風吹き荒ぶ日・・・1
闇さえもが寝静まり鳥もまだ目覚めぬ頃、静まり返った部屋の中に生き物の動きがあった。アブデュルが恐る恐る扉を開いて、部屋に戻ってきたのだ。宿の外に数名の気配があり、散っていった。だいたいの察しはついたが、アブデュルが寝入ってしまうのを待った。ここで彼を責めたとしても何も変わらない。遅かれ早かれ、同じことだったのだ。ただそれが少し早まっただけ。
狸寝入りをしていたキラが部屋をそっと出たのは、もう午前三時を過ぎた頃だった。アブデュルの後始末をしに、キラはマンジュの酒場へと向かった。ここのクイーンは酒飲みで、口が軽く強欲だ。酒場で気前良く酔っ払っている男は、仲間うちで騒いでいた。よほどいい情報を手に入れたのだろう。キラはそんなことを思い、真っ直ぐに進んで行った。店の雰囲気が変わったことはよく分かった。身を震わせた男がキラの顔を見て凍りつき、束の間の静寂に包まれた。彼はなぜキラがここに現れたのかをよく知っている。なぜなら、アブデュルを誘い出し、魔女の居場所を突き止めたのだから。それをどうやって使おうか、浮かれていた最中だったのだから。キラが軽々持っていた麻袋が彼の前に叩きつけられ、静寂を破った。彼の手にあったジョッキがその手から離れ、バランスを崩して倒れる。男の横に叩きつけられた麻袋が重みに崩れる音。男のつばを飲み込む音。酒が床に滴る音までもが響いて届く。
「一千万ある。どういう意味かくらい分かるよな」
男は震えながら僅かに頷いた。キラは畳み掛けるように一言付け足す。
「少しでも動くな。さもないと命の保障はないと思え」
クイーンとジャックが敵対するのはあまりよくない。しかし避けられない場合ジャックがクイーンを買う。そのクイーンはジャックの物。殺そうが生かそうが、誰も異議を唱えない。効力の期限は一日。命を懸けてまで五千万を今すぐ欲しがるクイーンもなかなかいないだろう。たった一日待てばいいのだから。キラが彼から買った条件は、本当に大したものではないのだから。ただ、彼の掴んだ情報をたった一日、口を割らずにいてくれればいいのだから。
朝、昨日の雨が嘘のように、空はすっかり晴れ上がっていた。その代わり風が音を立てて人を追い抜いていく。そして、人工的な物音でキラは目を覚ました。隣の扉が開く音だ。廊下にワカバが顔を覗かせていた。珍しくワカバが起きていたのにはびっくりしたが、物音を立てた張本人だ。まだ、太陽が山の向こうにある時間だった。ワカバは何か歯に挟まってしまったような顔をしてキラを眺めて突っ立っていた。どうかしたのか、と尋ねると、ワカバは怯えたように頭を大きく振った。いつもと変わらない、光景だった。しかし、それは不自然な光景だった。その後、キラはワカバの姿を見ていない。ワカバとシャナの部屋にはシャナだけがいる。シャナは一瞬だけ荷物をまとめる手を止めてキラを見遣ったが、それ以外は目を合わそうともしなかった。
「ワカバはどこだ?」
キラは比較的落ち着いて声を発したつもりだった。しかし、キラを追いかけて部屋に入ってきたアブデュルの眉がひくっと引き攣った。シャナはそれを隠すように否定の言葉をキラに返した。
「知らないわよ」
キラを見上げたシャナも落ち着いて答え、その手を止めようとはしなかった。シャナが庇っているのはアブデュルだ。それくらい分かっている。昨夜、アブデュルはワカバの居場所を賞金稼ぎに売るために出掛け、夜遅くに帰ってきた。おそらくシャナも知っている。キラは静かにそれを否定する。
「知らないわけないだろ?」
「知らないのよっ」
シャナは感情的に立ち上がって、キラに楯突いた。赤い目はキラを見据えて放さない。睨み合いが続いた。アブデュルが何かを言いたがっている。キラはその何かを知っている。だから、同じ言葉をキラは叫んだ。
「知らないわけないだろっ」
「お、お、おじょうさま……僕が」
「お黙りなさいっ 主人は、あたしよ」
怒鳴ってアブデュルを睨み付けたシャナの瞳が、自分が言い放った言葉に負い目を感じているようだった。アブデュルがそれに気付かないわけはない。アブデュルはシャナが望んでいようがいまいが、シャナを助けようと口を開く。
「何が言いたいんだ? 言いたいことがあるんだろ?」
キラはしっかりとアブデュルだけを睨み、意味ありげに言葉を響かせた。そして、その効果を待った。沈黙がその空間を、しばし支配する。アブデュルの生唾を飲む音さえ聞こえてきそうだ。音も立てずにキラはアブデュルに詰め寄る。シャナが無意識にアブデュルを庇い、彼の一歩前へと動いた。キラはそれにも構わず距離を縮めていく。キラはそんな弱みも強みも持つことが出来ない。ジャックに堕ちた者は自分の護りたい者すら、護ることを許されない。それが悔しいと思うようになるなんて、思いもしなかった。
「僕が」
「あたしがワカバを売ったのよ。いつまでも付き合ってられないわよっ そうよ。いい値になったわ。ワカバはいい子よ。すごく役に立ったわ」
シャナが透かさず叫んだ。シャナはアブデュルを見ようともしない。しかし、アブデュルは頭を振ってシャナの言葉に逆らった。
「違うっ! 僕が」
「お黙りなさい!」
シャナの悲痛な声が部屋中に響いた。そして、アブデュルの小さな声がキラの耳にかすかに届く。
「お嬢様は……やめるように言ったんだ……」
キラは瞳に冷酷さを残したまま、アブデュルの言葉なんか耳に止まらなかったかのように、言葉の調子を変える。
「どこへ、向かわせたんだ?」
なるべく感情的にならないように、自分はジャックだと言い聞かせて。後はシャナが時を動かしてくれる。キラは言葉を選ぶだけ。
「どこへ、逃がそうとした?」
「……」
「このまま黙ってるつもりか?」
アブデュルの悲愴な顔がキラの瞳に映された。アブデュルはシャナの表情を見て、口を閉じる。しかし、目はずっと訴えていた。心の声が聞こえてきそうなくらい、正直な男だ。そう、アブデュルは結局奴に何も言わずに戻ってきた。ただ、マンジュのクイーンが確かな情報を得るために撒いた餌にアブデュルが食いついただけなのだ。元来黙っていることが苦手なシャナは重い口を開いた。
「……知らないのよ。早く逃げなさいって言っただけ。もうすぐあなたの敵でいっぱいになるって……」
「そうか……逃げたんだな……」
独り言なのか、それとも、シャナへの返事なのか分からない言葉を口走っていたキラは、それ以上喋れなくなった。ワカバが確実に逃げてくれているのなら、そんなことどうでもいいのだ。ただ、キラは最後にシャナがワカバを逃がしたのかどうかを知りたかっただけなのだ。本当に逃げたのか、それとも連れ去られてしまったのか……。これはキラのミスだ。キラは黙って立っていた。キラは無理矢理にでもその言葉を自分の中に落としてしまおうとしていた。ワカバは逃げたのだ。キラからも賞金稼ぎからも。ワカバがいなければ、この厄介な二人と一緒にいる理由もない。ただ、言葉を忘れてしまったかのように、キラはどんな言葉も思いつかなかった。シャナの声が聞こえた。
「……ごめんなさい」
シャナが初めてしおらしく見えた。アブデュルがもう一度呟いた。
「だって、社長が危篤だって……」
今すぐに大きな金額が必要だったという理由付けをしたかったのかもしれない。しかし、シャナは静かにアブデュルを諫め、その非を自分へと誘導した。
「どんな理由があったにせよ、関係ないわ。あたしもそのお金で助かると思ったわ。動いたのがアブだっただけよ」
シャナの声には曇りが掛かっていた。しかし、シャナは悪くない。悪いとすれば、キラ自身だ。ワカバを捕まえておけなかったキラ自身。部屋の中には雨雲が立ち込めているようだった。しかし、雨は降らない。湿度90%以上。それが圧し掛かる。この分厚い雲を誰かが遠くに吹き飛ばしてくれるのなら、いくらでも払うのに……。キラは光の見えない灰色の雲を描き、そう、文字通り悲嘆しているのだ。
窓から入ってきた風が壁の額縁を揺らし音を立てた。安い風景画の入った安い額縁だ。そして、風は薄汚れたカーテンを外へと放り出し、過ぎたる時の空しさを語った。愁いを帯びた水色の空には擦れた筆で走らせたような雲が窓の奥にあるだけだった。
「どうしたの?」
シャナの声にキラは気付かなかった。シャナは意に染まない表情を浮かべ、キラを眺める。彼は視線を真っ直ぐ窓の外へ向けていた。何かに手繰られるようにしてキラは窓辺へと歩みを進める。
キラの目には嫌な絵が見えたのだ。決してあって欲しくなかった光景だ。
ワカバの姿が見えた気がしたのだ。膝を付いて地面の一点を眺めている。しかし、その影は目を凝らすと靄が消えるようにして消えてしまった。
「ワカバ?」
シャナには見えていないのだろうか。見えていないのかもしれない。キラは夢を見ていたのだ。実際そんな心持ちだった。
「どこ行くの?」
シャナの声が耳を掠め、そのまま通り過ぎて行った。
「ねぇっ。どこに行くのよっ」
「お前らはここで、あいつがもし戻って来たら助けてやって欲しい」
シャナの赤い瞳が大きく開く。キラは冷静だった。ただ、どうかしているだけだ。
「無理よ。マンジュは広いのよ。ディアトーラとは違うのよっ」
「だから、可能性があるんだろう?」
ディアトーラは小さな国だ。国というのもおこがましいくらいの小さな。だから、一度誰かに見付かればすぐに国中が知ることとなる。だが、ここは大きい。首都ゴルザムにいて見付からなかったワカバだ。もしかするとどこかの路地で蹲っているのかもしれない。もしかすると、どうしようもなくなってここに戻ってくるかもしれない。
そして、またあの瞳に涙を溢れさせているのかもしれない。
どうしてキラはそんな微塵もない希望を見ようとするのだろう。マンジュには兵士の目、賞金稼ぎの目。シガラスの目もあるというのに。キラは宿を飛び出していた。
その時は、希望がある、と勝手に思ったのだ。




