2
あれは、どこで聞いた声だろう。
リカと待ち合わせた店で、先に注文したアイスコーヒーを吸い上げながら、僕は考え込んでいた。
朝、母さんのことばに重なって聞こえた声。
そう、確かにどこかで聞いている、あのフレーズ。
絶対おまえを這いつくばらせてやる。絶対おまえが間違っていると証明してみせる。おまえのことばは正しくない、正しくなんかないんだ、たとえどんなことを話そうとも。
「ああ」
僕は気がついた。あれは、いつかの夜、父さん相手に話していたときのことだ。
受験前で志望校が決まっていなかった。夏休みで、クーラーが壊れていて、それでなくても蒸せるように暑苦しい家の中だった。
父さんはやっぱり仕事が遅くて、それでも僕は話したくて、帰るのをずっと待っていた。
遅い夕食だった。母さんの出したビールがコップに水滴をつけていた。
あのとき、僕が何をしたかったのか、今はもう思い出せない。けれど、確かに何かしてみたいことがあって、それは僕にとってとても大事なことだった、というのは覚えている。僕は、それがどれほど僕をわくわくさせ、慰め、元気にしてくれるものかを、冷えた麦茶が温くなるまでまくしたてたはずだった。
「やれるのか」
父さんが新聞をじっと見たままつぶやいて、僕は主張が通ったのだと思った。
たとえ、新聞を読みながらにせよ、父さんが僕のやりたいことを聞いていてくれたこと、それに反応してくれたこともうれしかった。未来がふいに間近に感じられ、夢がこの手につかめるような気がした。
やれる、そうだ、僕はがんばれる。
ほかの道はだめかもしれないけど、この方向なら歩いて行ける頑張れる、そう言おうとした。
「お父さん、僕」
「けど、なあ、和樹、おまえは知らないんだ」
唐突に、僕が答える前に、父さんは続けた。
仕事というものがどれほどつまらなく、退屈で苦しく、ストレスのかかるものなのか。
社会というものがどれほどわけがわからない理屈で満ちていて、どんなに多くの大人達ががんじがらめになっているのか。
お金を稼ぐということが、どれほど重要なことで、それが整わなければ何一つ好きなこともできないし楽しむこともできない。もちろん、家庭だってぎくしゃくしてくる。
つまりは、十分なお金を稼げる会社に入るなり、手に職をつけるなりしないと、人生は何一つうまくいかない。そして、僕の話している仕事は、とてもそんなお金を稼げるような類ではない。
「でもさ」
僕は反論した。
「プロだっているじゃない」
彼らはどうなるのさ、と。
「『才能』があったんだ」
父さんは事もなげに応じた。
彼らには『才能』があった。そういうものは生まれついてのもので、後々どうこうできるもんじゃない。ましてや、努力とか運で補えるものでもない。けれど、おまえには『才能』がない。それは認めなくては、と。
「どうしてわかるの?」
僕は混乱しながら言った。
「やってもいないのに、どうして『だめ』だってわかるのさ」
父さんは疲れたため息をついて、なだめるように話した。
彼らは『特別』で、おまえは『特別』じゃない。それはもう、わかりきったことだ。だから、努力が結果に結びつく仕事を選んだ方がいいのだ、と。
「それならお父さんはうまくいってるの?」
僕は尋ねた。
「だって、今の仕事は楽しくないし、ストレスだらけなんでしょう? えも、今してるのは、何かに必要な、十分なお金を稼ぐための仕事なんでしょう?」
父さんは新聞に目を落とすふりをして、僕の目を避けた。コップをいらだたしそうにつかんで、ビールを一息に飲み干す。
僕はその父さんの視線をもう一度とらえようとして、相手を覗き込んだ。
「じゃあ、お父さんのしたいことって何?」
「子どものくせに!」
父さんはいきなり叫んで、コップを放り出すようにテーブルに置いた。
白い顔が真っ赤になっていた。
「子どものくせに! 何にもわかってないくせに! 偉そうに! 生意気そうに! 親に意見する気なのか!」
コップを投げられそうな気がしてとっさに体を引いたものの、僕は戸惑った。
父さんは怒り狂っているけど、自分の何がそこまで父さんを怒らせたのかわからなかった。一瞬体を引いた僕に、父さんの顔が満足そうな色を浮かべた気がして、僕はむっとした。力で押し切られるのは嫌だった。
「子どものくせにって、僕の進路だよ! 僕が何をするか、だよ?!」
必死に思いついた反論を叫ぶ。
「子供のくせに意見なんかするんじゃない!」
父さんはいきりたったまま、目をぎらぎらさせて繰り返した。
怖かった。何も言わなければ、このままずっと、父さんの言うとおりにしか生きられないような気がした。
僕は震え出す体に力を込めた。
「じゃあ、いつまで黙って言いなりになってればいいのさ!」
僕は、その後父さんが急に立ち上がった、ということしか覚えていない。
気がつくと、椅子から転がり、しりもちをつくように後ろに倒れて座り込んでいた。右の頬がじんじんして熱くて、みるみる腫れ上がってくる。平手打ちを食らったのだ、とわかった。
母さんがうろたえたように飛んできて、それでも父さんも見ず、僕とも目を合わせず、無言のままで冷蔵庫から保冷剤を出した。
父さんは仁王立ちで震えて立っていた。それはもう父さんでさえないような気がした。
僕は思い出して体中が固くなるのを感じた。
そのまま何も話さずに部屋へ引き上げた父さん、無言でタオルに巻いた保冷剤を渡してさっさと洗い物を始めた母さん、都おばあちゃんは聞こえているだろうにふすまの向こうから出てくる気配もなく、僕はそこに一人で残された。
自分にはどこにも味方はいないのだと思い知らされた。
そのときの父さんの睨みつけるような目が、怒りを吹き出しながら立っていた体が、今朝の母さんと同じことばを叫んでいたのだ。
おまえのことばは正しくない。正しくないんだ、たとえ何を話そうと。
そうか。
僕は乾いた喉にもう一度アイスコーヒーを飲み込んだ。
あの二人は、結局同じことを僕に言ってるんだ。
お前を永遠に支配下に置く。お前は私達のもの、お前がお前であることなんて認めない。
それが『親』の本音なんだろうか。
じゃあ、『子ども』の人生って、僕が生きてるのって、一体何のためなんだ?
ふいと手元に影が落ちて、僕は我に返った。
「ごめーん、遅れちゃった」
リカのはしゃいだ声が降ってきた。目を上げようとして、テーブルに置かれた細いリカの手首に巻かれている時計に気がつく。
ベビーG。絡みつくくすんだ黒い蛇みたい。そして、その時計を巻いた奴の顔も重なって。
「何か頼んだ?」
僕の動揺にリカは気づきもしなかった。
「…これから」
「映画に持ってこうね、何がいい?」
座らないですぐにカウンターの方へ行こうとするリカを振り仰ぐ。
小花を散らしたワンピースに黒レースのサマーニット、明るめに染めた髪の毛が日を透かしてライトブラウンに光って見える。華奢で脆そうできれいな後ろ姿に、立たないままで声をかけた。
「リカ」
「ん?」
さらさらと髪を揺らしてリカは振り返った。回りの男がつい目をやる、無邪気な可愛らしい微笑。
「そのベビーG,どうしたの?」




