第2章 イシスの影 3
「わたしは今日は、ズドラヴェイのマダムのお手伝いをする日なので、折角、お見え戴きましたのに何のお構いも出来ません」
リリアは申し訳が無さそうな表情で、皆に詫びた。
「ズドラヴェイに?それは丁度良かった。全てはルフィアが結んで呉れた縁なので、これから俺とサフィーネはズドラヴェイに顔を出す予定なんだ。ここからは近い場所だし、良かったらアレクセイ殿もリリアさんも俺達と一緒しませんか?」
「私も、ルフィアさんにはお世話に成ってばかりなので、丁度、御礼を言いたかったので、総督様が宜しければ、是非、ご一緒させて下さい」
アレクセイが帯同を申し出た。
「分かりました。リリアさんは?」
「わたしは従業員として出勤するだけなのに、皆様とご一緒しても良いのでしょうか?」
「勿論ですよ」
「そうですか?総督様とご一緒する機会なんて滅多に無いでしょうから、厚かましいみたいですが、どうか宜しくお願い致します」
そのリリアの言葉にマクシミヌスが頷いた時、サフィーネが提案した。
「リリアさんはこれから支度が有るでしょうから、ここの裏庭の花園を見学しませんか?今は薔薇の花の美しいですよ」
「ああ、リリアさんは薔薇の栽培にかけてはトラキア地方で随一の腕前だとか。是非、裏庭を見学させて下さい」
「まあ、総督様ったら、わたくしなんぞをお揶揄いに成なられて」
リリアはそう言って笑ったが、其れなりに嬉しそうな表情をしていた。
「裏庭の東屋にお飲み物をお持ちします。それは薔薇の花びらを煮詰めて得られた花液をお湯に垂らした香りが高い飲み物で、東方の漢と言う国では俗に薔薇茶と呼ばれているそうでございます」
「リリアさん、それは楽しみです。それでは遠慮無く頂戴します」
今度は、アレクセイが発言した。
今日は、漢の茶に縁が深い日だなと、マクシミヌスは苦笑した。
裏庭に回ると、マクシミヌスが想像した程の広さは無かったが、一面に真紅の薔薇が咲き誇っていた。
確かにこの裏庭は、日当たりも風通しも良さそうだった。
そう言えば、ズドラヴェイは店の至る所に薔薇の花瓶を飾っているが、それはルフィアがリリアさんから調達していたのだろう。
マクシミヌスは、その事に合点が行った。
「この裏庭は、リリアさんの研究用の花園で、ここに咲いている花は全て非売品ですよ」
「売り物の薔薇は、別の場所で栽培しているのか?」
「ええ、リリアさんは、ここの住宅地の外れに広い薔薇園をお持ちなのです。マクシミヌス様も花屋で薔薇を買われるより、リリアさんから直接、お求めに成られた方がお安く手に入りますよ」
「ははは、サフィーネは商売が上手だね。分かった。そうするとしよう」
マクシミヌスは、リリアの商売を助け様とするサフィーネの頭を、思わず撫でたく成ったが、それは辛うじて我慢した。
「この裏庭を薔薇園では無く花園と呼ぶのは、リリアさんの研究用に薔薇以外の花も栽培しているからなのです。わたくしがマクシミヌス様と叔父上を、先ずはここの奥に有る秘蔵の薔薇園からご案内しますね」
マクシミヌスとアレクセイは、サフィーネの後ろに着いて裏庭に入った。
そこには瑞々《みずみず》しい真紅の薔薇が一面に咲き誇るっていた。
「これだけ美しい大輪の薔薇を俺は初めて見たよ」
マクシミヌスとアレクセイは、異世界を思わせる風景に暫し見入った。
「リリアさんの秘蔵の裏庭は、ここだけじゃ無いのです」
サフィーネは、「こちらへどうぞ」と言って、マクシミヌス達を導いた。
大輪の紅薔薇が絨毯の様に咲いているその花園から、花園を仕切っている生垣の先の方に行くと、新たに4列の花壇が見えて来た。
その一番右側の花壇には、純白に輝く美しい白薔薇が規則正しく植えられていた。
「ほう、これは又、見事に美しい白薔薇だな」
マクシミヌスは感嘆の声を上げた。
「そうでしょう?リリアさんは紅薔薇は勿論だけど、寧ろ、白薔薇の栽培の方で有名なんですよ。白薔薇は高貴な方がお墓参りにお持ちに成りますから」
俺は戦争に明け暮れて来たから花屋になど行った事が無いが、そう言えば執事が母の墓参りに行く時、「何とか白薔薇を手に入れました」と言っていた事を思い出した。
当時の「マクシミヌス家」には未だ執事がいた。
マクシミヌスの父親がローマ帝国軍の北征大将軍に任命された関係で、マクシミヌスがトラキア地方の総督を継いだ頃、父親に帯同していた母親が、ローマで病を発症して没したのだった。
もうあれから何年に成るかな?
「俺は戦場でしか死なない」が口癖だったマクシミヌスの父親も、妻の後を追う様に、三年後に、あっけなくローマで同じく病に冒されこの世を去った。
結局、マクシミヌスの父親は、北征大将軍として出征する機会は一度も無かった。
その事もローマの元老院から、マクシミヌスが蔑まれる一因だった。
「その左側3列の花壇には、研究用に色々な種類の植物が植えられてるのです」
サフィーネが指差した花壇を眺めると、確かに30種類位の植物が栽培されていた。
そのうちの半分の植物は花を咲かせていたが、マクシミヌスが知っていたのは「ポピーの花」だけだった。
マクシミヌス達が、一通り花園の見学を終えた時、少し離れた場所でリリアの声がした。
「皆さ~ん、薔薇茶が入りましたよ」
「さあ、東屋に戻りましょう。わたくしはリリアさんから何度か薔薇茶を飲ませて貰いましたが、とても良い香りがしますから、楽しみにして下さい」
「おお、何て甘くて蕩ける様な香りなんだ!」
薔薇茶の香りを嗅いだマクシミヌスは、驚きの言葉を口にした。
薔薇茶の香りが鼻孔に染みて、天にも昇る様な気分に成ったからだった。
続いて、マクシミヌスは薔薇茶を口に含んだ。
ん?余り味がしないな。
味だけで言えば、ベリガウス殿の邸宅で飲んだ漢の茶の方が、圧倒的に旨かった。
薔薇茶はきっと、香りの方を楽しむ茶なのだろう。
折角、リリアが淹れて呉れた茶を残す訳にも行かないので、マクシミヌス少し無理をして全部飲み干した。
「さあ皆様、わたしの支度も終わりましたので、これから総督様とご一緒にズドラヴェイに向かいましょう」
リリアは、マクシミヌスと一緒にズドラヴェイに出勤するのが嬉しいのか、弾んだ声でそう言った。
「まあ、皆さんがお揃いで、ズドラヴェイにお見えに成るとは!」
ルフィアは笑顔でマクシミヌス達を出迎えた。
「マダム、わたしは早速、厨房で従業員の賄いを作りに行きます」
そう言って厨房に向かおうとしたリリアを、ルフィアは呼び止めた。
「リリアさん、今日は良いのよ。だって貴女はマクシミヌス総督の賓客の一人だから!ど~んと構えていて頂戴」
ルフィアはそう言うと、マクシミヌスの袖口を引っ張って、マクシミヌスを店の隅に連れて行った。
「どうやら、ベリガウス殿は婚約を了解して呉れたみたいね」
ルフィアは、早くもその事に気が付いていた。
「ああ、上首尾だったよ!今夜はそのお祝いで・・・」
「うちで飲んで呉れるのね?」
「ああ、勿論。だが、その後で彼らは帰して、この喜びをお前と同じ床で抱き合い乍ら、共に分かち合おうではないか!」
「ぼけ」
ルフィアは、マクシミヌスが知らないうちに、「馬鹿、あほ、間抜け、たわけ」に続く、新しい罵りの言葉を既に思い付いていたのだった。




