中枢の一部は内部処理を維持しようとしているってこと?」
「その通りです。ただし、この応答が自動制御システムによるものなのか、それとも船の中枢知性の一部によるものなのかは、まだ判断できません」
「なら、復旧作業に入る前に切り分けないとね。何を目覚めさせようとしているのかも分からないまま、何かを起動するつもりはないわ」
セラフィエルは小さく微笑んだ。
「私も同じ考えです」
カリスタは椅子を引き寄せ、端末の前に腰を下ろした。
「それで、今までに何をしたの?」
「読み取り可能な診断データを複製し、検査経路をASTRAEONのネットワークから切り離しました。そのうえで、隔離された処理環境を用意しています。ASTRAEONの主システムには、一切アクセスできない構成です」
「いいわ。二隻の接続が混ざるようなことは避けて。私たちが修復しているのはASTRAEAよ。この船のシステム全体と接続するためじゃない」
「そのような意図はありません」
セラフィエルは設定画面を開いた。
「復旧を開始するにあたり、メインハンガーに設置されている診断用通信経路を使用します。この経路で接続されるのは、検査コンソールと承認済みの中枢モジュールだけです。航行システム、武装システム、主制御系統は引き続きロックされた状態を維持します」
カリスタは画面に表示されたデータを数行読み進めた。
「中枢との通信を復旧できたら、AIもすぐに起動するの?」
「必ずしもそうとは限りません。中枢の状態は依然として不安定です。得られるのは、システム識別情報や状態記録、基本的な通信など、限定的な応答だけかもしれません」
「第一段階としては、それで十分よ。この船のAIが、自分自身の損傷をどう認識しているのか知りたいの」
「では、その範囲内で復旧処理を開始します」
カリスタは頷いた。
「やって。ただし、予測と異なる変化があれば中断して。ここまで進んだからって、無理に続ける必要はないわ」
「承知しました」
セラフィエルはパネルに手を置いた。
数秒後、ASTRAEAの診断システムの一部が動き始めた。
メインハンガーに収容されている船体には、大きな変化は見られない。内部照明は消えたままで、機関が回転することもなかった。
しかし、コンピューティング・コアの内部では、一つの処理経路に限定的な電力供給が始まっていた。
「初期接続検査、完了しました」
セラフィエルは画面を注視する。
「内部通信モジュールから応答があります。識別要求を送信します」
カリスタが少し身を乗り出した。
「待って。下の方に何かあるわ」
「確認しています」
データ列が一度表示され、そのまま停止した。
数秒が経過する。
そして次の応答が返ってきた。先ほどよりも、はるかに弱々しい反応だった。
CORE RESPONSE — DETECTED
IDENTITY RECORD — PARTIAL
MEMORY ACCESS — RESTRICTED
セラフィエルは表示を拡大した。
「識別データは残っています」
カリスタがすぐに振り向く。
「何て書いてあるの?」
「まだ不完全です。まずは読み取り可能な部分から復旧します」
「続けて」
セラフィエルは次の処理を実行した。
今度は、文字列がより鮮明に表示された。
SHIP SOVEREIGN AI
NERIA VELASTRA
カリスタの動きが一瞬止まった。
「……ネリア・ヴェラストラ?」
「はい。中枢の識別情報に保存されていた名前です」
「ということは、この船のAIには最初から名前があったのね?」
「はい。識別記録によれば、ネリア・ヴェラストラはASTRAEAが初めて運用された時点から存在していた中枢知性です」
カリスタは再び画面を見つめた。
「つまり、新しいAIを搭載するわけじゃない。元からいたAIを復旧させているってことね」
「その通りです」
セラフィエルは追加データを確認した。
まだ開けない情報はいくつも残っている。それでも、識別構造と初期記録は、ネリアが今回の修復作業中に新たに作られたシステムではないことを十分に示していた。
彼女は、最初からそこに存在していた。
ただ、コンピューティング・コアと接続経路の損傷によって、長い間応答できなかっただけなのだ。
「ネリア・ヴェラストラ……」
カリスタは、その名前をゆっくりと繰り返した。
「王家の船には、なかなかいい名前じゃない」
「私もそう思います」
カリスタは横目でセラフィエルを見た。
「自分の名前と比べ始めないでよ」
セラフィエルは微笑んだ。
「まだ何も言っていませんよ」
「顔を見れば十分よ」
「そうですか」
一瞬だけ、検査室の空気が和らいだ。
しかし、セラフィエルは再び画面へ視線を戻す。
「基本的な通信チャネルを開いてみたいと思います。ネリアがまだ応答できる状態なら、コンピューティング・コア自身から確認を得られるはずです」
「リスクは?」
「経路を隔離したまま維持すれば、リスクは制御できます。航行システムや武装システムに触れる命令は送りません。内部通信の要求だけです」
カリスタは少し考えてから頷いた。
「分かった。試してみて」
セラフィエルは確認パネルに触れた。
「ネリア・ヴェラストラ。こちらはASTRAEON VELORIAのセラフィエル・ヴェロリアです。通信を受信できますか?」
返答はなかった。
部屋の外から、整備機械の稼働音がかすかに聞こえてくる。
カリスタはインジケーターを確認した。
「まだ反応はない?」
「もう少し待ちましょう」
セラフィエルは呼びかけを繰り返さなかった。
そのままシステムの処理を待つ。
そして――
画面上の一本のラインが色を変えた。
COMMUNICATION RESPONSE — INCOMING
セラフィエルが顔を上げる。
「応答がありました」
端末のスピーカーから、短いノイズが流れた。
その直後、女性の声が聞こえてくる。
『……接続……成功……』
カリスタは思わず背筋を伸ばした。
その声は、長い眠りから目覚めたばかりの誰かのように、とても弱々しかった。言葉の一部は途切れていたが、発音そのものはまだ明瞭さを保っている。
『識別……システム……』
セラフィエルはパネルに近づいた。
「通信を受信しました。接続元システムの識別情報を送信します」
『……お待ち……ください……』
画面上をデータが流れていく。
しばらくして、同じ声が再び響いた。
『識別情報……未認識……』
カリスタはセラフィエルに視線を向けた。
「当然ね。これまで接続したことがないんだから」
セラフィエルは落ち着いた声で答える。
「船の識別情報と通信目的を伝えます」
彼女は必要なデータを送信した。
『ASTRAEON VELORIA……』
ネリアは間を置きながら、その船名を繰り返した。
『外部船舶の識別情報……受理しました』
セラフィエルは返答を待つ。
『システム名……セラフィエル・ヴェロリア……』
「その通りです。私はセラフィエル・ヴェロリア。船舶権限者の許可を得て、ASTRAEAのコンピューティング・コアの復旧を支援しています」
沈黙。
やがて、再びネリアの声が聞こえた。
『……船舶権限者……』
セラフィエルは小さく頷いた。
「艦長の本人確認を行うための通信経路を準備します」
カリスタは中枢の表示を見つめていた。
「記憶が損傷していても、船舶権限者の役割はまだ認識できるのね」
「良い兆候です」
セラフィエルは、あらかじめ用意していた認証用の通信経路を開いた。
「ネリア。これ以上の通信を開始する前に、ASTRAEAの艦長による確認を待ちます」
『……了解……しました……』
声が消えた。
セラフィエルは、再び呼びかけようとはしなかった。
復旧の第一段階は成功した。
しかし、船舶権限者からの認証要求に応えられる人物が、まだ必要だった。
そして、その人物はASTRAEONにいる。
### POV:カリスタ・フェロ
カリスタは、これまで何度も船舶AIと仕事をしてきた。
それでも、以前はまったく応答しなかった船の知性が、突然再び言葉を発する光景には慣れていなかった。
ましてや、ネリア・ヴェラストラは旧システムの代わりに新しく搭載されたAIではない。
ASTRAEAが初めて建造された時から、その一部として存在していた知性なのだ。
「セラフィエル、通信の状態はどう?」
「依然として制限されています。基本通信経路は維持できていますが、識別情報と運用記憶の大部分には、まだアクセスできません」
「コンピューティング・コアが損傷しているから?」
「はい。応答しない中枢部分がある一方で、内部保護処理を継続している部分もあります。処理構造をさらに詳しく把握できるまでは、メモリ全体を開放するつもりはありません」
カリスタは椅子を少し動かした。
「なら、残っているデータを壊さずに復旧できているか、どうやって確認するの?」
「読み取り可能なデータは、すでに複製してあります。復旧処理は各段階でその複製データと比較します。不適切な変化が検出された場合は、ほかの領域に影響が及ぶ前に処理を停止できます」
「いいわ。コンピューティング・コアを直そうとして、ネリア本来の識別情報まで消してしまうなんてことにはしたくないから」
セラフィエルは頷いた。
「本来の識別構造は維持します」
カリスタは修復中のモジュール表示を確認した。
「それと、あのAIがどうしてあれほどの処理能力を持っているのかも知りたいわ。メインハンガーのスキャン結果を見る限り、いくつかのモジュールは王国の艦隊指揮艦の標準を明らかに超えている」
「その点は記録しています。ただし、処理能力が高いからといって、システム全体が正常に機能しているとは限りません。モジュール同士がどのように接続されているのかも、まだ確認する必要があります」
「そうね。私たちの船のシステムと、すべて同じ仕組みで動いていると決めつけるのは危険だわ」
セラフィエルは微笑んだ。
「変更を加える前に、私がいつも検査を求める理由を理解していただけたようですね」
カリスタは小さく鼻を鳴らした。
「私は理解できないものを相手に仕事をするのが嫌いなだけよ」
「アストラ・フォージを初めて調べたときにも、同じことをおっしゃっていましたね」
「今でもその考えは変わっていないわ」
彼女は立ち上がり、コンピューティング・コアの投影モデルに近づいた。
「ところで、ネリアがもっと安定して通信できるようになったら、専用の作業環境を用意した方がいいんじゃない? 整備システムと同じ端末で、すべての検査を進めるのは避けたいわ」
「独立した診断インターフェースを用意できます。ただし、アクセス権限は船の状態に合わせて調整する必要があります」
「もちろん。ネリアはASTRAEAのAIよ。自分自身の識別情報も、システム上の権限範囲も維持されるべきだわ。私たちは壊れた部分を直す手助けをするだけ」
「同感です」
カリスタは再び椅子に腰を下ろした。
画面上の一部分を指で叩く。
「この部分を復旧できたら、ネリアに船の状態をもう一度読み取らせることはできる?」
「通信が安定すれば可能でしょう。ただし、最初からすべてのセンサーへのアクセスを許可するつもりはありません。受信するデータが誤ったモジュールや損傷した経路から送られたものではないか、確認する必要があります」
「つまり、やっぱり一つずつね」
「はい」
カリスタは息を吐いた。
「分かったわ。どうやら、この仕事は私が予想していたより長くなりそうね」
セラフィエルが彼女を見た。
「ご不満ですか?」
「いいえ。見た目は簡単そうな作業に、実際にはいくつもの層が隠れているのが気に入らないだけよ」
「それこそ、技術者の仕事が面白い理由ではありませんか?」
「何時間もレンチを握っていなくて済むから、そんなことが言えるのよ」
セラフィエルは小さく笑った。
「それは確かにそうですね」
カリスタが返事をしようとした、そのときだった。
インジケーターの一つが変化した。
CORE RESPONSE — STABLE
「セラフィエル、これは……」
「中枢の応答が安定しました」
再びネリアの声が聞こえてくる。
『……船舶権限者……認証要求……』
カリスタはすぐに画面へ視線を向けた。
「さっきの要求を繰り返しているわ」
セラフィエルは頷いた。
「はい。艦長の認証を待ち続けています」
カリスタは部屋の入口を見た。
「それなら、セラフィナを呼びましょう。通信が安定してから最初に話す相手は、彼女であるべきよ」
「通知を送ります」
セラフィエルは船内通信を開いた。
『セラフィナ、エンジニアリングデッキまで来ていただけますか? ASTRAEAの基本通信機能の復旧に成功しました』
ほどなくして返答が届いた。
『本当なの?』
「はい。識別情報も確認できました。名前はネリア・ヴェラストラです。ただし、ASTRAEAの艦長による直接認証が必要な状態です」
『すぐに向かうわ』
セラフィエルは通信を終了した。
カリスタは再び画面を見つめた。
「ネリア・ヴェラストラ、ね……」
彼女は小さく微笑んだ。
「どんな性格なのか、気になるわね」
「王家の船に搭載されたAIですから、かなり厳格なプロトコルを備えているでしょう」
「それは分かっているわ」
「ASTRAEONのシステムとは、動作方式に多少の違いがあるかもしれません」
カリスタはセラフィエルを横目で見た。
「だったら、あなたがどう対応するのか見てみたいわ」
セラフィエルも微笑み返した。
「私も楽しみにしています」
### POV:セラフィナ・ヴァルクレイン・ヴェルドラコン
セラフィナは、かなり速い足取りでエンジニアリングデッキへ向かっていた。
セラフィエルから連絡を受けたとき、彼女はASTRAEAのコンピューティング・コアから追加の記録が見つかっただけだと思っていた。
しかし、続いて伝えられた名前を聞き、歩く速度を変えた。
ネリア・ヴェラストラ。
その名前には聞き覚えがあった。
ASTRAEAの技術資料で、その船舶AIの名前を読んだことはある。だが、実際に通信を交わしたことは一度もなかった。
襲撃を受ける前、ネリアは船のさまざまな運用機能を管理する中枢知性だった。ASTRAEAが深刻な損傷を受けてからは、主システムからの応答が完全に途絶えていた。
セラフィナは何度か、あのAIを復旧できるのではないかと願っていた。
そして今、その願いが現実になろうとしている。
エンジニアリングデッキの扉が開くと、診断画面の前に立つカリスタとセラフィエルの姿が見えた。
「セラフィエル!」
セラフィエルが振り向く。
「いらっしゃい、セラフィナ」
「本当にネリアと通信できるようになったの?」
「はい。ただし、まだ機能は制限されています。通信を続ける前に、艦長本人による認証を求めています」
セラフィナは頷いた。
「分かったわ。私は何をすればいいの?」
カリスタが答える。
「認証パネルの前に立ってくれればいいわ。ネリアに必要な識別情報が送られる。あとは、話しかけている相手が本当にASTRAEAの艦長なのか、彼女自身が確認するだけよ」
「分かったわ」
セラフィエルは認証パネルを起動した。
「ネリア、船舶権限者が到着しました。これより本人確認を開始します」
『……認証……待機中……』
セラフィナは一歩前に出た。
目の前に小さな画面が表示される。彼女は自分の個人識別端末をパネルに触れさせ、艦長権限の保持者だけが知る認証コードを入力した。
確認処理には、しばらく時間がかかった。
画面上では複数のインジケーターが動いている。
セラフィナは何も言わずに待ち続けた。
やがて、再びネリアの声が響いた。
今度は、先ほどよりもずっと明瞭だった。
『艦長識別情報……認証完了』
セラフィナは息を呑んだ。
『セラフィナ・ヴァルクレイン・ヴェルドラコン。Captain Authority……承認』
その声は柔らかく、非常に格式ばった抑揚を持っていた。
「ネリア……」
セラフィナはパネルに近づいた。
「私の声が聞こえる?」
『はい、殿下』
たったそれだけの言葉だった。
けれど、長い間失われていた家族の船のAIの声を再び聞けたことは、セラフィナが想像していた以上に大きな意味を持っていた。
「また返事をしてくれて嬉しいわ」
『通信機能および船舶機能の一部を復旧できていないことを、深くお詫び申し上げます』
「謝らなくていいのよ。あなたも損傷しているんだから。これから一緒に直していきましょう」
『……修復……』
ネリアは一瞬、沈黙した。
『確認をお願いいたします。ASTRAEA OF THE SILVER LANTERNは、現在も限定的な運用状態にありますか?』
セラフィナはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、まだよ。二基の主機はどちらも損傷しているし、使えない船舶システムもいくつかあるわ。カリスタが修復作業を指揮してくれているの」
カリスタがパネルに近づいた。
「その通り。技術面の作業は私が担当しているわ。今は中枢通信の復旧と、船体構造の状態確認を進めているところよ」
ネリアは短い間を置いた。
『識別情報……』
「カリスタ・フェロ。ASTRAEON VELORIAのエンジニアよ。セラフィナの許可を得て、ASTRAEAの修復を手伝っているわ」
『カリスタ・フェロ……』
ネリアの声が、わずかに明瞭さを増した。
『人員データ……完全な情報は取得できません。ただし、Captain Authorityによる技術的権限の承認を確認しました』
カリスタは微笑んだ。
「いいわね。少なくとも、無断で入り込んだ人間じゃないってことは分かってくれたみたいね」
『船舶システムへのすべてのアクセスは、付与された権限に従って確認いたします』
「それで十分よ。私も、あなたの許可なしに誰かが船のシステムを変更するのは望まないわ」
セラフィナは、二人のやり取りを少し安堵した表情で見つめていた。
それから、再びパネルへ視線を戻す。
「ネリア、損傷を受ける前の船の状態を覚えている?」
『運用記憶……不完全です。一部の情報にはアクセスできません』
「コンピューティング・コアが損傷した原因は分かる?」
『データを検証できません。発生した事象の全記録に、まだアクセスできない状態です』
セラフィナは視線を落とした。
「そう……」
ネリアは続けた。
『ただし、船舶の主要機能が完全には復旧していないことは確認できます』
「分かっているわ。そんな状態で無理に働かせたりはしないから」
カリスタは腕を組んだ。
「それも、私たちが段階的に復旧を進めている理由よ。最初からシステム全体を起動したら、まだ救える部分まで壊してしまう可能性があるわ」
『その判断を理解しました』
セラフィナは薄く微笑んだ。
「カリスタが船の修復を手伝ってくれるわ。セラフィエルも、あなたのコンピューティング・コアの復旧を支援してくれているの」
すると、ネリアは別の相手へと呼びかけた。
『セラフィエル・ヴェロリア』
「はい、ネリア?」
『診断通信を通じて、あなたの識別情報を受信しました。ASTRAEAとASTRAEON VELORIAの運用上の関係について、確認したいことがあります』
セラフィエルは丁寧に答えた。
「ASTRAEON VELORIAは独立した船舶であり、あなたが修復を受けている場所です。私はセラフィナの許可を得て、カリスタと協力しながら、あなたのシステムの復旧を支援しています。ただし、ASTRAEAは引き続きヴェルドラコン帝国家の船です。あなた自身の識別情報と権限範囲も、独立したものとして維持されます」
ネリアはすぐには答えなかった。
しばらくして、再び質問が返ってくる。
『あなたはASTRAEON VELORIAの中枢AIですか?』
「はい」
『あなたの処理システムは、ASTRAEONの中枢システムに直接接続されていますか?』
セラフィエルは微笑んだ。
「いいえ。現在使用している診断経路は隔離されています。この接続を通じてASTRAEONの中枢システムへアクセスすることはできませんし、あなたのシステムをそこへ接続するつもりもありません」
『……了解しました』
長い沈黙が生まれた。
セラフィエルは落ち着いた様子で待っている。
やがて、ネリアが再び口を開いた。
『あなたの処理能力を検査したいと考えています』
カリスタが眉を上げた。
「へえ?」
セラフィエルは急かすことなく答えた。
「構いません。ただし、ASTRAEONの内部システムへのアクセスは許可できません。この通信経路で利用可能な情報だけを受け取ることができます」
『その制限は理解しています。提供された通信データを用いて検査を行います』
セラフィナは画面を見守った。
「何か問題でもあるの?」
「いいえ、セラフィナ。ネリアは、自分を支援しているシステムについて理解しようとしているだけです」
『評価を開始します……』
いくつかのインジケーターが動き始めた。
最初、ネリアは受信した通信データを確認しているだけだった。しかし、応答時間と処理能力の比較を始めると、通常では考えにくいほどの間が生じた。
『……』
カリスタは首を傾けた。
「ネリア?」
『申し訳ありません。計算を再実行しています』
「どうして?」
『処理結果が、利用可能な比較基準と一致しません』
セラフィエルは微笑みを崩さなかった。
「データ範囲をさらに絞って、検査をやり直しますか?」
『必要ありません。すでに受信した測定結果を使用します』
数秒後、ネリアは再び話し始めた。
『セラフィエル・ヴェロリア……』
「はい?」
『通信経路を通じて確認できたあなたの処理能力は……ヴェルドラコン帝国の艦隊指揮艦に搭載されたAIの標準を、はるかに上回っています』
カリスタは小さく笑った。
「ほら、ようやく気づいたみたいね」
『確認をお願いいたします。ASTRAEON VELORIAは、Sovereign-Class AIを採用しているのですか?』
セラフィエルは落ち着いて答えた。
「私の分類がその階級に属しているのは事実です。ただし、処理能力を一つの分類だけで比較することはできません。AIごとにアーキテクチャも役割も異なりますから」
ネリアは再び沈黙した。
『理解しました……』
しかし、その言葉の調子から、セラフィナにもネリアがまだ自分の評価基準を組み直そうとしていることが感じ取れた。
「セラフィエル、あなた、ネリアを困らせているんじゃない?」
「私は質問に答えただけですよ」
カリスタがくすりと笑う。
「まだ何もしていないのに、王家の船のAIがあなたの能力を理解するのに苦労しているわね」
セラフィエルはカリスタに顔を向けた。
「不快にさせるつもりはありませんでした」
『いえ……そういうことではありません』
ネリアの声が、先ほどより少しだけ速くなる。
『比較基準を調整するための時間が必要なだけです。確認された処理能力が、私の知る船舶の標準と一致しないのです』
カリスタは笑いをこらえた。
「だったら、急がなくていいわ。私たちだって、ASTRAEAのシステムをすべて理解できているわけじゃないんだから」
『ご説明に感謝いたします、フェロさん』
セラフィナはカリスタに目を向けた。
「フェロさんって、姓に敬称を付けて呼んでいるのね」
「正式なプロトコルを持つ船舶AIなら、それが普通よ」
セラフィエルは柔らかく微笑んだ。
「ネリアはとても礼儀正しい話し方をしますね。私は好きですよ」
『ありがとうございます、セラフィエル・ヴェロリア』
セラフィエルは少しだけ首を傾けた。
「どういたしまして、ネリア。これから良い協力関係を築けると嬉しいです」
ネリアは再び、短い間を置いた。
そして、今度はさらに明瞭な声で答えた。
『私も、そう願っています』
セラフィナは微笑んだ。
ASTRAEAがASTRAEONのハンガーへ運ばれてきてから、初めて彼女は、再びその船の知性と会話を交わすことができた。
記憶はまだ完全には戻っていない。
すべてのシステムが使えるわけでもない。
それでも、彼女がよく知っている声は、確かに戻ってきた。
「ネリア」
『はい、殿下』
「あなたには完全に復旧してほしい。でも、無理はしないで。一つずつ進めていきましょう」
ネリアは短い間を置いてから答えた。
『Captain Authorityのご命令に従い、合意された復旧手順に従います』
セラフィナは微笑んだ。
「ありがとう」
しかし、会話が続く前に、ネリアが再び口を開いた。
『私から一つ、お願いがあります』
カリスタが振り向く。
「何かしら?」
『次の復旧処理を実施する前に、ASTRAEA OF THE SILVER LANTERNの全システムについて、再検査をお願いしたいと考えています』
セラフィナは画面を見つめた。
「全システムを?」
『はい、殿下。現時点で得られているデータだけでは、船全体の状態を確認できません。また、損傷した処理経路が、ほかのシステムの機能に影響していないとも保証できない状態です』
カリスタはゆっくり頷いた。
「もっともな要求ね」
ネリアは続けた。
『推測に基づいて復旧作業を進めたくありません。どの部分が引き続き使用可能なのか、どの部分を交換する必要があるのか、そして、どの部分に追加検査が必要なのかを把握したいのです』
カリスタは微笑んだ。
「賛成よ。それは私もやりたいと思っていたことだわ」
セラフィエルも付け加える。
「メインハンガーで取得したスキャンデータと、中枢診断の結果をまとめ、再検査の基礎資料として使用します。検証を行わずにシステムを起動することはありません」
ネリアは格式ばった声で答えた。
『ご協力に感謝いたします。ただし、船舶システムの再起動に関する最終決定権は、引き続きCaptain Authorityにあることを明確にしておきたいと思います』
セラフィナは画面を見つめた。
「分かっているわ。きちんと進めていきましょう」
メイン画面には、先ほどよりもはるかに安定したネリアの通信状態が表示されていた。
エンジニアリングデッキの外では、ASTRAEAの修復作業が今も続いている。
二基の主機は、まだ交換されていない。
武装システムも再製造されていない。
エネルギーネットワークも、完全には復旧していない。
そして、船内のほかの区画も、まだ検査を待っている状態だった。
それでも、最も重要なものの一つは戻ってきた。
これまでずっとASTRAEAの一部であり続けた知性が、再び目を開いたのだ。
「おかえりなさい、ネリア」
『ありがとうございます、殿下。またあなたの声を聞くことができて、嬉しく思います』
セラフィナは微笑んだ。
今度は、敬称でも命令でも返さなかった。
「私も、あなたが戻ってきてくれて嬉しいわ」
### 次回、第193話「二隻のAI」
### 二隻のAI
VOLUME 7 — ARC 3「ASTRAEA REPAIR PROJECT」
場所: ASTRAEAハンガー → ASTRAEON VELORIA — エンジニアリングデッキ
メイン視点: ネリア・ヴェラストラ → セラフィエル・ヴェロリア → カリスタ・フェロ
ネリアの通信機能が安定したことを受け、ASTRAEAの全システムを対象とした再検査の準備が始まる。
ネリアは、自分を取り巻く新たな環境、とりわけ復旧作業を支援しているシステムについて理解しようとしていた。しかし、二隻の船が採用する技術規格の違いは、彼女が予想していた以上に大きなものだった。
セラフィエルは、アクセス権限やネットワークの安全性、そして双方の権限分担について説明を始める。
カリスタは、主機交換に使用する部品の互換性を確認していた。
その一方で、ネリアは少しずつ気づき始める。
ASTRAEON VELORIAは、単なる豪華な個人所有船ではない。
そして、その船を管理するAIもまた、これまで自分が知っていた基準だけでは測れない存在だった。
【次回、第193話へ続く……】




