北方使節席の消灯予定は、返書を読む指先を凍らせません
晩餐会場には、まだ客の声がなかった。
あるのは、磨かれた銀皿と、背の高い燭台と、席札を置くたびに布の上で鳴る小さな紙音だけだった。
エレノアが足を止めたのは、聖女席の背後で試し焚きされている暖炉屏風の前ではない。その向かい、北方使節席の足元に置かれた、薄い木札の前だった。
「乾杯前、消灯予定」
札には、そう書かれていた。
北方通訳の青年が、返書筒を胸に抱えたまま指を縮める。筒口の封蝋には、細いひびが一本入っていた。
「……この温度では、封を割らずに読めません。指も、字を追う前に動かなくなります」
彼は震える指で、席札の余白に自分の名を書いた。アレン・フォード。北方語返書読了補佐。
王子府の式典係が眉を上げる。
「聖女席の後光演出を優先するための均整です。北方席は外套をお預かりし、暖具は乾杯後に戻します」
「均整、ですか」
エレノアは税帳を開いた。
暖具費の行には、同じ言葉が二度出ていた。ひとつは「聖女席背面演出用暖炉」。もうひとつは「北方使節席防寒用暖具」。
「同じ暖具費でも、格が違います。こちらは背中を飾る火、こちらは返書を読む指を守る火です。飾る火で、読む指を冷やすことはできません」
給仕長のマーサが、屏風の端に手をかけた。
「では、聖女席の火を半歩こちらへ逃がします。後光は少し弱くなりますが、北方席の足元に熱が落ちます」
式典係が口を開く前に、ミリアが席から立った。まだ座ってもいない聖女候補の椅子の前で、彼女は小さく息を吸う。
「私の背中を暖めるために、返書を冷やさないでください」
その一行だけで、会場の空気が変わった。
エレノアは、北方席の備品札を三つに分ける。
指温石は、演出用余剰暖具ではない。返書読了条件。
蝋割れ防止布は、飾り布ではない。封を壊さず読むための保全具。
小炭盆は、乾杯前消灯予定ではない。読了時刻まで保留。
「濡れ外套掛けも戻してください。読む人は、読み終えたあと帰ります。帰路まで冷やす席を、外交席とは呼びません」
アレンが、指温石を両手で包んだ。赤みの戻った指で、彼は返書筒の封蝋を確かめる。
「読めます。……北方第三見張り小屋からの返書、読了を始めます」
マーサは暖炉屏風を一枚ずらし、足元に小炭盆を置いた。濡れ外套掛けには、北方の毛織り外套が一着、滴を落としながら掛け直される。
エレノアは消灯予定表の写し番号を見た。
枝番号二十七。
北方返書便の控えで、王子府側がすでに「返答不要」と押していた番号と、同じ枝だった。
「読む場所を冷やすことまで、返答不要の手続きに含めていたのですね」
会場の火は、少し弱くなった。
けれど、返書を読む指は、もう凍えていなかった。




