久一とナポレオン
気の向くままに書いた短編です。出逢う事のない、見ず知らずの誰かへ。ささやかな暇つぶしになれば、これ幸い。
雨が止んだら。
ポツリポツリと雫が屋根を打つ。それがざーざーと変わり、しとりしとりに変わり、霧雨になった頃。
久一は布団の中から漠然とした無気力を引き剥がして、枕元にあるタバコの箱を開けてみると一本も残っていなかった。浅黒く焼けた手で箱を握り潰し、少し離れた屑籠目掛けて投げた。
空箱は壁に跳ね返り、上手く屑籠に収まった。
久一はこの手のなんの役にも立たない自己満足的なことが得意だった。
道端に転がる石をひと蹴りして離れた電信柱にきっちりと当てたり、溝の中にいるザリガニに上から唾を吐いて命中させることができた。
晴天の霹靂に見舞われたザリガニは二つの鋏を久一に振り上げて威嚇した。もう一度唾を吐くとザリガニは勢いよく後方に移動した。忍者が使う煙幕のようにザリガニの姿は濁った水中のなかに紛れ込んでいった。
前身する時は警戒しながらゆっくりと前に進み、逃げる時は目のない後方へ勢いよく無警戒に移動する。後ろに仲間のザリガニがいたとしてもお構い無しだ。移動してきたザリガニに驚愕して又後退するザリガニが出来上がる。そしてザリガニ後退の果てなき連鎖が起こる。
ふざけた野郎だと久一はこの時思った。ザリガニは、なんだてめぇはと刃物をちらつかせる輩のように凄んで見せたものの、すぐにやっぱり怖いよ堪忍、堪忍と逃げていく無様な有様。はなから戦う意志などない、あわよくば相手がはったりを真に受けて逃げし出してもらえれば儲け物という風体。
情けない、鋏の持ち腐れだ。久一はザリガニの神経を疑った。ザリガニにも神経や気位くらいあるはずだ。恥だ。俺にだって恥や気位くらいあるはずなのに、と足下に転がる石を拾った。
そして濁った水中目掛けて石を投げた入れた。ぐしゃりと命中したような手応えがあった。
この手応えは本当に不思議で、手から石が離れた時点で当たったか外れてたかなんてわかるはずもないのだけれど、目で見ずとも感覚でわかってしまう。
今の感覚ではザリガニに傷を負わしただろうと。
しかしどちらが悪いと決めることはない。俺も悪いしお前も悪いのだ。どちらかが一方的に悪と決めつけるのはナンセンスではないか。
鳥が蛙を捕まえるのと変わりはしない。そこで鳥と蛙が出会ってしまった結果、捕食されたに過ぎない。と久一は心の中でザリガニに一方的で言い訳じみた語らいをして一目散にその場から離れた。
久一はそんな日々を送る男なのだ。非生産的であり、人生の頂である娯楽主義までは到底辿り着けてはいない。
なぜなら、娯楽とは、快楽をわきまえており、目的がしっかりとある。ギャンブルなら大金を得るか失うかの間に生じる緊張と緩和という精神状況および高揚と後悔のやりとり。女遊びも又おなじく表と裏の駆け引きがあり、酒も同じく人の表を裏返す為のツールに過ぎない。
しかし久一は溝のザリガニに石を投げたり、近所の野良猫を捕まえてから、自転車の前籠に入れて数十キロ離れた場所に解き放すことがなになる? そこに緊張と緩和など存在などしていない。
なぜそんなことしたと問い詰められれば、近所を餌付けの為にうろうろと歩く老婆が目障りだったと答えようとなどと考えながらペダルを漕ぐ久一。
これのどこが娯楽といえようか。本当の理由はあまりにも暇だったから、ふと野良猫が目にとまり、帰省本能があるのか試してやろうとしただけなのだ。帰って来れば猫の勝ち、姿を消したままならば久一の勝ち。猫にすればいい迷惑なのだが。結果どちらでも久一はよかった。
結果が全てだと世の中のサラリーマン達が上司に青筋を立てられながら粛々と説教をくらう理屈は久一には当てはまらず、結果よりも過程を大事にしなさいと教えた小学校の教師の言葉も久一には当てはまらなかった。
では、なぜこのような不毛とも思える行動に出るのか? それは久一自身も正確に捉えていなかった。自分のことなのにである。ただ、なんとなくである。ただなんとなく生きているのだ。ただなんとなくそんなことしてみたを積み上げて今に至る。
久一はそんな大人に知らぬまになっていた。気づきもしないままに。
雨が止み、傘を持たずにライターと小銭をポケットに突っ込んでサンダルを引き摺りながら久一は家を出た。
細い道のアスファルトがヌメヌメと黒く光っていた。久一から少し離れた路上の真ん中にいまだ傘をさした二人の女性が立ち話をしているのが見えた。片方の女性は犬を連れている。犬は服を着せられたフレンチブルドッグだ。犬は飼い主の井戸端会議など素知らぬ顔で地面にあるマンホールを凄い勢いで舐め回していた。飼い主は会話に夢中で注意もしない。まるで曇った鏡を必死で磨く使用人のように。
曇りが綺麗に落ちなければ厳しい家主から使用人は解雇されてしまうのだ。家には子供四人と歯の抜けた妻がいる。妻のお腹の中には新たな生命が宿っている。使用人は職を失う訳にはいかない。そこには並々ならぬ悲壮と哀願の混じった逃れようのない現実があった。
妻に仮歯を入れてやると約束した時のことが頭を過ぎる。寝入ろうとベッドに横になった妻は丸めた紙屑みたいなくしゃくしゃな笑顔をした。口元はきっちりと閉ざされていた。作りだされた不自然な笑みが寝室の薄明かりによって誇張され、使用人は仄かに恐ろしくなり妻に背を向ける。
「こっちを向いた方が今日は寝やすいようだ」
妻の返事はなかった。使用人はとぼとぼと闇の墓地を彷徨っているように思いながら眠りに落ちた。
夜中にふと使用人は目が覚めてしまった。隣で眠る妻の寝息が安堵を与えてくれる。大した人物でもない男に着いて来てくれる、感謝しても仕切れない。妻の可愛い寝顔を覗こうと、枕元にあるライトをつけて見る。
なんということだ。あろうことか妻の口がぽっかり開けていた。そこには闇があった。歯がないことによりいっそう大きな闇がこちらを覗いている。どこか違う場所に誘う入口。決して出口ではない入り口。
使用人は深淵と邂逅してしまったのだと身震いし後悔した。妻の寝顔なんて見るものではないと。しかし使用人は男だった。それ以外の感情も湧いたのだ。妻を揺り動かして起こし、強く抱きしめた。妻は寝ぼけながら「どうしたの?」と呟く。
「歯だ、歯を入れてやる。金ができたらすぐに歯を買おう」
妻の笑顔はそのときも紙屑を丸めたようなくしゃくしゃなものだった。
使用人が競馬に金を使い込み、妻に咎められ逆上して殴ったのがいけなかった。打ちどころが悪く妻の脆くなっていた前歯達は去っていった。これは仕方ないことだったと使用人は自身に言い聞かせた。顔ではなく腹を殴っていればよかったと同情したこともあったが、妻の腹には二人の愛の結晶が間借りしているので、やはり妻の前歯を犠牲にしたことの方が正しかったのだと思えた。
使用人の首に妻が手を回してから、小さく囁いた。
「ありがとう」
使用人は小刻みに頷きながら、妻に返す言葉を模索したが、最後まで見つからなかった。使用人はつくづく人生を呪った。
理不尽ではないか。なぜ妻が感謝するのだ。どうしてこうも貧しいのか。そもそもどうして使用人側なのだ。
隣の部屋には四人の子供が夢を見ている。望まれてやって来た。そうではない、二人の欲望の末に現れた天使達だ。
「そんなことにお金を使うくらいなら、この子達におもちゃの一つでも買ってやったらどうですか?」
妻がそう愚痴った後にはもう前歯は無くなっていた。
使用人は憤りと罪悪感と妻を腕に抱きながら明日からの仕事を真摯にこなそうと誓ってきつく目を閉じた。
翌日、職場に赴くと新たに購入されたアンティークの鏡台が届いていた。それはかなりの年代物らしく、鏡はなにも映さず曇って汚れていた。それでも高価な代物だと素人目にもわかる。主人からできる限り綺麗に磨き上げておいてくれと注文があった。使用人は曇った鏡と自身の心を重ね合わせた。
これは俺の心だ。今は曇りきっていてなにも映しだしはしないけれど、妻と会った頃は現実以上に美しい世界を映していたはずだ。もう一度あの世界を映しだそうではないか。今の俺にピッタリの仕事ではないか。
使用人が満足気に鏡面磨きに取り掛かろうとすると、主人が水を差した。
「おい、本当に綺麗に仕上げろよ。それと丁寧に扱ってくれ。もしもが有ればお前さんは首だ。お前さんの代わりはいくらでも用意できるんだ。しかしこの鏡台はそう簡単に手に入らない代物なんだ。わかっているのか? なんだその目は? お前さんが不当解雇だと騒いでも結果は金を払ってお終いさ。逆説的にいうなら金さえ払えば不当解雇も正当化されちまういい世の中ってこったなぁ。世間は不当だハラスメントだと騒ぎたがるが、金を払えばいいのだろ? 払ってやりますとも。あいにく私には金はあっても下げる頭に持ち合わせてがなくてねぇ。ところでなんの話だこれは。お前はとにかく鏡台を綺麗に仕上げればいいんだ」
主人は使用人の頭を叩いて、黒塗りの高級車が待つ玄関にゆっくりと向かった。使用人は先ほどまでの気力の充実を失っていた。主人のケツの穴を後ろから細い棒かなにかでズボンが貫通するくらいに突き刺してやりたいが、そんなことできる訳もなく、無理に妻と四人の子供を鏡に思い描きながら、せっせと磨き続けた。
久一はそんな使用人と生写しかのようなフレンチブルドッグが気の毒に思えた。マンホールなんて美味しくないだろう? そして電信柱一本分近寄ってよく観察してみた。主人がマンホールにミルクかなにかを垂らしていて、ブルドッグが嬉々としてマンホールを舐めている可能性ももしかしたらあるからだ。その可能性はすぐに途絶えた。主人らしき人物の手にはリードと傘しかなかった。
ならばブルドッグの行動は益々使用人と大差ないではないか。
必死にマンホールなんか舐めずに、リードを彼方此方に引っ張ってしまうと、「躾のできない犬なんて保健所よ。代わりはいくらでもいるのよ。その為のブリーダーなんだから」となってしまうかもしれない。これは間違いなく悲劇だ。救いがなさすぎる。
久一はブルドッグの身に一計を案じて一つの賭けに出ることにした。久一はブルドッグの運命を今この手で握っている気がして、ある種の興奮と高揚に胸を高鳴らせていた。開店前のパチンコ屋に並ぶ人々みたいに。
今から足下に落ちている小石をブルドッグめがけて蹴り込む。小石が上手くブルドッグに当たれば、ブルドッグは「はっ」としてマンホールを舐めるのをやめて正気を取り戻すだろう。仮に小石がブルドッグに当たらなければ、一生好きなだけマンホールを舐め続ければいい。飽きればまた違うマンホールを舐めればいい。マンホールの味が場所や形によって違いがあるのかないのかまでは知らないけれど。チャンスは一度きりだ。
電信柱の影に久一は小石をセットした。電信柱はコーナーポストの役割とする。コーナーキックをする前のサッカー選手を真似て左手を上げる。会話に夢中な飼い主と連れ合いは久一の存在に気づいていない。 「よし」
蹴られた小石はブルドッグの尻目掛けて邁進する。久一が最も得意とするトーキックのお披露目だ。小石は見事にブルドッグの尻を外して飼い主の踝当たりに命中する。直後、飼い主が「痛い」と悲鳴を上げて、ブルドッグは「きゃん」と大きく吠えて飛び上がり、それに驚いたもう一人が尻餅をついた。
あろうことか、尻餅をついた女性にブルドッグは襲い掛かり、ズボンの裾を噛んで首を左右に振りまくっている。首がもげるのではないかというくらいに野生が目醒めてしまっている。飼い主は突然の痛みとブルドッグの豹変にパニックに陥っているようだった。なぜならリードを力の限り引っ張って襲われている人とブルドッグを引き離せばいいものを、わざわざリードの真ん中あたりを持って、残りの尺を鞭のように使いながらブルドッグの尻を繰り返し打つのだから。正気ではなかろう。
久一もパニックになりそうなのをなんとか抑え込む。焦りながら鉛のような脳味噌で咄嗟にでた考えがあった。
大丈夫ですか? と何も知らない素振りで二人に近づくというのはどうだろうかと。あたかも善良な一市民として、飴細工で作った笑顔を貼り付けながら駆け寄る。
ダメだ。まず笑顔で駆け寄る場面ではない。それにどこかでことの顛末を見届けていた者がいたらどうなる? 弾劾する可能性がある。カーテンの隙間から覗いていたとして、窓を開けてカーテンの後ろに隠れながら姿も見せずに「そいつの仕業だ。この偽善者め」「へたくそ!」
欺瞞が暴かれてしまっては非常に困る。
久一はそっと電信柱に背を向けてから脱兎のごとく走り出した。鉛の脳味噌はぐつぐつと沸騰して溶けていった。
二人は不審な久一に気づくだろう。しかし顔を見られたわけではない。大丈夫だ。久一は強く自分に聞かせながら急いで走った。サンダルがパタパタと情けない音をたてているのに苛立ちながら。
タバコを買いそびれたけれど、一旦退却する。久一は退却にも策を打った。まっすぐにアパートに戻ると、もし二人が後を追っていれば見つかってしまう可能性がある。もしを避けるために、わざと遠回りしながら休まず懸命にアパートに向かった。馬鹿なことをしたと反省とともに歩みを止めた時に足の親指の痛みに気づく。指が少し腫れて皮が捲れていた。小石を蹴ったからだ。改めて馬鹿なことをしたと再度反省する最中、背後に気配を感じた。
久一は躊躇いなく走り出した。神様。神様お願い。お願いします。どこの宗派でも構いません。あぁ神様。久一は祈った。
振り向いてはいけない。顔を見られてはいけない。
はぁはぁと息遣いが聞こえる。なにかを引き摺る音も聞こえる。間違いないブルドッグが追いかけて来ている。ということは飼い主も後ろから追撃しているに違いない。上手く走れないサンダルが忌々しい。
久一はサンダルを手にして裸足で走った。ガラスの破片が道路に落ちてないことを神に祈りながら。とにかくもう家に逃げ込むしかない。住所がばれようとも背に腹はかえられない。久一はとりあえず安息の地で横になりたかった。
必死で走ったおかげでなんとかアパートに辿り着いた。久一はもたつきながら部屋に飛び込んで横になる。もし飼い主が家まで暴いて訪ねて来たらどうしようと考える。居留守でまずは様子を見てやり過ごそう。根気よく部屋から出てくるのを待っていたらどうする? その時は、「知らん知らん知らん知らん、何も知らん、知らんものは知らんのだ」と押し通そう。久一は案外この方法でなんとかなるような気がしてきた。それにまだ住居を特定されたわけではない。心に安堵の陽が射した。直後だった。ドアの向こうで「きゃんきゃん」と怒鳴る刺客が現れた。
久一は息を潜めてじっとした。ドアの向こうで叫く刺客が諦めてくれるのを期待しながら。久一の期待通りに刺客は吠えるのをやめた。去ったのか? であればありがたい。物音を立てぬようにドアの覗き穴に向かう。一歩、二歩。「きゃんきゃんきゃん」刺客はまだ諦めてはいなかった。それでも久一は静かな歩みを止めず覗き穴に向かう。そしてたどり着く覗く。
「きゃんきゃんきゃわきゃんぎゃんきゃんきゃんぎやん」
ドアを隔てた向こうに憎き相手の気配を察したのか刺客は今まで以上に喚き散らす。久一を逃さないと言いたげに。マンホールを舐めるだけしか能のない駄犬と見せかけて偉大なる忠犬。もはや舐め犬ブルドッグではない狼だ。狼の王、ロボだ。
覗き穴の向こうにはやはりブルドッグがいた。まわりの様子に目を配る。久一は大きく息を吐いて安堵した。幸運なことにブルドッグしかいないのだ。
ブルドッグはなおも吠えるのを止めようとしない。いくらペット飼育可のアパートとはいえいつまでも吠えさせているのは近所迷惑になる。飼い主不在ということで心に余裕が久一にはできた。
もしやこの畜生は飼い主から逃れる隙を待っていたのではないのか? そして偶然にもその機会が訪れた。その恩人に感謝を述べる為にここまでしつこく付き纏うのではないか? 十中八九ないだろうが。
久一はドアを開けてやることにした。仮にドアを開けた瞬間にブルドッグが襲い掛かって来たならば蹴り出してやればいいだけのことだ。簡単簡単。
ドアを少し開けるとブルドッグは吠えるのをやめて「はぁはぁ」と荒い息遣いのままドアの隙間から部屋に上がり込んだ。そしてそのまま久一の万年床に上がり、とくいの舐め回すような目で部屋を値踏みしながら尻尾を振った。
久一は昨日食べたレトルトカレーが薄っすらと残っている皿にミルクを注いでブルドッグの前に置いてやる。その後にミルクの消費期限を確認する。ミルクの消費期限はまだ二日余裕があった。ブルドッグはマンホールを必死に舐めいた時同様に皿を舐め回している。久一は満足してブルドッグの頭を撫でた。ブルドッグは久一に構わず皿を舐め続けた。
ここで一つ問題が発生した。しかしその問題はさざなみ程度のものだった。アパートはペット飼育可の物件だ。ブルドッグが泊まっていくなら好きにすればいい。一日くらいなら目を瞑る。もし気に入らないならば出ていけばいい。
いつ出ていってもいいようにドアを開けておいてやろうと、ドアの間にスリッパを挟んでからブルドッグの横に体を投げた。
喉を潤してご満悦なブルドッグを久一は寝転びながら、親が子にするように高い高いをした。ブルドッグのだらしなく空いた口から舌が見える。舌先から乳白色の雫が久一めがけて投下される。両手が塞がれた状態では涎を避けようがなかった。涎は久一の顔の中心に落ちた。おぞましい悪臭に久一はブルドッグを投げ捨てて涎を布団で拭った。ブルドッグは尻尾を振って久一の前に舞い戻ってきた。ブルドッグの目はおねだりをする子供のようだった。もう一度ブルドッグを投げ込んでやる。ブルドッグはまたもや嬉々として久一に擦り寄ってきた。
久一はブルドッグを放り投げるのに楽しみを見出せなかった。しかし相手は許してくれない。何度投げたのかわからない。肩も痛みだした。ここでやめてしまうと玩具店の前で駄々をこねる子供のようにブルドッグが叫くのが面倒だと思ったから続けている。
ブルドッグに名前をつけてやろうと久一は考えた。短い付き合いになるのは決まっているが、別れの時に「それじゃあなブルドッグ」 とブルドッグにブルドッグと呼ぶのがおかしいような気がしたからだ。
もし人間以外の動物に「おいそこの人間よさらばだ」などと言われたらいい気がしないではないかと。それよりも「おい久一さらばだ」と言われる方が「短い間だったけどまたどこかでな元気でな。マンホールばかりじゃ身体に良くないぜ」などといい塩梅で別れられそうじゃないか。
狼の王ロボからロボという名を貰おうと久一は考えたが、どうもこのブルドッグに王様の名は分不相応に感じた。王というにはカリスマ性が足りず、別に丁重に扱おうとまではならない。なっていたらぶん投げたりはしないだろう。かといって中学時代の友人の名をつけるくらいおざなりにするのもどうかと。そして久一は色々妥協した結果ナポレオンと命名することにした。
ブルドッグは変わらず久一に投げてもらうために尻尾を振った。
「飛べ、ナポレオン」
久一はブルドッグの名を口にしながら投げてやると、興奮最高潮といったようすでブルドッグは部屋を駆け回った。そのはしゃぎ様に、もしやこいつは本当にナポレオンという名なのかも知れないぞ、と久一はブルドッグのリクエストに応えながら投げてやった。
世の中にはそういう偶然とは言い難い奇跡が必然的に散りばめられている。ナポレオンという名の奇跡の一致、奇跡の一欠片。久一は一人で納得してブルドッグの頭を撫でた。おまけに頬擦りまでした。
この後どうするべきか、うとうとしながらナポレオンの行く末を案じて、飼い主が勝手に見つけてくれたらいいのに、明日はどうするべきか? 一番いいのは目が覚めたら勝手にナポレオンが居なくなってくれていたらいいのにな、などと思案しているうちに久一目を閉じていた。
今日一日の疲れが出たのだろう。タバコも結局買えずじまいに終わった。
眠りから目覚めた久一の側にはナポレオンが丸くなっていた。
「勝手に出ていかなかったのか」
少し開けて置いたドアの隙間からナポレオンは出て行かなかったようで、代わりに虫が部屋に入って来ていたら嫌だなぁ、と窓を見やると、空が焼けていた。もうすぐ太陽が顔を出す。
久一の気配に気づいたナポレオンがのっそりと起き上がり、久一の足にまとわりついた。昨日同様に皿にミルクを注いでナポレオンに与えた。皿に残っていた黄色い汚れは綺麗に舐められて消えていた。
ナポレオンが懸命にミルクを舐め終わるのを見守った後、一度ナポレオンを布団に放り投げてから、ナポレオンを抱えて久一はアパートを出た。
リードを引きながらナポレオンをどこに置き去りにするのが適切なのか悩み、難しい顔で久一は歩く。ナポレオンは狭いところを歩きたがり、溝の中を歩こうとするのを久一はリードを強く引いて阻害する。
無難に公園に足を向けると、朝の早い老人達が屯しており久一は素通りするしかなかった。どこか開店前のスーパーの入り口にリードを括りつけて置けば店員が保護してくれないだろうか? しかし監視カメラで撮られてたら嫌だなぁ。などとナポレオンの処遇を決めかねていると背後から声をかけられ、久一は身を固くした。
「あの、すいません」
久一は青褪めた。振り返るその場に立っていたのはナポレオンの飼い主だった。間違いない。ナポレオンはリードを引き千切る勢いで飼い主の方に体を向けた。
飼い主は屈んでナポレオンを愛しげに胸に抱き寄せた。久一はその光景を黙って見届ける。
飼い主はナポレオンを抱いたまま立ち上がって久一の方に頭を下げた。
「ありがとうございます。保護してくれていたのですね。昨日、大吉が逃げだしてずっと探してたんです」
飼い主は左脚の甲を摩りながら、怪しい人物が走り、それを大吉が追う形で逃げ出したのだと説明してくれた。久一は丁重に保護しておりましたと答えた。
飼い主は心配で夜も家を出て大吉を探そうとしたが家族に反対されて喧嘩になったと話した。晩酌を済ませた父親が勝手に戻ってくると言うので頭に来て「そんな帰省本能は大吉には備わっていない。事故にでもあったらどうするのよ」と父親に詰め寄ると「お前の方こそ大吉を低く見積もりすぎだ。あいつは賢い。自力で戻ってくる」と説教し始めて埒があかなくなってしまい、渋々早朝に家を出たそうだ。
繰り返しお礼をしたいと迫ってくる飼い主に断りを入れて久一はこの場からいち早く去りたかった。あまりにも執拗な飼い主のお礼の言葉の数々に嫌気がさした久一はリードを押し付けるように手渡し、来た道を歩き出した。飼い主はまだお礼を告げ足りないような風だった。
久一は買いたてのタバコの封を切り、火をつけて吸いながら歩いた。いく振りかのタバコは久一の頭を揺さぶった。
あいつはナポレオンではなくて大吉という名前だったのか。ナポレオンと呼ばれて嬉々としていたのはナポレオンとして演じ切る為に必要だったからなのか。久一を落胆させぬ為の振る舞いだったならば、飼い主の父親の言う通りだ。賢い畜生様だ。
久一は家路に着く途中で程よい小石を見つけた。そして軽く電信柱目掛けて蹴り込んだ。小石は見事に電信柱に当たってコツンと高い音をたてた。
久一はどうしようもない奴ですが、でもなんとなくあなたの中にも久一がいませんか?