011.節約は基本です
ラルフがカレンの空いたカップに紅茶を注ぎいれた。
琥珀色の左目にかけられた片眼鏡のチェーンがしゃらりと揺れる。
今日は自室で朝食後の紅茶を飲みつつ、仕事をしていた。
ちなみに兄のエルヴィンは議会出席のため朝早くに家を出ている。今日も帰りは遅くなるようだった。
長椅子に座ったカレンの前には、商会関係の書類が多数。今日もさくさくと判断し、ラルフに指示を伝えていく。
「――ということで、クォルツハイム産ワインの単一品種の在庫に関しては混合品種でカバーする方向で。で、古い信用売りなんてやめて、ちゃんと貴族に試飲させてアピールすることね。ウチの混合ワインは歴史は浅いけど、味はそこいらの高級ワインに引けは取らないんだから。加えて販売員への指示を徹底。酸化したワインを試飲させないよう開封後に必ず密封すること、開封後の使用期間を決めて守ること。中途半端なモノ顧客に飲まさないように」
「畏まりました」
いつもながら主人の指示は細やかだ。
ラルフは、いつもカレンの判断の早さとこの細やかさに助けられている。カレンと商会の間に立ち指示や調整を行うのが彼の役割だ。指示が十分でないと問題が発生し、ブーメランのように仕事が増えてしまう。今ではラルフも補佐として優秀な働きをしているが、かつては気が回らず、先回りしていなければ問題が起こっていただろうとひやりとしたことが何度もあった。
「ワインについては以上ね。じゃあ次。ええと、出来上がってきた試作品はこれ?」
と、手に取ったのは台座に垂直に交わった二本の金属棒が取り付けられた物体。棒の先には大きなレンズが付いている。
これはスタンド式の虫眼鏡だった。机の上で邪魔にならないサイズ感で、高さや角度を変えられる可動箇所を設けてある。
最近、印刷技術と製紙技術の向上によりインクの滲みが減り、小さな文字の本が増えてきたので需要が出るだろうと作ってみた。手を塞がずに読書や作業をするには最適なはず。もしかして研究者にも使ってもらえるかもしれない。
ひっくり返したり動かしたり、カレンは試作品をチェックした。
「ん、悪くないわね。あとは前言った通り、このスタンドの軸に彫を入れた取手をつけて高級感を出したものを富裕層向けに。あと先日指定した、素材違いで装飾なしにした安い価格帯のも作るようにね」
「はい。順次進めています」
驚くことに、この世界では最近ようやく虫眼鏡が普及してきたところだというのだ。これまでほとんど知られてなかったらしい。眼鏡は当たり前に使われてるのにおかしな話である。
技術の普及具合や進化って段階があるものなのじゃないか。前から思っていたが、この世界の技術の普及、発展の仕方は不自然な気がする。
昔ラルフにそう言ったところ、国や開発者、関連団体が新技術を公開せずに独占しているせいではないかと答えられた。下手に真似をしたり、関連技術を利用した商品を作ってしまったりすると痛い目にあうらしい。それが書面の抗議で済めばいいが、ある団体対商会の際は討ち入り騒動に発展し、真似をした側の商会が文字通り壊滅したのだとか。相当引いた。やっぱりこの世界怖い。
なお、眼鏡レンズ技術を管理していた組織は長い歴史があったのだが、弱体化のため何年か前に解散したらしい。まさしく盛者必衰。でもお陰で技術が広まり、眼鏡市場が活性化したのだから皮肉な話である。
ちなみにクォルツハイム商会は技術の独占せず、求められれば拒むことなく教えている。他に商品を作られても質では負けないと思っているし、個人的には技術が上がれば生活レベルも上がるのだから推奨すべきだとカレンは考えている。
閑話休題。
カレンは他にもいくつか指示を出して、商会関係の調整を終える。
紅茶を飲んで一息ついた。
「で、他に何かある?」
天気がいいから、もう何もないなら土いじりでもしたい。
確か庭師から、今日あたりに新しい苗が届くと聞いていたのでそれを植えるのも楽しみだった。ちなみに届くのは花の苗ではなく、野菜。カレンはもっぱら花より団子であった。
だか期待外れなことに、ラルフは書類を持ち出した。どうやらもうひと仕事あるようだ。
「先日ご指示いただいた、当家の予算見直しをしましたのでご報告を」
「……ああ、あれね」
ハンナの際限ない食欲によってひっ迫している食費の予算の件である。
ラルフにはクォルツハイム家全体の家計簿を見直しさせていた。
「で、どうだったの?」
「お嬢様のご要望通り、使用人の待遇を悪くせず、出入り業者に無茶な値下げ要求をせず、屋敷の来客スペースの維持管理費削減は最低限に、の三点を順守して見直ししました結果」
「うん」
「大きく削れるのはエルヴィン様とお嬢様の食費くらいでした」
「ええっ!?」
意外すぎる言葉にカレンは腰を浮かせた。
「そんな訳ないでしょ!?」
「ありました。各項目、小さな削減はできますが限界があります。やはり食費での調整が一番かと」
「ほ、他にあるでしょう。例えばええと、私のドレス代とか」
「お嬢様は社交に滅多に出られないので、ほとんどかかっておりません。これ以上の削減はクォルツハイム家の沽券に関わると判断します」
「私のお茶代とか。たくさん飲んでるわ!」
「すべて商会からの試供品です」
「お、お兄様のお小遣いとか!」
「エルヴィン様は書籍類くらいにしかお使いになられません。お仕事に必要な範囲です」
なんて堅実な侯爵家!
確かにクォルツハイム家の人間は身分の割には消費をしない。
もちろん侯爵家として最低限の質はキープしているが、他の貴族のように何もかもを豪華にして競い合うようなことは好まなかった。
変わり者一家と言われるけれど、ここの常識ではそれは仕方ない。だがカレンはそんな我が家の風潮は嫌いでなかった。
しかし、節約ができないというのは問題である。
「り、領地の本邸は……」
「あちらの執事にも問い合わせましたが、節約しすぎて勘弁してほしいということでした。報告書も確認しましたが確かに難しく……本邸では商会の取引や領民へのねぎらいに晩餐会なども多少行っておりますし、限界はあるでしょう」
なんてことだ……。
カレンは打ちひしがれた。
美味しいものを食べることが一番の楽しみであったのに。だから食事はちょっとだけ贅沢にしていたのに、一人の侍女によってそれも奪われる羽目になるとは。
ぷるぷる震えるカレンに、執事がひとつ提案をしてきた。
「商会の売上も順調ですから、予算額そのものを増やしてみてはいかがですか」
「それはだめよ。使うところがあるから」
領地経営で使いたいところがあるので、それだけはしたくない。
くっと拳を握りしめ、カレンは苦しい決断をした。
「分かったわ。私たちの料理の食材、安いのに変えて頂戴。大量購入でボリュームディスカウントも考慮に入れて。そして料理長に伝えて。バリエーションと味を落とさないようにと。そしてハンナの食事は毎日イモなどでカサ増しするように!無断であの侍女に大量の餌付けをしていたのだからそのくらいしてもらうわっ!」
「……畏まりました」
執事は余計な事を言わず、了承の意だけを返した。
◇◇
もう終わりかと思いきや、「もうひとつご報告が」と執事が切り出した。
「なあに」
「昨夜、敷地内に鼠が一匹侵入いたしました。屋敷に入る前に警備兵によって捕えています」
警備兵は私的に雇っている護衛である。騎士と区別して警備兵と呼ぶのは、警察と警備員との違いのようなものだ。
「そう」
驚くこともなくカレンは返事をした。
「ところで兵に怪我はなかった?」
「ございません」
「ん、よかった」
ラルフは心得たように答える。この小さな主人は、いつも警備兵や使用人の無事を真っ先に確認するのだ。こういったところは昔から変わらず好ましいとラルフは思う。
商品開発にはとことんこだわり、経営判断には決断力も鋭い一面も見せるのに、一歩仕事から離れると突っ走り気味でおっちょこちょいという不思議な主人。令嬢の仮面を脱いだときに見える気さくで元気な性格は、本当に貴族らしくなかった。
「それで、鼠さんの飼い主は分かった?」
「はい、あっさり吐きました。ドイブラー家です。カレン様狙いでした」
「また?懲りないわねー。確か先々月も送り込んでこなかった?」
「左様です」
「本当にもう。あそこの娘ってまだ四歳でしょ?そんな子を婚約者にしてロリコン王太子と呼ばせたいのかしら」
「馬鹿なのですよ」
この執事が容赦ないのは、カレンにだけではないようだ。
「しかし最近、私狙いの侵入者が増えてきたわね」
「次の社交シーズンは短いですから……決定までの残り期間を考えるとこのシーズンがカギだと思っているのでしょうね」
「私、候補と言っても末席よ」
「可能性がある者は片っ端から潰せ、という考えでしょうか。自分に力がないことを示しているようなものですが」
「だからと言って実力行使なんて、考え方がおかしいでしょう」
「ここではそれが普通ですよ。いい加減慣れてください」
「分かっているけど……」
ちょっと傷つけるだけのつもりで侵入してくる訳がない。相手がカレンの命を狙おうとしているのは理解しているが、この世界における命の価値の低さについてはいまだに馴染めない。まあ、引きこもりのカレンが世間にきちんと触れたのはここ三年程度だから仕方ないと思ってもらいたいのだが、こうやってラルフに言われるたび、周りと感覚が違う自分はおかしいのかなと思ってしまう。
だが、この屋敷の使用人はいつ巻き込まれるか分からないのだ。そんな危険に合わせるのは嫌だ。
「ねえねえラルフ、前も言ったけど、警備兵が捕獲し損ねた場合に誰にも会わないルートで、そのまま私の部屋に誘導するって方法は取れないかなー」
「取れません。いけません」
「でもさ」
「お嬢様。多少自衛ができるからと過信しないでください。以前から自分を的にするような考え方を改めてくださいと言っているはずです。貴女は侯爵家のご息女なのですよ」
「そうだけど。でも、できたら誰も巻き込みたくないなーなんて」
「そもそもエルヴィン様が標的だった場合は?侵入させることで危険が増します。また兵が捕獲し損ねる、その場所の設定は?敷地が広くてその後のルート確定が困難です。また不確定要素の想定は?深夜でも使用人が出歩くことがございます。そこで侵入者と出会ってしまったら?」
「……」
「いくらでも欠点は出てきます。考えなしに提案されるなどお嬢様らしくございません。警備の事は専門家に任せてください。そうすることでお嬢様もエルヴィン様も、使用人も守ることができます」
「……分かった……」
仕事のあの鋭さが、こういった場面ではすっかり無くなってしまう。このアンバランスさがこの主人の不思議なところだった。
いや、もしかして本質的には抜けていて、仕事のときだけ変わるのかもしれない。
ラルフはしょぼんとしているカレンのカップにお茶を足した。
いつもは冷えた紅茶と混ざらないよう、あらかた飲み終わった頃に注ぐが、少し空気を変えたかった。
「お嬢様を心配しているのですよ」
皆が、と聞こえる言い方を敢えてした。
「うん、分かってるわ。ありがとね」
にへらとカレンが笑った。切り替えが早いのはいいことだ。ラルフは琥珀の瞳を細めた。
そして、そうそう、と思い出したように忘れていた最後の報告を行う。
「昨夜の鼠はその辺りのゴロツキだったようでした。侵入方法もお粗末でしたし、腕も悪かったそうなので、まあ適当に雇われたのでしょう」
「そ。じゃあいつも通り」
「はい、放置で」
たまたま雇われたゴロツキを痛めつける趣味など全くない。それにドイブラー家など追い詰めても何の得もなかった。
侵入者はラルフの手配により、昨晩のうちにドイブラー家の前に裸で転がされていた。うまくいけば風邪をひくだけで済むだろう。
優秀な使用人たちにより、クォルツハイム家の安全は今日も守られたのであった。
◇◇
珍しく仕事がスムーズに片付いたわー。
書類の片づけをラルフに任せて、カレンは気分よくお菓子をつまむ。
一口大の焼き菓子は仕事をする午前中にはぴったりである。
気分を変えて、ミルク入り紅茶で菓子を食べていたら、ふと、明日はベンノ鋳物店にフライパンを取りに行く日だと思い出してしまった。
一気に気持ちが沈んだ。
また殿下と会わなきゃならないのね……
隠し事をしながら会話をするのは大変疲れるが、悪役ポジション回避のために力を抜くわけにはいかない。
伯爵令息ルートが潰れた現在、カレンが王太子の婚約者となると悪役になることが確定してしまう。死亡エンドは絶対に避けたかった。
いっそのこと別の人と結婚しようとも考えたが、貴族の婚姻を司る貴内省の実権は王太子に握られていることを思い出し、無駄な策だと諦めた。
決定的に悪役ポジを回避できる画期的な方法はないものか。
「……とりあえず、明日はボイコットしよう」
が、そんな策はすぐに思いつかなかったので、あっさり諦めて明日の対策だけ結論を出す。
まずは会わないことが基本だよね!
「大人気ない方法ですね」
「外野、うるさい」
ラルフの突っ込みは相変わらず容赦ないけど、負けてなんかいられない。
「そんなに嫌なら、その場でお断りすればよかったのです」
「無理よ!あれは無理だった!」
きらきら笑顔で追い詰められるあの恐ろしさ、ラルフには分かるまい。
「とりあえず、明日は外出なし!それでよろしくね!じゃあ私は畑に行ってくるから」
その後、何かを振り切るように畑を掘り、野菜苗を植えまくったカレン。
しかし夕方、レイラからの手紙を見た彼女は膝から崩れ落ちることになる。
いつもより大きなカルフォーネ公爵家の封筒に入っていたのは、レイラの筆跡で「ごめんね」と書かれたメモと、家紋も封蝋すらもない真っ白な封筒。
その封筒の手紙には、整った文字でたったひとことだけ書かれていた。
『明日、必ず約束の場所で』
誰の手紙とは尋ねずともすぐに分かった。
きっと側近のテオドール――侯爵家令息でレイラの実弟――経由でレイラに渡されたものだろう。
逃げ道塞がれた……!
この紙切れから言いようのないプレッシャーを感じる。行かなければ家まで来てしまう気がする。
言葉もなく床に沈む主人の横に落ちた手紙を見て、執事は静かに告げた。
「明日、終日外出ということで予定を組ませていただきます」
優秀な執事の言葉に、涙が出た。




