魔女の名前(結び)
ワカバはずっと待っていた。月が丸い時も、半分になっている時も、紅い月の時も、月を何回見たのか分からなくなるくらいずっとラルーを待っていた。しかし、本当にそんなにも待っていたのだろうか。毎日姿を変えているものは、窓から見える月くらいしかない。それだけが頼りで後は何も変わらない。それなのに自分の記憶がどんどん危なげになってくる。何が夢で何が現実にあったのか、頭が朦朧として、今日何があったのかも、もう少しで自分が誰なのかも分からなくなりそうだった。
今日は何をして、何をしなかったのかを考えて、頭に手を当てた。その手が自分のものではないものに触れる。その素材はぐるっとワカバの頭を一周していて左耳の上が膨らんでいる。ここがズキズキする。いつこんな怪我をしたのだろう? 何か思い出そうをすると、ここが頭の中心からズキズキと金槌で叩かれているような感覚になる。ワカバは背中を冷たい壁にくっつけた。ひんやりとした感触が少し懐かしくも思える。
ラルーがワカバの傍にいた。ガラス張りの部屋の中に獣が放たれ、ワカバに襲い掛かってくる。胸がとても痛くて、ギリギリと締めつけられて、息ができなくなる。「怖い」と目を瞑ると獣の気迫がなくなった。そして、ワカバの目の前には、牙をむき出したよだれをたらたら垂らしていた魔獣が力なく横たわる。
ワカバはラルーの柔らかな手を求めて、握り締めた。ラルーはその手を握り返し「大丈夫よ」と呟く。ラルーの言葉には魔法が掛かっていた。だから、言葉通りそこには何もない安全地帯に戻っていた。本当に大丈夫なんだ、そう思おうとした。
「この世にあなたを襲う魔獣は存在しませんわ」
しかし、ワカバの心の中に渦巻く不安は、治まらない。そんなワカバにラルーは優しく微笑み、赤い丸い飴をくれる。甘い飴はワカバを眠りに誘う。ギリギリ痛む胸も、動悸もしなくなる。ただ、ぽっかりと記憶の真ん中に穴が開いたような気持ちになる。それが気持ち悪く感じられたこともあったが、今となってはどうでもよかった。ラルーが傍にいてくれるのなら……。
しかし、ここにはラルーはいない。ラルーが傍にいないここにいるといつも何かが心臓の周りをうろうろしていて、混沌とした恐怖がワカバの胸を掬い上げる。その度にワカバは消えてしまいそうなくらいに不安でぐらつく。いくら胸の前で手を組んでも、いくら目を瞑っても、心は冷たくて、不安定なままだった。
ラルーは一体どこへ行ったのだろう。ここは一体どこなのだろう。
「いい? 何があっても声は出さないで」と言って、ラルーは消えてしまった。人間がやって来てワカバをここへ連れて来た。
「ラルーの代理だ」
そう言った彼はワカバを『ここ』へと連れて来た。たくさんの人間がばたばたと走る場所。壁に囲まれた部屋ではなくなったが、今度は黒い鉄がワカバの自由を制限していた。ワカバはくたくたになってそこにいた。そして、何度も夜がやってきて、ランネルが小うるさい人間達に飲み物を与え、彼らが首を掻き毟る様を声をあげて笑って見ていた。魂が抜けるまで笑い尽したランネルは、その顔が真っ白になっていた。
ワカバの中に生まれた鬱陶しい霧は晴れることなく、深い眠りもなくなった。ワカバはその片隅で膝を抱えて過ごすことが多くなった。
ラルーは本当にどこへ行ってしまったのだろう。ラルーの澄んだ声と気高く一点を見つめる瞳と、静かな眠りに誘うラルーの香りがワカバを包んだ。思い出の中でラルーがワカバの傍にいた。ワカバはしばらく目を閉じたままその空間を楽しんだ。
ワカバは目を開いてたくさんの息を吐き出した。何かを思い出した。
ワカバは今まで何かを考えていたのだ。
何かとても大切なモノだった気がする。今さっきまでそのことをたくさん考えていて、覚えていたのに。思い出そうとすると頭が痛くて、胸がざわめいて余計に不安になってしまった。思い出すことで何か嫌なことが起きるような気がした。ワカバは床の冷たさを感じるのにも鈍感になってしまった指先で、床に散らばる自分の長い髪を少し束ねた。ちゃんと目に見えている物を触ったはずなのに、何の感覚もなかった。本当にこれはワカバなのだろうか。
ワカバはこんなにも髪が長かったっけ? ワカバはこんなにも色が白かったっけ? この手は、この足は、この体はワカバのものなのだろうか。ただ、ワカバだと信じていたいだけで、ワカバとは別の何かがここにいるような気がした。一体ワカバとはどんな者だったのだろうか。
もしかしたら、ワカバじゃないのかもしれない。
ワカバらしき女の子は頭が重くて、コンクリートの壁の隅で頭をその壁に沿わした。手も体も足も全て重たくて、肉の塊のようだった。灰色の布に包まれた体は、全く重力に逆らわずドシッと床にへたり込んでいる。これが生きているのかどうかも分からない。袖から出ている腕も白くて、体からぶら下がっているだけ。腕の二倍くらいの太さの足は体を支えることすら拒否してしまっているように、床の上で折りたたまれている。何となく斜めになって壁にもたれている背中も痛い。首も痛い。ただ、この体に宿る感覚だけが研ぎ澄まされて、時の動きを感じていた。
真っ暗闇で、側の窓から月が覗いている。女の子は闇に溶けてしまったような感じになって、眠りについた。何だかとても落ち着いて、深い眠りに誘われた。久し振りに感じる安定だった。しかし、部屋にあった空気以外の風が部屋に入って来たのを感じて、女の子は目を開けた。
女の子は不完全な記憶をたどりながら、月明かりの中、近づいて来る影を見ていた。意識して見ているのではなく、ただ、その影が女の子の見つめる先にあったのだ。黒くて大きくて冷たくて、喩えるなら、氷の中に閉じ込められたかわいそうな鬼みたいだ。ヒトの形をした、素性のよく分からない者。女の子と同じ存在なのかもしれない。
鬼はそこに迷いなく立っていた。女の子はその鬼のことを少しだけ知っている気がした。その鬼は部屋の中を少し見回して、女の子の場所で視線を止めた。しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐにくるりと後ろを向いて、部屋の外へ出て行こうと歩み始めた。
「あのっ」
解けそうもなかった魔法が、ほどけて一本の糸に戻ろうとしていた。女の子は、「あなたは誰ですか」という言葉を飲み込んで、はっとした。声を出してはいけない。声を出すと大変なことになるのだ。でもどうして、大変なことになるのかは分からなかった。だから女の子はその後の言葉を出せなかった。鬼が去っていく。女の子が知っているたった一つの記憶である。ずっと昔、小さな女の子はこの鬼に会ったことがある。
どこか遠く、大切な場所で。
「あのっ」
だから、ラルーとの約束を破って、もう一度鬼に向かって声を掛けた。体の中で大きな渦が巻いた。
ラルー?……。
ラルーは女の子の大切な者だ。唯一女の子を守ってくれた者である。そして、ラルーとの約束を破ってしまったことを思い出した。
「いい? 何があっても声を出さないで」ラルーが言うことは守らなければならない。そうしなければ大変なことになるのだ。そうだ、風の子が言葉を持って悪い魔女のところへ行ってしまうのだ。だから女の子はしっかりとラルーを見て頷いていた。ラルーはどこにいるのだろう。そう思ってすぐに女の子は考えを否定した。違う、ラルーはどこかへ行ってしまったんだ。わたしを置いて……。ここにはいない。
女の子の目の前にいた鬼が戻ってきてしまった。女の子はラルーとの約束をもう一つ思い出した。「人間なんて信用するものじゃありませんわよ」人間とは魔女の女の子を傷つけ、恨む者。弱くて、ずる賢くて自分勝手な考えしかできない生物。女の子はしっかりと頷いた。あの鬼は人間だ。女の子は彼に何の用もないはず、なのだ。しかし、もう彼が女の子の前でしゃがんでいた。そして、青い目と女の子の目が合った。氷のように冷たい光だ。それなのに、その瞳に見覚えがある、と女の子は感じていた。
女の子を研究所へ連れ戻しに来たのだ。ぱらぱらと散ってくる記憶の破片を拾い集めながら、女の子はその顔を完成させた。しかし、服装は前とは違う。今は真っ黒ですぐに闇の中に隠れてしまいそうな格好だった。そして、彼から滲み出てくる雰囲気も以前と全く違う。もちろん、深い青の瞳と、目深に被られた帽子の隙間から見える黄土色の髪も一緒で、何も変っていない。ただ以前に比べると、計り知れないくらい恐ろしくて、女の子を怖気つけさせた。そして目を見るのも恐ろしくなってきて、女の子は知らず知らずのうちに彼の顔を全く見ていなかった。
角や、牙は生えてないけど……。彼からは全く温かみが感じられない。
鬼や悪魔は悪い存在なのだ。どの本にでもそう書いてあった。人を喰らい、大酒を飲んで正義の味方に倒される。魔女と同じもの。ラルーは魔女で、女の子も魔女だった。
じゃあ、この鬼と女の子は同じものに類されるのだろうか。鬼の手が女の子に近づいてくる。恐怖を感じ、女の子の目は閉じられた。そして、世界は暗く閉じられた。しかし、女の子は肩に重みを感じ、女の子の世界が広がった。
「名前は?」
鬼が女の子に尋ねていた。鬼の瞳に女の子の顔が映って見えた。女の子は考えた、そんな物あったのかどうかを、一生懸命考えた。魔女の名前は……。今まで誰かに呼ばれてきた名前は……。ただ、思いつく言葉があった。人間の言葉である。
「……わかば」
鬼の顔が少し和らいでいた。鬼の名前はキラ。『キラ』は『ワカバ』を傷つけるものではなさそうだ。だから、女の子はワカバになろうと思った。
風の子が女の子の言葉を拾い、魔女に届ける。『ワカバ』という魔法が未来を描き始めた。




