断罪より先に、帳簿を開きます
「エレノア・ヴァイス! 今この場で、君との婚約を破棄する!」
卒業舞踏会の楽団が、最後の一音を外した。
大広間の視線が一斉に私へ集まる。赤い絨毯の先には、第一王子レオン殿下。隣には涙を浮かべた聖女マリア様。
予定通りだった。
「君は聖女を虐げ、民から税を搾り取り、己の贅沢のために領地を疲弊させた。悪役令嬢の名にふさわしい所業だ!」
悪役令嬢。
その響きに、周囲の令嬢たちが息をのむ。
私は扇を閉じ、静かに礼をした。
「承知いたしました。では、婚約破棄の前に一点だけ確認を」
「言い訳か」
「いいえ。帳簿です」
侍女が銀盆に載せて運んできたのは、三冊の分厚い税帳だった。会場がざわめく。舞踏会に帳簿を持ち込む令嬢など、確かに品がない。けれど、断罪の場に涙だけで来るほど私は暇ではなかった。
「これはヴァイス領の過去三年分の収支、王都救貧院への寄付、聖女基金への納付記録です。殿下は私が民を苦しめたと仰いましたね」
「そうだ」
「では、どの項目ですか」
レオン殿下の眉が動いた。
「項目?」
「はい。税率、徴収日、免除対象、備蓄放出、医療費補助、孤児院支援。民を苦しめたというなら、数字で示せるはずです」
私は一冊目を開いた。
紙面に並ぶ数字は、私にとって剣より馴染んだ武器だ。飢饉の年、父が倒れた年、王都から追加徴税が来た年。泣きながら削った予算も、夜明けまで組み替えた救済策も、すべてここに残っている。
「まず、昨年の小麦税。王家通達では一割増でしたが、ヴァイス領では領主負担で据え置きました。差額は私の宝飾費から充当。次に聖女基金。納付額は規定の二倍。しかし王都救貧院へ届いた額は、記録上その三割」
マリア様の肩が跳ねた。
「聖女基金の管理責任者は、殿下の側近であるラザール侯爵子息ですね」
「そ、それは手続き上の遅れで」
私は二冊目を開く。
「遅れにしては、同日に侯爵家の馬車購入費が増えています。金額も一致します」
ざわめきが、波から嵐へ変わった。
殿下の顔色が赤から白へ落ちていく。
「さらに、私が聖女様を虐げたという件。こちらは聖女様から当家へ請求されたドレス代、宝石代、護衛費です。合計は救貧院の冬支度費の四倍。私は支払いを拒みました。理由は、基金規約に私的装飾費が含まれないためです」
「うそ……」と誰かが言った。
嘘なら、どれほど楽だっただろう。
レオン殿下は剣に手をかけた。
「黙れ! 数字で人の心は測れない!」
「測れません。ですが、横領は測れます」
その瞬間、大広間の扉が開いた。
王国監査院の紺色の制服が、列をなして入ってくる。先頭の老監査官は私に一礼し、殿下へ向き直った。
「エレノア嬢より三日前に告発状を受理しております。第一王子派閥の聖女基金流用について、関係者の同行を願います」
舞踏会は終わった。
私の恋も、たぶん終わった。
けれど私は、泣かなかった。
帳簿を閉じる音が、断罪の鐘よりずっと清々しく響いたから。
監査官に連れていかれるラザール子息が、私を睨みつけた。
「女のくせに帳簿など振り回して、可愛げがない」
「横領する男性よりは、領民に好かれます」
言い返すと、近くにいた下級貴族の令嬢が小さく吹き出した。そこから笑いは広がらず、代わりに別のものが広がった。安堵だ。誰もが薄々知っていた不正を、ようやく口にしてよい空気。
マリア様は涙を拭いながら後ずさる。
「私は、ただ皆が喜ぶと思って……」
「喜ばせるためのお金が、誰の食卓から消えたか。次はそこを学んでください」
厳しすぎる言葉かもしれない。けれど、飢えた子どもに出す粥を削って買った宝石に、優しい名前をつけることはできない。
老監査官が殿下へ令状を示した。
王子は最後まで私を見なかった。
それでいい。
もう、見てもらうために数字を整える必要はない。
舞踏会の窓の外では、夜明け前の星が白み始めていた。
私は税帳を抱え直す。
明日から忙しくなる。領地へ戻り、凍った水車を直し、救貧院の冬支度を間に合わせなければ。
婚約者はいなくなった。
けれど、守るべき民は残っている。




