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徒然と紡ぐ日の影  作者: 村街マイク
2/19

蛸と烏賊と未来線

未来線は選択一つで変わる。

 カウンター席が十席だけの居酒屋があった。場所は駅前ビルの地下へ降りてすぐ。仕事を終えた者たちが酒や肴を求めて日々暖簾をくぐる。


 カウンターの奥の席には高校時代からの悪友が二人、社会人になっても酒を交わしながら陣取っていた。この後、もう一人やってくる友人の席を空けて二人は待っていた。


 その人物はたまたま一人が知り合い、この場に連れてきた。年齢も同じこともあり、水が合った三人はつるむことが増えた。


「今日のニュース、見たか?」

 隼人はやとがビールジョッキを片手に久一ひさいちに本題を切り出した。

 

「あの試合で勝っていれば、あの場に俺かお前がいた可能性もあるんだ。信じられないよなぁ。ただの部活に夢が詰まっていた。それなのに俺たちは気づかずに、いつの間にか夢に振られちまった」

 隼人はつきだしの山芋と胡瓜の辣油和えを口にしながら目を細める。

「無理だろ? あそこで優勝しても全国大会じゃあ通用したかわからない。あいつのチームはベスト4まで進んだからこそだろ?」

 過去に囚われていても現実は変わらない。嫉妬したところで相手に届くこともない。ビールを喉に通しても乾いていた。

 現実を嘆くなら、冷蔵庫の中で干からびたキャベツや椎茸を捨てたり、賞味期限の切れた牛乳を飲んで、腹を緩めながら、台所の排水口を毛の開いた歯ブラシで粘りをとる方がまだましだ。

 しかし、テレビニュースを見た瞬間は固まり、記憶が過去に引っ張られたのは確かだった。


「この先、どう転んだらスーパーモデルと熱愛発覚できるの? 今からどこかのクラブチームが俺たちにオファーするか? もう俺そんなに動けないし、外周走りたくねぇよ」

 隼人はジョッキを空にして、おしぼりで口もとを拭った。

「お前はキーパーだから横っ飛びさえできればチャンスはあるよ。俺の方こそ無理だね。今の戦術だとボールも貰えないのに、走り回らないといけないからさ。それに俺も外周なんて走りたくないな。来世はソフトテニス部に入って、女子とゆるゆるやるんだ」

 久一もジョッキを空にして頭の後ろで手を組んで吊るされた和紙提灯をなんとなく見た。元は白かった和紙が油や埃で黄ばみ、染みもできていた。


「いやいや、お前あってのチームだっただろ? 思い出せよ、自信持てよ十四番」

「それこそ、お前あっての決勝戦だっただろ? 忘れないぜ、ファインセーブの数々、最後はPKで、まぁ負けたけど、なぁ一番」


 二人は過去のグラウンドの匂いを探していた。


「でもな、俺が止めてたら、スーパーモデルと熱愛があったんだよ。それは違う未来線の俺に託すしかないのか? 託したところで、今の俺に恩恵ある? ないよね? ねぇ久一ちゃん? 答えてよ、ねぇねぇ。そもそもパラレルワールドなんてあろうがなかろうが、意味ないし、ないよね」

 隼人は四次元的思考とでも言えばいいのか、答えのない質問を久一に投げかけた。

 久一はこの手の話題を非常に好む傾向があった。もしもの話。そのもしもの話は実現しないのだけれど。

「そんな未来線があったなら、まずモデルなんてごめんだね。新人女優さんと付き合っちゃうね。とりあえず女優さんから始まって、次はグラビアアイドルから女優に転身した子と付き合ってからの。いや、まてまて、日本代表だからって女優さんと付き合えるとは限らないよな?」

「馬鹿! 付き合えるよ。そういう未来線なんだから。なんだって起こりえる未来があったんだよ、あの頃の俺たちには。そういうルールだ」

 久一は顎を掻きながら、ルールを理解した上で返す。

「なら今の俺たちは、その未来線から弾かれているよな。このままでは、いつまで経っても女優とは付き合えないってことだろ? ずるいよな。僕だって女優さんと付き合いたいですよ。どこか道端に女優さん落ちてませんか?」

 久一は被さるように伏せてドンとカウンターを叩いた。灰皿が跳ねた。隼人がカウンターに舞った灰をおしぼりで押さえた。


「拾った女優の人生一割くれるなら探しに行くのもいいけど、それは他の俺たちに託して飲もうぜ。マスター、デュアーズ十二年ソーダ割り、お願いします」

 隼人はジョッキを下げやすいカウンターの縁に移動させて、メニューが書かれた黒板に目を向けた。

「もうハイボールなの? じゃあジョニクロと見せかけてのターキー八年でお願いします。それと紋甲烏賊の天ぷらも」

 久一は店のマスターにフェイントをかけながら注文をする。

「いいね、じゃあ俺は蛸の唐揚げお願いします」

 隼人もつられて揚げ物を頼む。

「君達、同じ揚げ物なら一緒の品を注文してくれたら助かるのに、別にいいけどね」

 マスターは冗談のように本音を交えながら、隼人にカウンター越しにハイボールを提供して、ひょいっと小皿を下げた。


 店のマスターは気さくで冗談の通じる人物だった。

 

 グラスをかち合わせて二度目の乾杯をした。二人は過去の記憶のうねりに身を委ねた。


 十数年前の二人はサッカー青年だった。

 今は仕事終わりに飲んだくれて、度々気づけば部屋で吐瀉物まみれだったり、靴をどこかに片方無くしてしまう。そんな大人の未来線を歩いている。

 しかし、本当に県大会の決勝を勝ち進んでいたならば、プロも夢ではなかったかもしれないと考えれば、やり場のない靄を抱えることがあった。

 そして大会の決勝で敗れた相手の選手がモデルと熱愛宣言したことをニュースで知った二人は、あの日のことを思い出してしまうのだった。


「マスター、ブロイラーじゃなくて、若鶏の唐揚げください」

 隼人が注文を言い直す。

「このブロイラーという呼称が悪で若鶏が正義みたいな風潮どうなの。ブロイラーってなんか熱血レスラーみたいで良くないか?」

 酒も入り、ふらふらと意図不明なことを久一が口にする。

「お前、熱いのはボイラーに引っ張られたろ?」

 隼人は提供された紋甲烏賊の天ぷらに檸檬を搾った。久一はいつもの言葉を告げる。

「あの、勝手に頼んでもないのに揚げ物に檸檬とか搾る人とか、カレーライスを食べる前に全部かき混ぜる人とか、嫌い。とか言う人、嫌いやわ」

 隼人は火傷しないように烏賊を口に運んで返す。

「分かるわー、そもそも、そういうことを言う人が嫌いやわー、オブラートに包むと嫌いかもしれへんわー」

 このまどろっこしい無意味なやりとりは高校時代から十数年忘れることなく二人の間で続いていた。

 勿論、蛸の唐揚げが出てきた時は隼人が同じやり取りをはじめる。そんな二人を見たマスターが「君たちのこと、もしかして嫌いかもしれへん」と合いの手を入れるのが常だった。


「今日勝てば全国大会だ。気合い入れていくぞ」

 二人が所属するサッカー部の主将が円陣を組んだメンバー全員に大声で喝を入れる。二人も叫ぶ。離れた所で女子マネージャーが、胸の前で手を絡めながら祈るように見守っていた。


 二人の未来線が小さな居酒屋で嫉妬混じりにいじけるのが決まった日。


 試合は膠着状態のまま前半を折り返した。お互いにチャンスを活かせずに無得点。後半戦は押し込まれる場面が多く見られたが、危ないところを隼人の攻めのセーブなどもあり延長戦へと繋げる。 


 延長戦開始直後、ほんの一瞬、消耗した相手に綻びが生じた。パスミスを見逃さなかった久一はサイドを駆け上がる。インターセプトした仲間が久一にパスを出す。

 久一はフリーのままサイドから切り込んでいく。残りの体力など気にしている場合ではなかった。気持ちと足が同調し加速する。九番がディフェンスラインの後ろを取る動きを見せる。パスを出そうとした時「おい!」ボランチのポジションから駆け上がって来た主将が手を上げてボールを要求した。どちらが正解か迷いが生じた。

 結果、抜け出す九番にパスを出さずに主将にボールを戻す。九番に出すのがセオリーだったが、延長戦というのを考慮した結果だった。

 九番がバックを振り切れても一人でフィニッシュまで持っていけるかどうか疑わしい。カウンターされれば中央が、がら空きになる。ならば一度ボールを下げて立て直しながら周りが、前線に上がるのを待つ方が賢明だと判断したからだった。


 久一は主将にボールを戻す。そして空いたスペースに走り出した時に自身の目を疑った。なぜなら、無謀にも主将はミドルシュートを放ったのだから。

 ボールはゴールポストの遥か頭上を飛び越えていった。ふかしたのだ。チャンスの前のチャンスがあっけなく消え去った。好きになったバイト先の子が次の日に急に来なくなったみたいに。

 主将は悪びれた様子もなく手を叩きながら「ナイスファイト、ナイスファイト」と下がっていった。

 チームの戦略はボールを回しながらマークの隙をつくというのが共通認識のはずだった。それなのに主将は単独判断で一つのチャンスを捨てたのだ。延長戦開始直後とはいえ残り時間も僅かなのに。

 久一は奥歯を噛み、抑えながらも懸命に守備に攻撃に尽力する。けれど結果は伴わない。隼人も危ないところを何度も指示を出し、自らの体を張ってゴールを死守した。

 やがて延長戦の終わりの笛が吹かれる。

 試合はPK戦にもつれ込んだ。コイントスの結果、二人のチームが先攻で蹴る。PKは先攻が有利という定説があった。

 一本目は八番、ゴール左隅に難なく蹴り込む。相手も同じく左隅に蹴り込む。二本目。主将が左上に蹴り込む。相手も外しはしない。

 三本目、九番が相手のキーパーに読まれて止められる。隼人は落ち込む九番のため、チームみんなのため。そして自身のために頬を二回叩いてゴール前に立ったが、相手のコースを読みきれずに、ゴールを許す。そしてグラウンドの砂を握りしめる。

 四本目、久一が右隅に力強く叩き込む。相手も同じく右隅にゴロで蹴り込む。技巧的な一蹴りだった。

 完全にタイミングをずらされた隼人は空を見上げながら、次の一本は必ず止めると自身に誓いを立てた。

 五本目、七番の蹴ったボールはゴールポストに振られる。そして試合は終了。


 隼人の誓いは果たせず、膝を抱えた。

 久一は七番が外した瞬間に九番を見た。九番が一瞬安堵したように目を瞑ってから、首を垂れて七番の肩を抱きに駆け寄った。そんな九番を責める気はなかった。ただ終わったのだ。


 隼人は久一と違い、誓いを果たせなかったことに引っかかっていた。一本でも止めていれば、一本でも相手が外していてくれれば。次は必ず止めていたのに。次はないことを知りながらも、次を求めていた。飼い主のいなくなったパブロフ。


 試合が終わり、ロッカールームには声を殺して震える男や鼻を啜る男たち。誰も着替えようとしなかった。後輩たちも気を使って能面みたいな顔で整列していた。隼人も同じように俯いたままだった。

 顧問はできるだけはやく着替えてロッカーを開けるようにと残して出ていった。顧問は夕食のことでも考えているのだろう。特に慰めもなかった。なくて良かった、これ以上惨めになりたくなかった。敗北から学ぶにはまだ時間が必要だった。


 久一が最初にユニフォームを脱いだ。そして近くにいた後輩に手渡す。

「お前ら頑張れよ」

 そう声を掛けられた後輩はユニフォームをぐっと掴んで力みながら答えた。

「先輩の十四番貰っていいですか?」

  久一は鼻をつまんだ。悟られないように誤魔化した。

「おいおい、十四番じゃなくてお前は十番を背負う器だろ? 謙遜すんなよ」

 後輩は鼻声で久一に答える。

「十四番が欲しいです」

 久一はパンツを脱ぎながら語る。

「そうか。お前わかってるなぁ、神様の背番号は十四番だったんだ。昔の選手だけど、知ってる?」

 ジャージ姿に着替え終わろうとした時に足に痛みが走った。痛みの原因は疲労ではなく、スパイクを投げつけられたことだった。投げつけた相手の方を久一は振り向くと主将が紅潮して声を荒げた。

「お前空気読めよ、ふざけんな。前から思ってたんだ。へらへらと練習中も合宿の時も普段から後輩たちと馴れあいやがって」


 主将は後輩に常にきつく当たった。主将という立場としては正しかったのかもしれない。かたや久一は後輩たちに馴々しく接し、冗談を飛ばしながら部活動を送っていた。

 今この状況で後輩に八つ当たりするのが主将として正解なのか。空気を読め。合宿の時。久一は主将の言葉に萎縮した後輩の肩を掴んだ。

「言ってやれよ、もうお前は主将じゃねえよって」

 後輩たちの目が一斉に久一を見た。

「何様だ!」

 片方だけのスパイクを履いた主将が久一に顔を近づけた。誰も止めようとはしなかった。

「お前の方こそ何様だ? なんだあのクソみたいなミドルシュートは? チョモランマにでも届けるつもりだったのか? 下手くそは黙って空いたスペースに走って囮になってろ。それと合宿の時のことまだ根に持ってたのかよ? それでもおかしいのは、お前だ。人の善意と食い方に口挟むなよ、下手くそ」

「ふざけるな」

 主将が久一を殴ろうとして腕を振るう。しかし殴りかかるのが見えていれば避けることも可能だ。拳を避けられた主将は腰を落として久一に襲いかかる。そこに二人の後輩が割って入って主将を後ろに引く。二人は合宿のときに久一に救われた者たちだった。


 合宿最終日の夕食の時だった。運ばれた大皿には唐揚げが山のように盛られていた。主将の近くに座った後輩が気を利かせて皿の端に置かれた檸檬を唐揚げに搾った。すると主将が甲高く怒鳴った。

「なんで勝手に檸檬をかけるんだよ! みんながみんな檸檬をかけたいと思うなよ。かけたいなら小分けにしてからにしろよ。使えねぇなぁ」

 後輩はびくつき、涙を堪えて繰り返し謝罪させられていた。隣のテーブルだった久一は説教途中の後輩を呼んで自身の前にある、手のついていない皿と交換するように指示した。

 周りにいたメンバーに異議はなかった。隼人だけは笑っていた。


 後輩が檸檬を搾った唐揚げを口にして久一は嫌味たらしく大声を出した。

「うめぇー。こんな美味い唐揚げ生まれてはじめてかも。もしかしてお前の指から未知なるスパイスが抽出されてるのか? 将来はカレー屋さんだな」

 久一の一言に悪のりした隼人も声を上げる。

「もっと搾れよ、ここの檸檬全部搾り尽くしてくれ、頼むよ。お前これからスパイシージョーと呼んでもいいか? ジョー」

 周りのメンバーも乗せられて美味い美味いスパイシースパイシー、ジョー、ジョージ、ジョーと拍手して笑った。

 主将が舌打ちをするがやめない。後輩は檸檬を搾り、赤面でスパイシージョーの二つ名を受け入れる。席を立った隼人が後輩の席にあったカレーライスの皿を空いていた席に置いた。

「お前ここで食えよ。俺のカレーの味変の時にソースかけてくれるだけでいい。願いを叶えてくれるよなジョージ? 俺は、お前のスパイスなしでは生きていけない」

 近くに後輩を座らせた。後輩は素直に従った。


 この後は何事もなく食事は終わるはずだったが、またも当てつけのように主将が後輩をいびった。

「汚ねえ食い方するなよ! 見てるこっちの気にもなれよ。我慢しようと思ったけど無理だわ」

 次はカレーライスの食べ方にケチをつけた。全て混ぜて食べるスタイルが気に入らないらしい。

 なぜこいつが主将なのか、サッカーはチームワークではないのか。

 主将はサッカーが下手ではないが、特別上手いわけでもない。もちろん人望があるわけではない。しかし顧問に気に入られてはいる。それだけで主将が決まるわけではない。主将は一学年上の先輩が引退した後に、先輩たちが指名するのが伝統だった。

 先輩に媚を売り、取り入るのがスマートだったというだけの話。


「いい加減にしろよ、くだらないこと言ってないで黙って食えよ。飯が不味くなる」

 久一は主将に当たらないようにスプーンを投げた。主将は椅子を倒して久一の席に向かって来た。

 久一は下から主将に鼻の穴を見せるように顔を上げる。主将は久一の胸倉を掴んで立ち上がらせようとした。周りに緊張が走る。二人はどちらも引かずに息を荒くする。

 隼人が主将の肩を叩いて間を割った。

「キャプテンも馬鹿じゃないだろ、引くに引けなくなるのも分かるけど、今は引きどきだろ? じきに大会が始まるのに、しょうもない揉め事はやめにしないか?」


 主将は久一よりも隼人のことを買っていた。「あぁ、悪かったな隼人」と、残してすぐに席に戻った。

 気の収まらない久一は立ち上がって殴りつけてやろうとしたが、椅子から立てないように隼人に肩を押え込まれていた。

「美味しく食べような」

 隼人はそうこぼした。その後、久一が落ち着いたと判断して席に着いた。後輩が「ソースかけましょうか?」と久一を上目遣う。

「とびきりスパイシーに頼むジョー」

 後輩がドボドボとカレーライスにソースをかける。

「ストップ、ありがとうございました」

 久一はそれをかちかち音をたてて、皿全体にかき混ぜる。主将が視線を飛ばす。同じように隼人も真似る。空いた席に連れて来られた後輩も近くのメンバーも真似てかちかち。サッカーはチームワークだ。下品な音楽会でも気分はいい。

 元々食べ方にけちをつけられた後輩はお代わりをして、全てかき混ぜながら食べていた。それでいい。その姿を見て久一は一息つき、主将を見逃すことにした。


「帰ろうぜ」

 着替えもせずに荷物を纏めた隼人は、久一と主将の間に入った。後輩二人は主将から離れた。

「お前着替えないのか?」

 不貞腐れながら久一は言う。

「余韻を味わいたいのよね」

 隼人は主将には言葉を掛けず、久一と肩を組んでロッカールームから外へと向かった。

「あいつには声かけなくてよかったのか?」

「もう主将じゃないからいいでしょ?」

 隼人が笑った。

「お前って、ドライ過ぎない?」

 

 二人は互いに過去に潜った後、残り僅かなグラスをぶつけた。

「俺らのチームでは、やっぱりどう転んでも負けてたわ久一ちゃん」

 隼人はそう結論を出した。

「いや、俺が選択を誤らなければPKまでもつれ込まなかった可能性がある。でも次があるなら、サッカー辞めて一緒にソフトテニス部に入ろうぜ」

 久一はラケットを持つように素振りする。手が爪楊枝入れに当たる。

「いいね、次はソフトテニスだ! 次なんてないけどね」

 隼人は笑う。

「もっと夢をみさせてよ」

 

 二人は引き戸が動くのを見て充が来たのかと目をやった。同年代くらいの女性客が一人立っていた。二人の席を一つあけて座るとマスターはおしぼりを渡して注文を取った。

 マスターと親しげに会話する様子から常連客の一人らしい。二人も常連だが、顔を合わせたことはなかった。おそらく通う曜日が違うからか。本来二人は木曜日か金曜日だが、急遽隼人の集合命令で集まったのが火曜日。隼人は熱愛ニュースを見て、二人を呼びつけたのが今日という日。

 隼人は女性をそこそこだなぁと値踏みしたが、久一に告げなかった。久一はどこにでもいる風の女だ、二度会っても覚えてないだろうなぁと気にも留めなかった。


 マスターに女は、烏賊の天ぷらと蛸の唐揚げとどちらがお勧めか訊ねると、マスターはメニューにない、烏賊と蛸の刺身の盛り合わせを出した。

「なんか狡いなぁ、美人は得だなぁ」

 隼人がそうこぼした。久一は「蛸と烏賊、どっちが強いか知ってるか?」と隼人に投げかけた。

 隼人はなんとなく、烏賊派閥ということにした。

「そんなの烏賊に決まってるだろ? これ、常識」

「それはどうかな?」

 久一は人差し指を横に振って隼人をにやりと見た。


 我が烏賊王国に対して墨を吐く輩がまたも現れた。性懲りもなく足を奪ってやってもだ。

「代表、どうされますか? お会いになりますか?」

 烏賊補佐官は嘴を尖らせて烏賊代表に告げる。

「かまわん、通せ。タコ殴りにしてくれるわ!」

 悠々と八本の足を複雑にくねらせた蛸代表が烏賊代表の前に通された。

「どのようなご用件かな、蛸殿」

 蛸代表は一つの足を高く上げて尊大な態度で宣言した。

「我々の闘いに終止符を打ちに参りました」

 高く伸びた足には規則正しく並んだ吸盤、その足に思わず烏賊代表は心を奪われそうになる。

「代表、気を確かに」

 烏賊代表にアオリイカが声をかけた。アオリイカはその透き通る外套膜を武器に、烏賊代表の心を我がものにしていた。恋する者の前で醜態を晒すわけにはいかぬと烏賊代表は我に返った。

「美しく並んだ吸盤を見る限り、其方は、雌だな」

 烏賊代表は威厳のある声で蛸代表に問う。蛸代表は顔を白く染めて答える。

「お褒めに預かり光栄です。九つの脳で導き出した結果、本来我々は争う必要がないのではないか? という結論に達したのですが」

 蛸代表が話し終わる前に烏賊代表が言葉を被せる。

「ぬるいことを! 数々の歴史を其方のふとした思いつきで覆せるわけも無かろう。それに九つの脳とか言って我々を小馬鹿にしおって。けしからん連中だ」

 烏賊代表が蛸代表を袖にすると周りの景色が変わった。

「烏賊如きが生意気な、いつでも取って喰えることを忘れるな」

 擬態していた蛸達が姿を現す。そして烏賊代表を取り囲む。本来、蛸は単独行動を好むのだが、ここでは些細なことだ。

 驚きで烏賊代表は後ろに飛び退きそうになるのを耐えてから、余裕のある振りをする。

「周りをよく見てみろ」

 蛸代表を囲むように擬態していた甲烏賊部隊が現れる。

「こうなっては争いは避けられませんね。武力と知力を集結させ、どちらが優れているのか白黒つけましょう」

 怒りに任せて蛸代表はその場で墨を吐いて安全圏に逃れた。


 戦力勝負となれば勝ったも同然とばかりに烏賊代表が招集をかける。被害は最小限であるに越したことはない。

「いでよ大王イカ」

 とんでもない化け物を初撃で披露する。

 蛸達は身を隠す隙間を探す。慌てて烏賊補佐官が烏賊代表に告げる。

「今、大王は、マッコウ鯨と真っ向から戦闘中とのこと。出陣できません!」

「あのデカブツめ。いつもいつも! くだらない奴だ! いらん。出番だ、槍と剣先、暴れてこい」

 投じられた槍のようにヤリイカがスッと前に出る。ケンサキイカは蛸代表に斬りかかる。蛸代表は九つの脳を働かせるが、間に合わない。またも昔話のように烏賊に苦渋を飲まされるのかと諦めかけた刹那だった。

「代表、軟体動物最強の脳が泣いてますぜ!」

 巨大な足で槍と剣先を掴んで、くねくねと踊る蛸が蛸代表の前にいた。

「ミズダコ! 来てくれたのね!」

 ミズダコは蛸代表の招集を拒否した。なぜなら、どう吸盤を弾いても大王イカ相手に戦うなど正気の沙汰ではない。しかし蛸代表のことが気にはなっていた。告白され、一度は断った相手が気に掛かるそんな感じで。こっそり着かず離れずの距離に身を潜めて様子を窺っていたのだ。蛸のお得意技だ。

 

 烏賊代表は墨をまだらに吐いた。身を案じてアオリイカが烏賊代表の傍に寄る。アオリイカは二本の長い足で烏賊代表のエンペラを撫でる。そのアオリイカの心遣いに感謝の念と、闘志が湧いてきて怒号を発する。

「戦えるものは今すぐにここに集合! 直ちに蛸どもを殲滅せよ!」

 戦場に光が差した。ぽつりぽつり。その光景に烏賊補佐官が嘆いた。

「ダメです代表、本来ならばここは勝利の光で煌々と輝くはずだったのですが」

 状況が掴めず、烏賊代表は足をぐわんと振り、烏賊補佐官に説明を求めた。

「どういうことだ!」

「ホタルイカ達の殆どが例年同様、浜に打ち上げられてしまいました」

「またか! 毎年、毎年学習能力のない奴等め!」

 烏賊代表の言葉に集まったホタルイカ達は萎縮し、失望し、光と戦意を喪失してしまった。完全に烏賊代表の失策だ。味方の士気を著しく削ぐ一言。

 知力の差がここに出る。この隙を蛸代表が見逃すはずがなかった。今の蛸代表は水を張った桶のように漣一つない境地から戦況を俯瞰し、二つの策を打ち込む。


「行きなさい! 飯蛸たち。相手はあなたたちより小さいわ! 身も心も! 日頃の劣等感を晴らす良い機会よ」


 蛸代表は飯蛸のひた隠しにしてきた劣情を刺激して奮起させる。下劣な行為だ。下劣ゆえに毒物の効果があった。さすが九つの脳を持つだけはある。その中の代表だ。腹の中は墨よりも黒い。

 飯蛸たちはホタルイカたちに襲いかかる。その乱戦はお互いに体が小さいので、迫力に欠けるものがあった。ペチペチと。多少なりとも飯蛸の方が大きいので蛸勢の優勢だった。しかしここで蛸代表の思惑が外れる。

 一匹のホタルイカが物凄い光を放ちながら飯蛸をタコ殴りにし始めたのだ。

「てめぇ、調子に乗りやがって、よく見りゃ、俺より小粒じゃねぇか!」

 これは個体差だった。ホタルイカの中では大きな方と飯蛸の中では小さな方がマッチアップした結果、一進一退の攻防戦が繰り広げられたのだ。周りで戦っていた者たちは争うのを一時止めて、二人の戦士が誇りを賭けて絡み合うのを静観し始めた。

 ペチペチと殴り合っては、ちょろっと墨をお互い吐く。ペチペチ、離れる、ペチペチ、離れる。吐く。ペチペチ。吐く。離れる。吐く、ペチ。

 場の空気が冷めていくのを烏賊蛸両代表は肌に感じて身を震わせる。

 烏賊代表自身、なにをしているのか分からなくなりつつ、思考停止寸前だった。 蛸代表の一つ目の策は失敗に終わったが、二つ目の策はまだ生きていた。

 二つ目の策は非常に運がよかった。本来ならば烏賊軍を制圧した後に停戦を促す予定だったが、ちっぽけな死闘を前に、しらけた両軍の空気に停戦を持ちかける方が効果的に思えたからだ。

 

「もう終わりにしませんか? 今更感が凄いですが、目の前の争いを目にしながら、もう一度よく考えてください。我々が争う理由がありますか?」


 烏賊代表はホタルイカと飯蛸の死闘を前に、それが本当にどうでもよくなりすぎて、勢いに任せてアオリイカに愛の告白をした。アオリイカは即座に愛の告白を受け入れた。端から二人は相思相愛だったのだ。それならもっと早くに愛を捧ぐべきだったと嘴を尖らしたが、アオリイカへの気持ちで一杯だった。烏賊代表は烏賊代表ではなく、一烏賊の烏賊としてアオリイカのために、烏賊生を全うしようと決意した時に蛸代表の提案。

「私の話、聞いていましたか?」

 蛸代表が烏賊代表に近寄る。

「すまぬ、急に話しかけられたから、びっくりして聞いてなかった」

 烏賊代表は謝罪する。本来、烏賊が蛸に謝罪するなどあり得ないこと。しかしアオリイカと結ばれたことで烏賊代表は満たされていた。アオリイカ以外のことはどうでもよくなっていた。

「もう一度、言いますよ!」

「ちょっと待って、補佐官!」

 烏賊代表は補佐官をその場に呼びつけた。補佐官はどうしましたかと傍に陣取る。

「補佐官にお願いがある」

「なんでしょうか?」

 烏賊補佐官は訊ねる。

「代表変わってくれないかな? お願いお願い!」

「えっ!」

 思わず蛸代表は声を挟んでしまった。烏賊代表は蛸代表を無視して結論を出した。

「いいですよ、一度代表やってみたかったですし、王様とかは大王とか名乗る奴がいる限りなんだかなぁってな感じですもんね。承ります。いつ交代します?」

 烏賊補佐官はあっさり承諾した。

「できればでいいんだけど、今からじゃ駄目かな? 片時も離れずにアオリイカの傍にいてやりたくて」

 烏賊代表は恥ずかしげもなく惚気る。

「OKでーす。ならはやくアオリイカの元に行ってくださいよ。あなたは今から唯の烏賊ですから」

 新烏賊代表はきざったらしく告げる。

「助かるーサンキューハンキュー」


 元烏賊代表はさっとその場を辞した。想定外の展開に度肝を抜かれた蛸代表だったが、軟体生物最強の九つの脳がここが勝負所だと直感し、すぐさま交渉に入った。


「新烏賊代表に提案があるんだけど、就任早々に重い決断になるよね。とりあえず聞いてくれるかな?」

 新烏賊代表に嘴を挟ませる隙を与えずに捲し立てる。

「率直に言うと、もう争うの止めにしない? そもそも烏賊と蛸が上か下かなんてナンセンスよ。人によって違うじゃない? 好みなんて。イカ飯がタコ飯より優れていると言う人もいるけど、無理やり腹に米を詰め込んで、確かにタコ飯よりもインパクトはあるけど、それと味はまた別の話だと思うの。ゴルフって知ってる? まぁそんなスポーツがあるんだけど、八打のことをタコと言って十打のことをイカって言うのよ。失礼よね。私達に例える必要ある? 足の数がそうだからって全然上手い例えでもないし、むしろ幼稚で稚拙で下手くそだと思うのよ」


 そして蛸代表が互いに長らく目を背けてきた真理を発する。


「それに決定的なことなんだけど、私たちの生息域って重ならないじゃない? だから争う必要なんてないのよ。もうやめにしない? 人様に踊らされるのも?」

 新烏賊代表は衝撃を受けた。争うのが当たり前と認識していたが、認識自体が間違いだなどと考えもしなかった。振り返れば蛸と会うことも稀だった。


 人に踊らされていた。人の世界線で。


「上手いですね! そうしましょうか! 僕も思いますもん。蛸さんたちもあんな人々みたいに踊らないですもんね。誇張して口を突き出したり所謂侮辱行為ですよね」

 新烏賊代表の柔軟性に蛸代表は胸を撫で下ろした。

「話が通じて助かるわー、今後は仲良くしましょう。じゃあそういうことでお願いしますー」

「はい、では此方こそ仲良くお願いしますー」

  

 蛸と烏賊の争いのある世界線はここにて終結した。

 蛸と烏賊が仲良く並ぶ世界線が今、久一の空いた席の隣に座る女の前に置かれた皿の中に確かにあった。


 久一と隼人が蛸と烏賊がどちらが優れているか激論を交わしている最中に待ち人が現れた。

「遅いよ、みつる。マスター、充に生お願いします」

 隼人が充のために生ビールを注文する。充は二人と女の間に空いた席に座る。隣の女に会釈してから二人に向き直る。

「なんの話してたの?」

 久一は充に説明をする。公平に審判を下してもらおうと待っていたのだと。

 充は目頭を揉んでから二人を見やる。

「烏賊と蛸のどちらが強いか決めるためにわざわざ平日の今日集まったのか?」

 充の素朴な疑問を隣に座る女が吹き出した。充は女をチラッと確かめる。好みのタイプであった。

「その件はもういいんだ。解決したから。久一が言い出したんだよ烏賊か蛸かって。だからどっちでもいいからさっさと決めてくれよ」

「違うぜ、正確には蛸と烏賊だ。どっちでもいいけど、充はどっちだ?」

 充は素面で二人は酒界の住人だった。出された生ビールを一気に空きっ腹に流し込む。

「では、判決を下そう。そもそもタコもイカも海中では生息域が異なっている。即ち相見えることはない。よってどちらが強いかなんてのは存在しないし、議論に値しない。よって時間の無駄だ!」

 意地の悪い返答を二人に返して充は頬を緩めた。

 すると二人は口を揃えた。

「おー」

「おー」

 一言の感想だけだった。隣の女がまた吹き出して笑った。肴にされた充は二人に文句を投げる。

「なんだよ、おーって! そこはもっとこう真面目にジャッジしろだとか、白黒つけろだとかあるだろ?」

 二人は全く充の言葉に食いつかない。

「いやいや、凄く真面目な答えだったけど、生息域だとか再確認できて勉強になったありがとう。そう思うだろ久一?」

「充のお陰で又一つ賢くなったよ。イカとタコに優劣つけるなんて馬鹿のすることだね」

 取り合わない二人に充は足を鳴らして悪態をつく。

「その馬鹿がお前ら二人だろ?」

「おー」

「おー」

 隣の女が口を押さえてまた吹き出す。充は諦めてマスターに本日のお薦めを注文した。出てきた蛸と烏賊の刺身を見て合点がいった。


「マスター、おにぎりお願いします」

「俺も」

 久一と隼人が注文した。

「具と海苔はどうする?」

 マスターは手を洗いながら、二人に訊ねた。

「鮭で海苔はパリッとした味海苔でお願いします」

 隼人がマスターに告げる。

「相変わらず分かってねぇな。明太子で海苔は直巻きしっとり、焼き海苔で」

 久一も告げる。マスターは顔を横に振りながらぼやく。

「わかってねぇのはお前らだよ、同じ物を注文してくれよな。こっちは一人なんだからさぁ」

「マスター、いつも通り心の声が漏れてますよ!」

 充が会話の流れをまとめる。

「充君、悪い悪い。もう心の声が漏れる時間かぁ、さっさと帰ってくんねぇかなぁー」

 マスターは炊飯器の蓋を開けて米を握る準備を始めた。


「確かにマスターの言う通りだな、俺たちは客だから好き放題していいってことにはならないな」

 隼人は重い瞼を擦った。

「隼人は一見正しいようで間違ってるね。色々と注文してほしくないなら色んなメニューを貼らないで米だけ炊いてろって話だろ? しかしだ、ここでジレンマが生じる。いくら文句を並べてもマスターには出禁を言い渡す権利がある。とどのつまりどちらの立場が強いかなんて存在しないんだ。俺が二度と来るか! と、この店を拒否すればいいと思うだろ? そんなのできねぇんだなこれが。だって俺、この店好きだもん」

 隼人は腕を組んで頷いて、久一に返答する。 「そうだな。マスターがどれだけ帰って下さいと懇願しても、最後まで居座るものな俺たち。それでもマスターは嫌な顔しながら付き合ってくれるもんな。いい店だよ」

 隼人の言葉を繋いで久一が続く。

「となるとだな、分かってないのはマスターだ。どれだけ椅子の座り心地が悪くても居座り続ける俺たちの気持ちをもて遊んでさ。どうせ片手間で握ったおにぎりも、旨いに決まってらぁ」

 話が捻じ曲がっていく。

「だな。特に鮭のおにぎりが旨いね。口の中でも飛び跳ねるくらい」

「いいや、明太子のおにぎりの方が凄いね。口の中でプチプチと弾けて、ビックバーン? ビッグバーン? 宇宙の創生や。そして胃袋と言う名のブラックホールに直行や」

「それって悲しいな、久一ちゃん」

 

 充は思惑のないやりとりに巻き込まれぬように二人から顔を逸らした。巻き込まれることは決まっているけれど。酔いの度合いがまだ二人の域に達していない。


 逸らした先に、隣の席の女と目が合った。女は充に微笑んだ。その目には慈愛が含まれているように思えた。

「楽しいですね」

 女の言葉に充は頷く。

「お前ら、ちょっと恥ずかしいわ!」

 充はパリパリ味海苔と、しっとり焼き海苔を戦わせている二人に感謝を伝わらない言葉で伝えた。


 マスターが二人の前に一つ一つとおにぎりを提供した。しっとりとパリパリのおにぎりが二人の手でぶつけられる。

「おにぎりで乾杯するなよ、行儀が悪い。やるなら家でやれよ」

 充が箸で指して至極真っ当な意見を述べる。

「うんめぇー」

「こっちの方がうんめえー」

「噛めば噛むほどビッグバーンや」

「おにぎり乾杯に参加しなかった奴の遠吠えがアクセントになって、尚更うんめぇー」

「家に帰って食パン乾杯一人でやるの楽しみー」

「じゃあ俺は一人で布団に入って寝るの楽しみー」

「はっ? もっと捏ねろ、搾り出せよ」

 充が吠えると同時にマスターがしっとりとパリパリのおにぎり二つを乗せた皿を充の前に差し出した。

「適当に勝敗つけてやれば? 三人の中で、まともなのは充君だけだとおじさんは知ってるから」

 充はマスターに意味のない頷きを返した。 

 久一と隼人はその様子を目にコソコソと悪巧みをした。おにぎりに手をつけようとした充の右手を久一が掴む。

 久一は充の耳元で呟く。

 充は二人が悪巧みしていることを心得ながら、ささやかな下心で久一の提案を受諾した。あわよくば。


「あの、お姉さん、無理強いはしませんが、お一ついかがですか?」

 女は戸惑い、充を見る。次に、散歩に連れ出してもらえる前の犬みたいな二人の視線に気づく。そして歯を見せて応じる。

「いいんですか? じゃあ、有り難く頂きます」

 女はしっとりおにぎりを手に顔の横に持ってきて、犬二人に感謝を表した。

 女は充と視線を合わせたままで、おにぎりを口にしない。充は意図を解せないまま女に首を傾げる。

「お兄さんは食べないの?」

 女の言葉に充は箸を置く。

「ごめん、食べる食べます」

 充はおにぎりを手にした。

「乾杯」

 充のおにぎりに女のおにぎりがぶつかる。女はしてやったりと笑った。

「乾杯」

 充も女に倣って乾杯と口にした。女はおにぎりを齧った。充も女に倣った。

「家でやれ!」

「そうだそうだ、はしたないぞ! 裸で一人、家でやれ!」

 今の充には二人の野次が心地よかった。


 しっとりパリパリおにぎり論争の結果は起伏なく決着を迎える。

「お姉さんが選んだのはしっとりだったので、私の勝ちということでよろしゅうございますか? 隼人君」

 久一が勝利宣言した直後に待ったがかかる。その声の主は女だった。

「待って下さい、久一さんでよろしかったですね? 私はしっとりもパリパリもどちらも美味しいと思います」

 久一はノリのいい女に気分をよくした。気分が乗れば頭の回転は加速する。

「そういうことですか。わかりますよ。貴女のおっしゃりたいことは全て。その前にお名前を伺っても宜しいですか?」

 女も悪乗りし始める。

「私はこの街の外れに住む美湖みこと申します。以後お見知りおきを」

 充は美湖ちゃんと言うのか、と心に留めて久一を褒める。

「美湖さんはこうおっしゃりたいのですね。おにぎりの見た目なんかどうでもいい。中身が大事だと。鮭と明太子では明太子の方が美味であると。さらに深い思考の先に我々三人にこう高々に伝えたかった。おにぎりも人も見た目じゃない、中身だ! 明太子最高。すけとうだら有難う! と」

 隼人も負けずに悪乗りする。

「俺の負けだ、久一の言う通りだ。鮭は旨い、酒も旨い。でも明太子には勝てないということだな。俺はもう二度と鮭のおにぎりは頼まない。鮭には悪いが明太子にするよ、これで最後だ」

 小さく残ったおにぎりの欠片を隼人は口に運んで目を閉じた。

「隼人、決して二度と鮭を口にするんじゃないぞ!」

「あぁ、これからの俺のおにぎりライフはビッグバーン!」

 加速する二人に水を差す美湖。

「すいません、私の一番好きなおにぎりの具は梅です」

 美湖の馬尻に跨る充。

「僕はおかか」

 充を蹴落とす二人。

「お前はいいんだよ」

「おかかはお好み焼きの上にふわっとだろ! 覚えておけ」

 落馬しかけた充を拾い上げる美湖。

「私もおかか好きですよ。五番目くらいに!」

「おー」

「おー」

 初対面では上出来な四人の連携だった。


 こんな感じで閉店前までぐだぐだと四人の時間が流れた。


「マスターご馳走様でした。楽しかったです」

 美湖は支払いを済ませてマスターに礼を口にした。マスターは機嫌よく返す。

「楽しかったではなく、美味しかったですだろ? まったく。あいつらはいつも木曜日か金曜日に来るからその日は避けてまた来てね。美味しいもの探しておくから。本日もありがとうございました」

 マスターはカウンターから、わざわざ出て美湖を見送る。

「はい、必ず来ます。マスターとみなさん、おやすみなさい」

 三人も口々に挨拶を返す。

「おやすみなさい」

「はい、おやすみ」

「おう、おやすみ」


 美湖が退店した後、充は珍しくマスターに愚痴る。

「酷いよマスター。俺達が来る日には来るなみたいな言い方して。正直、また一緒に呑めたらいいなぁと思ってたのに」


 隼人がカウンターを叩いた。空のグラスが揺れた。マスターが口を開く前に隼人が叱りつけた。

「充、よく聞けや!」

 隼人の口調には棘があった。充は驚いて身をそらした。

「お前はどうせ美湖ちゃん可愛かったなぁ、だとか俺が代わりに支払いした方がよかったかなぁ? でも初対面ではやりすぎかなぁ? だとか、夜道大丈夫かなぁ? とか考えてたんだろ? 挙げ句にマスターに嫌味言いやがって。あの娘も子供じゃないんだからタクシーくらい拾うだろ」

 充は隼人に思考を見透かされ、楽しかった時間の残り香を台無しにされ、徐々に頭に血が上り始める。

「お前が呼び出しておいてその態度かよ! 何様なんだ。えぇ?答えろよ」

 売り言葉に買い言葉。酒の席ではよくある光景。いい酒が悪い酒に変わる。そして第三者が止めに入る。

「まぁ、待て充、隼人は待たなくていい。全面的に間違えているのは充の方だからな。間抜けだよお前は」

 久一の隼人への肩入れは今に始まったものではないが、今回の充は立ち上がり、我慢しなかった。

「お前らは昔からの付き合いだからか知らないけど、俺はお前ら二人を友達だと思ってたよ。情けねぇ、ただの刺身のつま、添え物。クソ野郎が!」

 充が心ない言葉を吐き捨てる。

「帰ろうぜ久一、気分が悪いわ」

 席を立とうとする隼人を久一は宥めてから充に隼人の気持ちを代弁した。


「よく聞けよ充! 蛸よりも知力があると期待して説明するからな」

 充は二人を睨みつけながら座り直してカウンターに肘を突いた。マスターは三人に無関心で閉店準備に取り掛かる。


「まず、どうしてマスターはおにぎりをお前の前に二つ用意したのか? それはお前が隣を気にしているのが分かったのと、隣の女が一人で来店した事にわけがある。お前の方はどうでもいいよ。ただの助平心だから。女は多分嫌なことでもあったんだろ? だから一人でフラフラ呑みに来たんだろうよ。それをマスターは察して遠回しに俺らで気を紛らわせるのもいいじゃないかと考えたんだ。お前がスマートに横に声をかけないから、隼人がマスターの意図をくんで声をかけるタイミングを演出してくれたんだ」

 充は全くマスターと隼人の思惑に気づいていないようで背筋を伸ばして椅子に座り直す。

「久一は気づいていたのかよ?」

 充は久一に問う。

「気づいてないよその時は、振り返ればの話。いいんだよ今、俺の事は。それでだ、お前がマスターに酷いと愚痴るけどな、物事には本質ってものがあるんだ。逆説的なもの」

「逆説?」

 充は頭を掻きむしって久一の言葉尻を呟く。

「そう、逆説。黙って聞けよあんぽんたん。マスターは女に俺たちは木曜日と金曜日に来るから避けろと言った。つまりはその日に来れば俺らと会えるよと女に伝えた。さらに女とマスターの感じからして顔馴染みの可能性が高い。俺らは女と初対面。定休日と木曜日と金曜日を除いた日に来れば、充も女に会いたければ会えると教えてくれたんだよ。マスターに女が何曜日の客か教えてくれと頼んでもペラペラ喋るような人かよ。わかったか? 蛸! 宜しいでしょうか? 隼人さん、マスターさん」

 隼人は充を見やり、軽く頷くにとどめた。充は完全に酔いから冷めた様子でカウンターに頭を沈めた。


「ごめん。僕が馬鹿で浅はかでした。今日の支払いは僕が全てしますので、どうか許してください」

「当たり前だろ」

 隼人は答えた。

「充君、買収ですか? 手口が完全に悪役ですよそれ」

 久一の返事を充は流して、離れてカウンターに座り、一日の売り上げを計算しているマスターに寄って頭を下げる。

「いつも旨いもので、もてなしていただき、配慮までしていただいたにも関わらず、至らぬばかりに不愉快な思いをさせてしまい本当に申し訳ございませんでした」

 マスターは帳簿から顔を上げて充の目を見た。しかし、充の言葉になにも返さなかった。

 充はその目の中に寛容さだけを見出した。


 マスターは三人を追い出しに掛かる。

「十分以内に帰ってくれる? 俺の終電なくなるからさ」

「はい」

「はいはい」

「はいよ、喜んで」


 充が約束通り支払いの全部を持ち、最終的に三人は肩を組みながら俺たち最高、俺たち最強と繰り返しながら地上に繋がる階段を上っていった。


 店の鍵を閉めたマスターは、充君は当分一人でも店に来るだろうな。それで売り上げが少し伸びるなぁ、ラッキー儲け。と、一日で出た生ゴミの入った袋を破らないように持ちながら口元を緩めた。

 

 


 

 



 

 

 

 

 


 

 

 




 

 


 

 




 

 


 

 

くだらないお話にお付き合いありがとうございます。又くだらない脱線脱線話を書かせて下さい。

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