第1話「知らないルート」
クロードと付き合い始めて、三ヶ月が経った。
慣れてきた。好きな人がいる生活に。隣に誰かがいることに。逃げなくなったことに。
そう思っていた。
その日の朝、父に呼ばれた。
応接室。父が座っていて、向かいに座るよう促された。珍しく、表情が硬い。テーブルの紅茶は手つかずで、湯気だけが頼りなく揺れていた。
「アルディア、話がある」
「……何でしょう」
「王家から、打診が来た」
「打診?」
「お前とアルヴィン殿下との婚約について、王家が検討しているという話だ」
沈黙。
(何と言った、今)
「婚約」
「ああ」
「アルヴィン殿下と」
「そうだ」
しばらく黙り、頭の中を整理しようとした。でも、整理できない。
「……理由は」
「ダーリン侯爵家失脚後の、貴族バランスの問題だ。クレシェント公爵家と王家が婚姻関係を結ぶことで、宮廷の安定を図りたいらしい」
「政略的な理由で」
「そうだ。ただ、まだ検討段階だ。お前の意思を確認したくて呼んだ」
(私の意思)
クロードの顔が頭に浮かんだ。
七週間と二日待ってくれた人の顔が。
「……少し、時間をください」
「ああ。急がない」
私は部屋を出た。
廊下に出て、壁に背を預けた。
(ゲームにこんな展開はなかった)
(ちょっと待って、このルート知らないんだけど? 攻略Wiki全部読んだのに?)
(うろ覚えすぎて忘れただけかもしれないけど)
壁の冷たさが背中に染みる。深く息を吸った。
(クロードに、言えない)
言ったらクロードが動く。あの人は必ず動く。でも、これは私が自分で決めなければならない。
(また、一人で抱えようとしている)
分かっていた。分かっていても、言葉が出てこなかった。
その日の夕方、王家の執務室でアルヴィン殿下と顔を合わせた。
いつも通り、書類の山の前に座っていた。
「クレシェント。顔色が悪い」
「……少し、考え事をしていました」
「何を」
「内緒です」
アルヴィン殿下が少し黙った。
「……そうか」
いつもより、その「そうか」が短かった。
(この人は、知っているのかもしれない)
「殿下」
「何だ」
「一つだけ聞いていいですか」
「聞いてみろ」
「今回の打診は、殿下のご意思ですか」
沈黙。
アルヴィン殿下が、ペンを置いた。
「……答えにくい質問をするな」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
長い沈黙の後、殿下が穏やかに言った。
「続きは、また今度にしよう」
(逃げた)
珍しく、アルヴィン殿下が逃げた。
私は何も言えなかった。
◇
──アルディア・フォン・クレシェントの日記より。
『打診が来た。クロードに言えていない。アルヴィン殿下が逃げた。私も逃げたい。でも逃げないと決めた。どうすればいいか、まだ分からない』
次話:「クロードに話せない」




