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その日一日中、僕は何もかも見通す澄んだ僧の視線を感じていた。
食事をしていても、他の奴と話をしていても、何度も振り返って誰もいないことを確かめた後でも、頭の後ろ、すぐ背後に一対の目がある。
その目は僕のすべてを見つめている。していることも、考えていることも。一瞬一瞬、すべてのことを。
次第に強くなってくるその感覚に追い立てられ、吐き気が強くなっていって、昼飯はついに食べられなかった。
どうすれば、この感覚から逃れられる。
どうすれば、全てを見通す鋭い視線から、僕を隠せるんだろう。
そうひたすら考えていたのに、ふと気がつくと、同じ教室にいる春日を探して目で追っていた。
春日はこれといって変わりなく見えた。淡々と授業をこなし、休み時間に隣の奴とおしゃべりして笑い、教科書を出し、教科書を片付け、独特な滑るような動きや整った姿が醸す気配を打ち消すような静けさで、クラスの中にひっそりと居た。
けれど、その目は一度も僕を捉えない。
僕はなぜ春日を気にしているんだろう。春日に何を期待しているんだろう。
自分が何をしようとしているのかわからないまま、僕は放課後を待って図書室へ出掛けていった。
リカと待ち合わせ以外で図書室へ来ることなんて、今までなかった。
春日は、そこが自分の仕事場でもあるかのように、カウンターの中にいた。入り口から入った僕に気づいている、ように思えた。なのに無視している、ふうにも取れた。
僕は手荒く、カウンターに『グラン・ブルー』を置いた。
「返却ですか」
春日は昨日のことなど知らぬ顔で、事務的に尋ねてきた。
それがひどく他人行儀な気がして、僕はむっとした。
「おまえがそう言ったんだろ」
「ぼくは何も言ってない」
ぽん、と春日は突き放した。
一瞬、自分が夢の山上の門前にいるような気がした。
背後から照らし始めた夕日が朝焼けのように春日の回りを囲み、頭上には棚となってそびえるカウンターが山門のように、そして、それこそ、あの夢そのもののような澄んだ目で、春日が僕を見つめている。
そうだ、あれは春日だ。
ふいに、わかった。
あの僧は春日で、わめいていた武士は僕だ。そして、今度もまた、春日は俺を突き放そうとしている。
そう感じたとたん、僕は思い切り声を張り上げ怒鳴っていた。
「おまえが言った!」
口に出すと、それは余計に真実だという気がした。その気持ちに力を得て、なお、強く声を出す。
「この本は僕にはまずいって!」
春日は静かに僕を見た。
「物事には順序がある」
わずかにため息をついて、春日は本を手に取りながら続けた。
「準備ができていなければ、急ぐわけにはいかない。先回りしても受け入れられない。君に対する、この本みたいに」
低い淡々とした声だった。少しためらってから、付け加える。
「物事にはすべて出会うべき時期がある」
だめだ、突き放される。
僕は焦って苛立った。なおも叫ぼうとして息を吸い込む。
そのとたん、ちらっと視線を走らせた春日が、ふいに僕の前に『グラン・ブルー』を広げた。ページがあらかじめわかってでもいたような、迷いのない仕草で、真ん中あたりの、全面真っ青のページを開いて、僕の顔の前にたてる。
写真は、かなりの低空から撮った海面のアップだった。波が白くうねる、そのうねりの一つ一つが実際に動いて僕を呑み込むような気がした。
ひうっ、と無意識に喉が鳴った。めまいと吐き気、突き刺さるような頭痛が襲ってきた。死ぬ、と感じた。
俺は死ぬんだ。
目の前で、周囲の情景がスライドした。高校の図書室の代わりに、あの海辺の山門が、春日の代わりに僧が、そして僕の代わりにあの武士が入れ替わる。武士の姿が寸分の狂いもなく自分に重なった瞬間、僕は追われて海へ落ちて行く自分を感じた。
悲鳴が喉をついた。力が抜ける足が体の重さを支え切れずに、へたへたとその場に座り込んでしまう。
次の瞬間、思わぬがっしりとした腕に体が支えられていた。
「昔から、君はそうだ」
耳元で、静かな、なだめるような声がそっと囁いた。
「自分に都合のいい結論ばかりを早急に得ようとする」
昔、から?
真っ暗になっていた目の前が、少しずつ明るくなっていく。いつの間に本を置いてカウンターを回って来ていたのか、春日が僕の体を抱えるように腕を回していた。
「大丈夫? どうしたの?」
ぼんやりと、視界に心配そうにのぞき込んでいる司書の高村先生が入って来た。何か答えなくてはと思ったけれど、冷たい汗がつるつると体を流れていくばかりで、声にならない。
「貧血みたいです。ぼく、保健室に連れていってきます。クラスメートなんです」
のうのうとした春日の声が応じた。
「そう、それじゃ、お願いね、春日君」
「はい。そうだ、妹尾君の状態によっては一緒に帰ろうと思うんですが、当番の方、抜けてもかまいませんか」
「ええ、大丈夫」
おまえになんか世話になりたくない、そう言いたかったが、体に力が入らなかった。視界はぼんやりしたままで、気を抜くとすぐに意識を失ってしまいそうになる。
「後で鞄、取りに来ます。ああ、その本の手続き、済んでますから」
「片付けておくわ」
「お願いします。いくよ、妹尾君」
ぐい、と細い体のどこにそんな力があるのか、春日は僕の脇に深く体を入れて支え直した。そのまま、半分ひきずるように、僕を連れ出して行く。
「何が……貧血…」
うめくと、春日は冷ややかに、
「海の写真を見せたら、悲鳴を上げてぶっ倒れました、と言った方がわかりやすいのか?」
「くそ…」
春日の肩なんか借りずに、一人で歩こうとしてみたが、両足はスポンジのようになっていて、何度力を入れ直してもどこからか抜けていき、まったく体を支えられなかった。それでもしつこく力を入れようとする僕の意固地さに呆れたのか、春日はため息をもらした。
「そんなに歩きたいなら試してみてくれ。階段だからね、力を貸すよ」
低い声で囁く。
言われるまでもなく足を動かそうとすると、不思議なことに今度は何とか体を支えられた。
「あと、五段、四、三、二、一。はい、終わりだよ」
子どもにするみたいに数え上げられて、いい加減にしろと体を起こそうとしたとたん、足がまたぶらぶらになってしまい、僕は混乱した。
「なんで…」
「せっかちなことをするからだ」
春日がどこか優しい声で言った。
「まだ独りでは動けないよ。ほら、保健室。…すみません!」
「はあい、あら、春日君」
保健室の城山先生の声がまんざら意外そうでもなく僕達を迎える。
「妹尾が貧血起こしたみたいなんで、休ませてやっていいですか」
「どうぞ」
くすくす、と城山先生は笑った。
「春日君は、よくここへ病人を運び込んでくるわねえ」
からかうように続ける。
「どうしてなんでしょうか、そういうのになぜかよくぶつかって」
春日が曖昧に話を逸らせる。まだ唇を噛んだまま冷や汗を流している僕を、春日はベッドに寝かせた。




