大河マナの船上で
ダルウェンからの知らせを聞いたビスコッティは帰路を急いでいた。それなのに、船は全く急ごうとしない。どうしてこうもゆっくりと大河を横切るのだろう。ビスコッティはじれったくて仕方がなかった。相手はただの魔女ではないのだ。
彼は自分の横ですましている妻の顔をちらりと見た。
「なあに?」
妻のルフィーユが花の付いた帽子を上品に抑えながら答えた。この女はどうしてこんなに落ち着いていられるのだろう。母親なら息子の心配くらいして当たり前なのではないだろうか。生まれもしなかった娘に対してはあんなに取り乱すというのに。
「また、私のことを冷たい女だと思っているのね」
そして、くすりと笑う。リディアスから来た妻は、一度ビスコッティの寝首を掻き切ろうとしたことがある。ターシャが弁解するには、あの時は子を流して間なしであったための行動らしい。そんなことで殺されてはたまらないと反論したが、長女が流れてしまった理由には、ディアトーラの魔女に対する恐怖心が関係していた。
リディアスからやって来るお嫁様は、リディアスに殺された奥方様に殺される。呪われた花嫁になる。きっとよくないことが起きる。
そんな噂が立つ中にたった一人でここに嫁いできて、たった一人でその数か月を過ごした。そして、ビスコッティはその傍にいてやれなかった。彼女は言った。「あなたが悪いのよ」ビスコッティ暗殺に失敗した妻が泣きじゃくりながらそう訴えていた。どうして、ビスコッティが悪くて、取り押さえた暗殺者が泣かなければならないのか、全く分からなかった。
結局はダルウェンにリディアスとの友好関係を説かれ、しかも、それくらいのことと説き伏せられた。だから、ビスコッティは妻をリディアスに突き返すこともなく、暗殺未遂も暗に伏せることにした。暗殺ではなく、精神的な不安からくる殺意。どちらにしても歓迎し難い。
「心配いらないわよ。だって、ディックはあなたに似て優秀ですもの」
急ぐビスコッティとは全く裏腹の妻、ルフィーユは不思議とビスコッティの言葉を予知する。そして、そんな時は目を合わせようとしない。
「私はね、その女の子とルオディックが一緒になればいいのに、と思うくらいよ」
「君はディアトーラを滅ぼす気か?」
相手はトーラだぞ。リディアスが喉から手が出る程に欲しがっている力だぞ。お前だってターシャから何か便りはもらっているのだろう?
「元々ディアトーラは魔女のためにあるのだから、問題はないはずよ。リディアスに怯えて暮らすよりもずっといいわ」
ビスコッティが呆れて黙っていると彼女はふふふと笑った。
「リディアスからの養女という形でもいいわね。私の遠い親戚にたくさん女の子がいる家族がいるの。その魔女をそこから貰ったことにして、そこの娘を侍女として迎えれば、表向き、数に問題はないし、その親戚もリディアスの果てにいる人達だから、国王に知られることなんてないわ。それに、ディアトーラの婚礼はそんなに派手じゃないから、誰も呼ばなくても不審は呼ばないわ」
妻は本気で言っているのだ。だから、とても楽しそうに見えた。
「そんなにうまくいくものか。君はどこか現実を軽く見ている」
彼女はビスコッティが反論すると口をわずかに尖らせ、遠くを見つめた。
「だって、トーラだぞ。それがどうしたの? トーラの前では浮世は儚く危うい物よ。そのトーラがディックの傍にいてくれるのなら、私の息子は簡単に消されたりしないわ」
その口調と違い、妻の様子は本当に楽しそうに見えた。一体どっちが彼女の本当なのだろう。ビスコッティには分かりかねた。




