ep:1
時は1849年。
江戸。
長屋の一部屋、散乱している大量の紙、虎龍が描かれている屏風、雪崩を起こしている版画、4畳半とは思えない程にその部屋は荒れていた。
それらの囲みの中に1枚の布団が敷かれ、一人の男の生涯が今終わりを迎えようとしている。
齢90、病床に伏した男は言う「あと10年…いやあと5年もありゃあ…。」
「なんだい?」
男の傍らで娘が耳を傾ける。
「5年もありゃあ…俺ぁ…。」
(本物の絵描きになってたのによぉ)
その思いは声に出ることはなく男は息を引き取った。
新緑の風が部屋のまだ乾ききっていない墨の香りを纏いながら部屋を突き抜ける。
(その願い、別の世界で叶えてみぬか?)
カッと目を見開き北斎はゆっくりと起き上がる。
辺りを見渡すが真っ白い空間に北斎は一人だった。
「話に聞いてた極楽…って訳じゃなさそうだな…。」
「それに…」
先程まで病で伏していた身体が嘘の様だ。
「やはりここは極楽か?」
(はい。貴方は先程息を引き取りました。)
また、あの声だ
「誰だ!?」
耳に語りかけるでもなく頭に直接響く声
再度辺りを見渡すとそこに、人?真っ白い空間に人の形が浮き出ている。それの足元をみてみると影があり確かにそれは実態があるようだ。
北斎はゆっくりと近づき触れてみようとするが霧の様に空を切り元に戻る。
北斎はにんまりと笑いしゃがみ込み筆と墨を探すが見当たらず堪らず親指の薄皮を噛み切りその場で目の当たりにした事を描き始める。
(噂に違わぬ狂人振り)
「おおよ!こちとら画廊狂人卍って名もあんだ!」
北斎はまたたく間に目の前での事象を描き上げる。
「しかし、神様あんたも惜しい事をした。」
続けて北斎は今目の前で起きた現象を第三者の目線で己を描き始める。
「俺ぁ後5年もありゃあ本物の絵師になれたってのによ。」
北斎は描き終え見上げる。
その顔は自身に溢れていた。
(その願い、別の世界で叶えてみぬか?)
「別世界!?」北斎はくびを傾げる。
「エゲレスか?はたまたオランダか清の事か?」
(そなたが元々いた世界とは別の異世界。所謂、パラレルワールドである。)
北斎は尚もくびを傾げる。
(その世界では絵は絵画としても価値がある。たが、ある一定の者にだけ描いた絵に魔力や魂が宿りその絵が命を宿し動き様々な事象を引き起こす事ができるのだ。)
北斎の顔からは疑問でなく不信になった。
(何を言うでおるのだ?この者は?絵に命が?と言う顔じゃな?)
自分が今思っている事を読まれ北斎は虚を突かれた。
(その世界でそなたは真の絵師と成り得るであろう。)
北斎は希望に満ちた顔付きで言う
「では直ちに行こう!早う!」
北斎は何処ともない方向へと歩み神を急かすその足取りは童が遊びにでかけるかの様な、その中で神は続ける。
(しかし、大いなる力に代償はつきもの。)
先程まで童の様にはしゃいでいた北斎の動きが止まり。
振り返る。
(その代償はそなたの…。)
そこで視界が行燈が消えるかの如く暗くなる。
次に目を覚ました所は澄み切った青空の下。少し盛り上がった丘陵なのだろう、奥には森が広がっており北斎がいるその場だけが開けている。
青々と生い茂る草の上、このまま寝転げ続けようかと目を閉じる。
何処からともなく鳥の鳴き声。
目を開け視界をキョロキョロと見渡し鳴き声の主であろう鳥を目にする。鷲か、鷹か。
「でかいな。」北斎は呟く。
(ここが神様が言っていた別世界か?なんだ、上野や下野と変わらぬではないか!)
などと思い耽りながら目を閉じる、再び先程の鳥類が鳴く。
目を開け鳥類を観ると、北斎の真上で旋回している。
「しかし、でかいな。あのでかさ日の本では見たことないぞ!」北斎は笑う。
鳴き声からの距離は測れないが声に反して影がでかい。
よくよく観ながら、構図を描く。旋回していた鳥は更に上へ上昇したのか、北斎の目から真っすぐになった。
暫く眺めていると「ん?」鳥は上昇したのでは無い。
真っすぐ、北斎に向かって下降してきているのだ!
北斎は慌てて起き上がり、転びながら駆ける。
何処ともなく一目散に駆けながら後ろを振り返るとそこにはツキノワグマが可愛らしく見えるほど大きな鷲が砂埃を立ち込めながら追いかけてくる!
「あわわわわ!」
その姿に思わず立ち止まって描きたい欲が湧き上がるが命あっての物種一心不乱に逃げる!が、しかし、程なくして北斎は文字通り鷲掴みにされ、間もなく身体が宙に浮き上がる。
「こら!離せッ!離さぬか!」
息を切らしながらジタバタともがくが先程の全力疾走で体力をほとんど使い果たした模様、こうなってしまってはしょうが無い。
北斎は観念して獣の事を観察する事にした。
見上げると顔の位置は北斎もう一人を乗せたくらいの高さにある後ろを振り向くと、獅子の様な脚があり、それが4足歩行もできるのだと判明した。
(なるほど、これならば追いつかれるのも解る)などこの巨躯にも関わらずあの速度がだせるのかと両腕を組み頷く。
と、同時にここが日の本では無いことを確信した。
「しかし、俺をどこに連れて行くつもりだ?俺なんぞろくに栄養もとらなかったから骨皮筋雄だぞ!?」と呟きながら見上げるが獣に聞こえるはずも無く。
「はぁ…。」と息を整えるようにため息を吐きながら眼下を見下ろすと辺りは鬱蒼と広がる森林どの道逃げ場など無かったのだ。
しかし、この北斎この後自分の身に起こる事など頭に無い。
無いというか慣れているのだ、今までにも危ない場面などいくつもあったが持ち前の豪運さと楽観的思考でその場をくぐり抜けてきて慣れて今北斎の頭の中はこの獣を描く構図でいっぱいなのだ。
「1枚の紙に留めるのはもったいない…屏風…否、天井!う〜む…。」と口を尖らせながら頭をポリポリと掻き両腕を組む。
すると、獣が大きな悲鳴にも似た声をあげる。
「うん?」
北斎が見上げるとちょうど胸から首にかける位置に槍が刺さっているのを確認した。
と同時に、身体がフワッと軽くなった。
獣が北斎を離したのだ。
「おわ〜ッ!!」
真っ逆さまに落ちて行く北斎、鬱蒼と広がる森の中へ。




