6話 機械は誰かと未来を紡いでいくことを決めた(終)
未来を変える一歩を踏み出す少年と少女の物語
4月 午前10時21分
株式会社機巧のメインラボで、紙の束が散らばった。
「なんでだ! あの子は危険物なんかじゃないのに……!」
黒石真琴は、デスクに両手をついた。
「捜査だと? 研究中止まで指示しておいて、ただの捜査で済むわけがないだろう!」
怒りに任せて大きな独り言を吐いたものの、返事をする者はいない。
床には、試作段階のヒューマノイドの設計図や研究記録が散乱していた。
黒石はそれらを拾おうともせず、両手で頭を掻きむしった。
「先生……?」
別室の扉から、灰色の髪をした少女が顔を覗かせた。
「澪……!」
黒石は慌てて椅子から立ち上がり、平静を取り繕った。
「ごめんね。怖がらせたか」
「ううん……」
澪は首を横に振り、メインラボへ入ってきた。
「あのね、テレビの人たちがね、先生のこと話してた」
「僕のことを?」
「捜査令状が出てるって……もう研究は終わりだって」
黒石の顔から、わずかに血の気が引いた。目線に合わせるようにしゃがみ込むと、彼は澪の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫。澪が心配することは何もないよ。さぁ、こっちへ」
黒石は澪を抱き上げ、別室の扉へと小走りで向かった。
建物の外からは、複数の足音が近づいていた。
黒石は、澪を抱く腕に力を込めた。
〇 〇 〇
4月 午前10時14分
機巧の駐車場に、黒塗りのセダンが停まった。
中から降りてきたのは、紺色のスーツを着た中年の男性捜査官だった。彼は銀色のアタッシュケースを手に、待っていた女性研究員の元へ近づいた。
「立会人は君か?」
「はい……あの」
「早くしろ。裁判所からはすでに令状が出ているんだ。いるのだろう?」
捜査官は女性研究員に目も合わせずに言った。
女性研究員は小さく身を強張らせ、抱えていた黒い合皮のバインダーを胸許へ強く押し付けた。その手で、無意味にカードキーを強く握りしめた。
「……黒石先生は、何も悪いことなんてしていません!」
「それを判断するのはあなたじゃない」
女性研究員は下唇を噛みながら、何もないまっさらの地面へ顔を落とし、捜査官を上目遣いにじっと見つめ返した。
それでも、やがて覚悟を決めたように瞼を一度だけ閉じ、また開いた。
「分かりました」
建物の入口へ2人が向かおうとした時、研究施設の通用口の方から、若い男の声が響いた。
〇 〇 〇
4月 午前10時11分
丸眼鏡の男は、機巧の通用口の前に立っていた。
扉の横にあるカウンターで、カードキーを返し忘れたことを伝えると、警備員は微笑みを崩さずに整った指先でキーボードに触れた。
何もない空間に、陽炎のような青い光の幕が立ち上った。光は四角く固まり、文字を映し出すモニターとなって、警備員の顔を妖しく照らした。
警備員はそれに検索をかけて何かを確認すると、小さく頷いた。
「確認できました。カードキーをお預かりします。お疲れ様でした」
丸眼鏡の男がカードキーを渡そうとした、その時だった。
機巧の敷地内にある駐車場の方角から、微かな話し声が聞こえた。
見ると、紺色のスーツを着た中年の男が、そこで待っていた様子の女性研究員の元へ近づいていた。
「もしかして……」
「カードキーをお預かり――」
「あ、これ! まだ使える?」
「退職から24時間が経過していますので、アクセス権限は破棄されています」
「もう1回、権限を有効にできないか?! 中に入りたいんだ!」
「申し訳ありません。退職者のアクセス権限の再有効化は、規定により不可になっています」
「そこをなんとか!!」
丸眼鏡の男は、カウンター越しに身を乗り出して警備員に訴えかけた。
「申し訳ありません。退職者のアクセス権限の再有効化は、規定により……」
丸眼鏡の男は食い下がったものの、警備員の態度は変わらなかった。
警備員に背を向けると、丸眼鏡の男は舌打ちをこらえ、駐車場へと走り出した。
「あの!!」
2人の男女は、咄嗟に振り返った。
「誰だ、君は」
丸眼鏡の男は、手の中にある薄いプラスチックのカードキーを強く握り、はっきりと言った。
「昨日、機巧を辞めた研究員です。……捜査、ですよね? 僕も同行させてください」
「知り合いか?」
捜査官は、首を前へと突き出すようにして女性研究員を見下ろした。
「いえ……研究員は数が多いですから」
女性研究員はそう答えながら、白衣の胸ポケットから薄い長方形の端末を取り出して耳に当てた。
「部外者には関係のないことだ。帰れ」
女性研究員に指差しで『急げ』と示す捜査官に、丸眼鏡の男は左足を一歩、前に踏み出した。
「僕は! 黒石さんの部下じゃありません……けれど、彼の研究を誰よりも知っている自信があります。だから、彼が試作した新しいヒューマノイドが本当に危険なのか、知りたいんです!」
胸の奥に押し込めていた本心が、砕けたガラスの破片とともに、白昼へと降り注いだ。
数メートル先で丸眼鏡の男の言葉を聞いていた捜査官の眉間が、一瞬だけぴくりと動いた。
電話を終えた女性研究員は、捜査官の肩を軽く叩き、端末の画面を見せた。
「……なんだ」
「人事に確認しました。確かに昨日、退職者が1人います。その……立会人として同行させるのも駄目でしょうか?」
捜査官は、しばらく無言で丸眼鏡の男を見つめた。
丸眼鏡の男の顔から服装まで、探りを入れるように視線を走らせてから口を開いた。
「邪魔をしたら追い出す。余計なことはするな」
捜査官を挟んで、女性研究員は丸眼鏡の男と目を合わせ、軽く会釈をした。
丸眼鏡の男も、ほっとしたように頷き返した。
女性研究員を先頭に、3人は研究施設の中へ入っていった。
〇 〇 〇
4月 午前10時24分
別室の扉の前に立つと、黒石は認証端末へ顔をかざした。
白い扉が音もなく横へスライドした。
「先生……」
腕の中の澪が、ぽつりと声を漏らした。
「うん? どうした、澪」
「どうして私を作ったの?」
唐突な質問に、黒石は足を止めた。
黒石は澪を子ども用ベッドへ降ろし、膝が窮屈そうに曲がるのも構わず、隣に腰を落とした。
「……どうして、そんなことを?」
「先生は、私に何回も絵本を読んでくれた。けど、私を作ってどうしたかったの?」
子どもの姿をした澪からの問いに、黒石は言葉を詰まらせた。彼は澪と目線を合わせて答えた。
「僕は――君自身で考えてほしいと思ったんだ」
「考える? それってどういう――」
――ピッ。
隣のメインラボから電子音が響いた。扉のロックが解除されたのだ。
しかしそこには、誰の姿もいなかった。
「嘘を教えたな?」
捜査官は、苛立ちを隠さずに低い声で問い詰めた。
「いいえ! ここは確かに黒石先生のラボです!」
女性研究員は、必死に言葉を重ねた。
捜査官は舌打ちをしながら周囲を見渡した。
部屋はメインラボの他に、4つあるようだった。
「どの部屋だ」
「そこまでは私も……」
捜査官はまた舌打ちをし、手近な扉を1つずつ開けていった。
彼らの声は、ベッドの上で静かに座る澪と黒石の耳まで届いていた。
最初の部屋には、小さな丸テーブルと椅子、アナログのカードゲームなどのおもちゃが置かれていた。
2つ目の部屋は、床に計測用のラインが引かれ、壁や天井にいくつものセンサーが設置されていた。
3つ目の部屋は、数値やグラフを映す複数のモニターが並び、澪の活動記録らしきデータが表示されていた。
どの部屋にも、黒石真琴の姿はない。
最後の扉に捜査官が手をかけた。
澪の肩が小さく跳ねた。
黒石も息を呑み、澪を守るように身体を抱き寄せた。
しかし、その扉だけはどうやっても開かなかった。
「開けろ」
「できません」
「なに?」
「そ、外からは黒石先生にしか開けられない仕様なんです! 顔認証が必要な部屋なので……」
女性研究員が細い人差し指を認証端末に向けて説明すると、捜査官は金属製の分厚い扉を3度叩いた。
鈍い音が室内に響いた。
「いるのは分かっている。いつまでも引き籠れると思っているのか」
返事はない。
「黒石先生……」
女性研究員が心配そうに扉の方を見つめた。
「応じない場合は、強制捜査――ラボへの物理破壊も視野に入れている」
黒石の鼓動が大きく跳ねた。
研究は、黒石にとって人生そのものと言っても過言ではない。
そして、澪はそれと同等かそれ以上に大切な存在であった。
説得に応じたのか、観念したのか、しばらくして扉が横へスライドした。
白衣を着た長身の男――黒石真琴が、捜査官たちの前に姿を現した。彼は少し猫背気味で背後のベッドを庇うように立ち、捜査官を睨みつけた。
「研究をなきものにする気なのは分かっている。この子は危険物などではない!」
「ならば説明しろ」
捜査官は、黒石を見据えて言った。
「……え?」
黒石は目を瞬かせた。
丸眼鏡の男と女性研究員も、驚いたように捜査官の背中を見つめていた。
「今、お前は『この子は危険物などではない』と言った。ならばそれを、我々や世論にも分かるように説明してみせろ。会見場くらい、こちらで用意してやる」
「研究を潰しに来たんじゃないのか……?」
額に指先を当て、深いため息を吐いてから捜査官は首を振った。
「俺は捜査をしにきた。その結果、社会に害を及ぼすと判断すれば、もちろん潰す。だが、お前の口から危険物ではないと聞いた以上、その根拠を確かめる必要がある。だから、説明しろ」
捜査官は黒石を見据えた。
「先生!」
捜査官の後ろにいた丸眼鏡の男が、思わず声を上げた。
「君は……?」
「あ……えっと、昨日までここで働いてた研究員です。僕! あんたの研究が好きで……じゃなくて、あんたが何を作ろうとしているのか、何を目指しているのか、ちゃんと知りたいんです!」
すると、薄暗い部屋の奥でじっとしていた澪が、ベッドからぱたぱたと降りた。
黒石の白衣の裾を掴み、その陰から顔だけを覗かせた。
不安げな灰色の瞳が、黒石を見上げたあと、彼の前に立つ3人へと向けられた。
黒石は目の前の少女の柔らかな頭をそっと撫でてから、捜査官へ目を移した。
「会見を開きます。場所は用意してくれるんですよね?」
「ああ。こちらで手配する」
「いやだよ!!!」
澪が声を張り上げた。
「私が社会によくないって思われたら、先生と会えなくなっちゃう!」
黒石を除いた3人の人間は一瞬、言葉を失った。
その声には、反応とは思えない、生々しい感情がこもっていた。
黒石は自嘲気味に笑い、白衣の大きなポケットから表紙の擦り切れた1冊の絵本を取り出した。彼は屈んで、優しく語りかけた。
「澪。僕はね、君を道具として作ったわけじゃない。けれど、既存のヒューマノイドが道具として社会に普及するきっかけを作ったのは僕だ」
黒石は絵本を澪に手渡し、続けた。
「だから、会見で君がどんな存在なのか、僕自身の言葉で説明する。……言い訳かもしれないけど、『ヒューマノイドは道具である』という考えを、少しずつでも変えたいんだ。それに、誤解をされて僕が逮捕なんかされたら、君はもちろん、この絵本を作ってくれた僕の友人にも会えなくなるからね」
「先生の友達?」
「うん。僕の研究を理解してくれる、数少ない人間だよ。落ち着いたら、一緒に彼の家へ行こう」
先ほどまで揺らいでいた澪の灰色の瞳が、みるみる煌めきだした。
「……うん、うん! 私も先生と一緒に、行きたい!」
澪は絵本を胸に抱き、何度も頷いた。
「約束だ」
黒石はそんな澪の頭をもう一度そっと撫でると、静かに微笑んだ。
澪の頭に置いた手を、黒石はしばらく離さなかった。
彼は内心でひとつの決断をした。
――この子を生み出した自分には責任がある。せめて、この子が自分の意思で歩いていける未来を守ろう。
2人のやり取りを前に、3人は互いに顔を見合わせた。
どうやら、すっかり置いてけぼりにされたらしい。
捜査官は小さく息を吐き、呆れたように、だけどどこか満足気に唇の肉を緩めた。
〇 〇 〇
4月 10時43分
高級住宅が整然と並ぶ郊外の一画に、散歩から戻ったミティックたちが姿を現した。
ミティックの実の父――ジェニは、妻へのお土産に買った大量の菓子を抱えていた。腕には、生花の花束もあった。どちらも茶色いクラフト紙袋に収まっていた。
「おかえりなさい」
預言者かのように縁側で彼らの帰りを待っていたフィデルは、姿を見つけると真っ先にジェニの元へと駆け寄った。
「ただいま。お土産を買ってきたよ」
「いい匂い……お菓子は居間でみんなで食べましょう」
「そうしたいんだけど、そろそろ2人を元いた時間に戻さないといけない」
少し背伸びして紙袋の中を覗き込んだフィデルは、残念そうに眉を下げた。
「もうなの……?」
「うん」
フィデルはすぐにミティックに目を留め、その隣で大人しく佇む少女を見た。
「私も一緒に行っていい? 家に魔法をかけ直すのは終わっているの」
「今生の別れをするわけじゃないよ。また会える」
「行きたいの。駄目?」
フィデルは小首を傾げながら紙袋を抱えるジェニの、己より幾分か太い二の腕をなぞった。これに限らず、ジェニはいつの頃からか、彼女のする何気ない所作に、どうしようもなく抗えなくなっていた。
「時間がないのだろう?」
実の息子に急かされ、夫婦は気恥ずかしそうに頬を赤らめた。
ジェニは少し慌てて、菓子と花束の入った紙袋を縁側に置いた。
それから4人は、古井戸のある神社へと向かった。
神社には、4人の他に誰もおらず、春風が境内の木々の間を静かに吹き抜けていった。
「……結局、何も思い出せなかった」
それまで一言も発さなかった澪が、古井戸の前で久方ぶりに口を開いた。
フィデルは単衣の裾を揺らし、何か言いたげに下駄の先で砂利を擦った。
ジェニはフィデルの隣から一歩前へ出ると、澪の背中越しに声をかけた。
「大丈夫」
俯いていた澪は、ゆっくりと顔を上げ、ジェニの方へ振り返った。
「……え?」
「過去の記憶は、取り戻せなかったかもしれない。でもね――」
ジェニは古井戸に近づき、底を覗き込んだ。
綺麗とは到底言えない水が溜まっていた。
「未来は、自分で選ぶことができる」
ミティックは鼻を鳴らし、スニーカーで砂利を軽く蹴った。
「未来が自分の思い通りになるとは限らないだろう」
「思い通りにする必要はない。ただ、自分で選ぶことが大事ってことだよ」
「何だそれは」
ジェニは、慈しむように澪とミティックを交互に見つめた。
「どの時代も歴史を変えるのは、英雄ではない。人々の一歩だよ」
ミティックは、不意に過去の出来事を脳裏に思い浮かべた。
確かに、歴史を変えるのは必ずしも英雄ではなかった。そんな懐かしささえ覚える遠い昔の記憶が、彼の内にはあった。
ミティックはほんの少しだけ目を伏せ、それ以上、反論することはなかった。
ジェニが古井戸へ手をかざすと、黄金色の光が底から溢れ出した。
「あ、そうだ。君たちにはまたこの中に落ちてもらうからね」
「「えっ」」
澪とミティックの声が重なった。
と同時に、ジェニが2人の腹を押した。
否――古井戸に突き落とした。
「この……クソじじいがああぁ……!!」
ミティックは恐らく、長い年月を生きてきた中で最も大きな声を上げた。
それでも、澪の身体を両腕でしっかりと抱きしめた。
一方、井戸の縁では、ジェニがいたずらっぽい笑みを浮かべて手を振っていた。
その隣では、いつの間にかフィデルも控えめに手を振っていた。
2人の姿は、あっという間に井戸の暗闇へと消えていった。
〇 〇 〇
10月 午前――。
神社の境内にあるベンチでいびきをかいていたホームレスの老人は、砂利を踏む音に目を覚ました。
身体にかけていた段ボールを退かして起き上がると、少年と少女が倒れていた。
「おいおい、大丈夫かい?」
ホームレスが2人の肩を揺すると、先に目を開けたのは少年――ミティックだった。
「うう……澪、無事か?」
「うん……大丈夫だよ」
「あんたら、平気か? 倒れてたけどよ」
ミティックは、老人を見上げた。彼は少々不機嫌だったこともあってか、適当に返した。
「……彼女と遊んでいて転んだだけだ。気にするな」
「そうかい? 気をつけろよ」
ホームレスはそれ以上、尋ねなかった。
段ボールを身体にかけ直し、再びベンチへ横になると、間もなくいびきが聞こえ始めた。
「行こう」
ミティックは立ち上がり、澪に手を差し伸べた。
境内を出る前に古井戸を一瞥したが、底には落ち葉と水があるだけだった。
参道の外では、道路を何台もの無人車が行き交っていた。
澪と並んで歩道を歩く途中、ミティックは赤信号の横断歩道の前で足を止めた。
商業ビルの巨大ディスプレイが目に入ったからだ。
――『黒石真琴氏、新型ヒューマノイドの商品化を発表 『結城澪』は非売品に』
黒石は国の捜査を受けたあと、会見で『結城澪』の安全性と詳細を説明したらしい。
澪を商品化しないことと、別のデザインのヒューマノイドを新たに商品化することも発表したようだった。
ニュースが切り替わった。
――『迷子? 『結城澪』の捜索は続く……』
ディスプレイには、灰色の髪の少女――澪の笑顔が映っていた。
会見直後には不安や反対の声も上がったが、黒石本人の説明や、周囲の人々の働きかけによって、世間の見方は少しずつ変わり始めていた。
『結城澪』に対する世間の見方は、少なくとも以前とは違っていた。
しかし、澪本人はまだそのことを知らない。
「澪ちゃーん!」
遠くから、少女の名前を呼ぶ声がした。
「はぁ……はぁ……なぜ俺がこんなことを……」
スーツを着た中年の男性捜査官は、少し走っただけで息を切らし、腰を曲げていた。
「体力なさ過ぎないですか……?」
「うるさい。こっちは仕事を抜けてわざわざ迷子探しに来てやったんだぞ……あ?」
捜査官は、道路の向こう側にいる2人の子どもらしき存在を捉えた。
ミティックと澪も捜査官に気づき、目が合った。信号はまだ赤だ。
澪は目を丸くした。
「……私、探されているの?」
「そうらしいな」
ミティックは短く答えた。
澪はディスプレイに映る自分の顔を見つめ、それから信号待ちをしている男女へ目を向けた。
「ミティック」
「なんだ」
「私、行くね」
澪は横断歩道の前へ一歩進んだ。信号は、まだ赤だった。
ミティックは何か言いかけた。
だが、澪の顔を見ると、その言葉を飲み込んだ。
「……そうか」
澪は頷いた。
「うん。散歩、楽しかったよ。カフェのサンドウィッチとジュース、美味しかった。あ!」
「どうした?」
「前に買ってもらった服、あなたのお父さんの家に置いてきちゃった……」
「あいつの自腹で、黒石とかいう研究員がいる施設に送らせるか」
「いいの? やったぁ!」
「そんなに嬉しいか? 記憶も戻っていないのだろう?」
「モヤモヤすることはまだあるよ。でも、買い物も、散歩も、ご飯を食べるのも楽しかった。本当だよ」
信号が青になった。
直後、横断歩道を渡って男女がこちらへ走ってきた。
澪も走りだし、紫色のペンダントを揺らしながら一度だけ振り返るとミティックに手を振った。
女性研究員が澪を迎え、捜査官も彼女の無事を確かめるように声をかけた。
澪は2人に囲まれながら、安心したように笑っていた。
ミティックは、その輪をしばらく眺めていた。
澪の姿が人波に隠れると、ミティックは歩き出した。
向かう先は、ジェニの家だ。
澪が置いていった服を、ジェニの金で郵送させなければならない。
住所は知らないが、魔法で覆われた建物を見つけることなど、ミティックには造作もなかった。
歩きながら、ミティックはまどろみに見た夢の言葉を思い出した。
『――俺にはそれが嘘に思えなかった』
かつて出会ったその騎士は、5人の人間を殺害したミティックの言葉を信じ、極刑に処すこともなく、何かと世話を焼いた。
その出会いは、ミティックの数ある記憶の中のひとつでありながら、他のものよりもほんの少しだけ色濃く残っていた。
ヒューマノイドの澪が自分の意思で歩き出したように、人の心もまた、他人には計り知れないものなのだろう。
たとえ未来が予測できたとしても、自分で選び、一歩を踏み出すことに意味があるのかもしれない。
ミティックはふと思い立ったように足を止めた。
それは、ジェニに頼めば済む簡単な話だった。
――自分で届けに行くのも、悪くはないか。
ミティックは変わらぬ歩幅で、再び前へと進み始めた。
【魔法使いの旅には人がつきもの】
最後まで読んでくださり、ありがとうございました
気が向いたときにでもブックマークや星(☆)で応援してやってください
※すごく喜びます!
【補足】
■結城澪
黒石真琴に制作された心を持つヒューマノイド 見た目は14歳くらい
株式会社機巧で黒石たちと暮らすことを選んだ
ミティックが魔法使いであることはまだ知らない
■ミティック
第一章と第五章の長命の魔法使い
かつては城下街の教会で居候をしながら薬師のような仕事で生計を立てていた
長命の魔法使いの中では中間程度の実力
趣味は読書、甘いものを食べる、睡眠
■ジェニ
ミティックの父親 長命の魔法使い 黒石真琴の友人
長命の魔法使いの中では上位の実力
フィデルのことが大好き 昔はフィデルの愛に苦戦していた
ミティックをモデルにした絵本を作って黒石に渡した張本人
趣味は甘いものを食べる、睡眠、絵を描く
■フィデル
ミティックの母親 長命の魔法使い
長命の魔法使いの中では上位の実力 趣味は植物の世話や庭の手入れ、読書
ジェニのことが大好き ジェニへのストーカー期間あり
■黒石真琴
澪を作った研究員 株式会社機巧で働いている
13歳で既存の自立型ヒューマノイドを一般企業や個人でも扱えるようにした
彼の特許は企業に採用され、製品化や社会インフラへの導入が進んだ 趣味はフリーゲームで遊ぶ
■丸眼鏡の男
株式会社機巧の元・研究員 黒石真琴のファン
派手なパーカーを着た男とは幼馴染
趣味はジグソーパズル
■派手なパーカーを着た男
配信を生業にしているインフルエンサーで投資家
丸眼鏡の男とは幼馴染 趣味は特にない
■若い女性研究員
株式会社機巧で働く研究員
趣味は販売できない刺激的な漫画を描く
■中年の男性捜査官
自律システム監理局で働く国家公務員
組織内では苦労をすることも多いらしい
趣味は昔のドラマや映画の鑑賞
■警備員
ヒューマノイドの女性警備員
最低限の会話しかしない
■ホームレスの老人
住所が古井戸の神社で登録されている失業者の男性
いつも寝ている 普段は河川敷で暮らしている




