印箱は、誰の机へ帰ったのですか
北方第三見張り小屋の炉は、夜明け前になっても消えていなかった。
薪束十のうち二束はもう半分になり、乾燥肉は交代兵二人の手に渡っている。薬草酒の瓶は凍傷棚に並び、レオ・マイヤーは帰還靴へ薄く靴油を塗っていた。
「これで、今朝は歩いて戻れます」
レオが言うと、彼の父である老兵は、受領札の控えを胸に押し当てた。
エレノアは小さく頷いた。
「第三見張り小屋分は、生活到達を確認しました」
そこで帳簿を閉じることはできた。
けれど受領札の裏に写っていた文字は、まだ乾いていない。
北方第一見張り小屋、薪未受領。
北方第二見張り小屋、乾燥肉未受領。
西尾根狼煙台、薬草酒未受領。
凍河橋番所、靴油未受領。
そして、その下にもう一行。
公爵家印箱、返却先――リオネル・ローゼン私室。
ユアンが眉を寄せた。
「印箱まで、ローゼン家に?」
「印が押された場所ではありません」
エレノアは、受領札の裏写りへ青い鉛筆で線を引いた。
「印箱が帰った机を確認します」
◇
王子府式典倉庫の控室に戻ると、書記官は待ち構えていたように台帳を開いた。
「公爵家印箱については、返却記録があります。これ以上の照合は公爵家の名誉を損ねるだけです」
彼は、勝ち誇った顔で一枚の控えを差し出した。
公爵家印箱、式典準備確認後返却済み。
返却先、リオネル・ローゼン私室。
受取欄、代理受領。
「ご覧の通り、箱は戻っています」
その言葉に、ミリアが胸元の薔薇を握った。
「兄は……私に、印箱も手続きも済んでいると言いました。公爵家も、王子府も、全部確認済みだと」
「箱が戻ったことと、本人が読んだことは別です」
エレノアは、控えを机に置いた。
「薪が倉庫を出ただけでは夜番を温めなかったように、印箱が机へ戻っただけでは本人確認になりません」
「しかし、印影は本物です」
「本物の印であれば、なおさらです」
エレノアは紙を三列に折った。
一列目、箱の帰着。
二列目、中身の確認。
三列目、生活影響。
「印箱がどの机へ帰ったか。誰が開け、中身を数えたか。誰が、押された書類を読んだか。そして、その書類でどの薪、どの乾燥肉、どの薬草酒、どの靴油が止まったか」
書記官の顔がこわばる。
「そこまで調べる必要はありません。返却済みです」
「返却済みとは、閉じてよいという意味ではありません」
エレノアは、静かに言った。
「そこから、誰が確認するべきだったかが始まります」
ユアンが、北方第三見張り小屋の受領札を横に置いた。
レオ・マイヤー、本人受領。
交代兵二名、乾燥肉受領。
凍傷棚、薬草酒六瓶確認。
帰還靴棚、靴油三壺確認。
その隣に、王子府の控えを置く。
公爵家印箱、返却済み。
受取欄、代理受領。
生活影響明細、添付なし。
二つの紙の差は、誰の目にも明らかだった。
片方には、人の名と温まった炉がある。
もう片方には、机の名しかない。
「机は、薬草酒を飲みません」
エレノアは言った。
「机は、靴を履いて帰りません。机は、父の声にも、リオネル様の声にも、ミリア様の同意にもなりません」
ミリアが息を呑んだ。
「私の、同意にも……」
「はい。兄上の机へ箱が戻ったことを、あなたが生活影響を読んだ証にはしません」
その瞬間、ミリアの手から薔薇の飾りが落ちた。
◇
財務卿の書記官が、急ぎの命令書を書き始めた。
「公爵家印影付き転用承認は、本人確認および生活影響明細添付まで完了証明に使用停止。王子府式典倉庫、ローゼン装飾商会、公爵家印箱管理控えを照合。北方未受領分は、現物到達を優先」
「勝手に止めるな!」
王子府書記官が叫ぶ。
「式典準備が遅れる! 王子殿下の夜会に必要な薔薇が――」
「夜会の薔薇より、凍河橋番所の靴油が先です」
ユアンの声は低かった。
エレノアは命令書の余白に、さらに一行を加えた。
印箱返却先は、責任の終点ではなく確認の始点。
老兵が、その文を見て深く頷いた。
「倅の受領札と同じだ。帰ったと書く前に、本人が帰ったかを見る」
「はい」
エレノアは青い保留札を、父の印影の写しへ置いた。
「お父様を守るためだけの札ではありません。罪にするための札でもありません。本人の声が届くまで、この印を誰かの盾にも刃にもさせないための札です」
見物していた令嬢の一人が、小さく呟いた。
「家名も、名前で帰るまで閉じないのですね」
「家名ほど、閉じる前に人の声が必要です」
エレノアは答えた。
その時、倉庫奥から戻ってきた財務卿の下役が、細い箱を抱えていた。
「リオネル・ローゼン私室の机から、返却控えの束が出ました」
箱は空だった。
けれど底には、白紙の明細が何枚も貼りついている。
北方第一見張り小屋。
北方第二見張り小屋。
西尾根狼煙台。
凍河橋番所。
どの紙にも、生活影響欄は空白のままだった。
エレノアは、その白さを見つめた。
印箱は戻っていた。
けれど、戻っていない夜の数だけ、机の中には白紙の明細が残っている。
「次は、押された印ではなく」
彼女は、空白の一枚へ青い札を置いた。
「押されなかった生活影響欄を読みます」




