4.9 (火)10:15
「マー坊君、どうだった?」
ひょいっ、丈一郎が真央の持つ問診票を覗き込む。
聖エウセビオ高校の体育館。
真央と丈一郎がトレーニングを行ったプールの上にそびえる、三階建てのコンクリート作りの建物だ。
その二階の部分に、体操服姿の男子生徒の群。
クラスごとに集合した後、全員で体育館へ移動し、女子生徒は一階で、男子生徒は二階で、それぞれの測定項目をこなしていく。
身長体重、視力に聴力、それに歯科検診。
もともと男子生徒が少ないこともあり、二人はスムーズにそれぞれの検査項目をこなしていった。
「んん? おお、こんなモンだ」
真央は無造作に問診票をひらひらと丈一郎に見せる。
「信用体重以外は何書いてあんのかよくわかんねーけどな」
丈一郎はその記載内容に目を凝らす。
「えーっと、身長178.5、体重70.1か」
すると、感心したようにうなづいてみせる。
「さすがだね。あれだけご飯食べても、全然ウェルター級のリミットはずしてないなんて。しかも、ほとんど脂肪なんてついていない。やっぱりすごいよ、マー坊君は」
「いやぁ、それほどでも……あるけどな」
そういって、真央はおどけたように舌を出した。
「俺くらいの天才ボクサーになるとよ、もう勝手に体がリミットに合わせて増減してくれるのよ。才能が違うんだよ、才能が」
そういって大げさに胸を張ってふんぞりかえった。
「ははは……そうだね」
丈一郎は少々呆れ顔の混じった苦笑。
しかし、真央の言葉は正にその通りだ。
ロードワークもバッグ打ちもミット打ちも、あらゆる練習に力を抜くことなく、取り組む真央の姿。
そのビッグマウスからは創造もつかないほどのハードワークを毎日このすその姿を、丈一郎は共に過ごし体験している。
丈一郎にとって、真央の本当に驚嘆すべき点は、どれだけ食べても太らない、ということではない。
むしろ、あれだけ動いても70キロ近くの体躯を維持できるという点だ。
口ではああいっているが、それがどれだけ大変なことか、同じくやせやすい体質の丈一郎は嫌というほどわかっていた。
才能だけではない、この男は、貫徹する意志の塊なのだ。
その精神を、丈一郎は心底尊敬していた。
「それに引き換え……」
はあ、丈一郎はため息をついた。
「……僕ってまだまだひょろいなあ」
すると
サッ
「あっ」
丈一郎の手元から、問診票がひったくられた。
「見してみろよ。どれどれ……」
青は眉間にしわをよせ、そこに書かれた数字を読む。
「163センチの、50キロだあ!?」
真央は怒鳴り声を上げた。
「しーっ!」
丈一郎は周りを見回しながら右手人差し指を口に当てた。
「……声がおおきいって! マー坊君……」
声をひそめながらも、出来る限り大きな声で真央に注意する。
しかし当の真央は、全く頓着することも無く声をはりあげる。
「てめぇ、フライ級出場ボクサーが、この時期に50キロだあ? 明らかにオーバーワークじゃねーか! きちんと飯食えっつっただろーが!」
「ははは、ごめんごめん。最近特にトレーニング激しいからさ。二ヶ月前より3キロもやせちゃったんだ」
丈一郎は苦笑して頭をかく。
「でも大丈夫! もう少ししたら体がなれて、体重も戻ってくると思うからさ」
そしていつものへにゃっとした笑顔。
その様子を見て、大げさにため息をつく真央。
「ったく。これだから凡人は困るぜ」
そして真央は腕まくりをし、そしてボディービルダーのようなポーズ。
「俺みたいによ」
ふんっ、その鼻息はあくまでも荒い。
「鋼のような体を作るために、ちったぁ精進せーよ」
「あははは、そうだね」
その言葉を、丈一郎は笑ってやり過ごす。
「ほらほら、僕たちはさ、もう検診終わったんだから。早く移動しないと他のクラスの迷惑になっちゃうよ?」
そういって真央の腕を掴む。
「さ、早く早く」
「お? おお」
そういって周囲を見回す真央。
「しっかしよぉ、その割には男の数少ねえじゃねーか」
そういって顔をしかめる。
「こんなんじゃ、部活動もまともにやれねえんじゃねーのか?」
「まあね。なんだかんだ言って、うちの学校はもと女子校で、女の子の方が多いからね」
そういって苦笑する。
「じゃあよ、この学校の野球も弱えーのか?」
そういって真央は、ピッチングの真似をする。
「あんまし弱えーようじゃ、応援しがいもねぇってもんだからな」
「え? 野球って、硬式野球部? うち、ないよ」
こともなげに言う丈一郎。
「んだと?」
丈一郎の方を掴む真央。
「まじか? じゃあ夏の高校野球、応援とかもないのか?」
「ちょ、ちょっと、痛いよ、マー坊君」
予想以上の強い力に、体をよじらせる丈一郎。
「しょうがないよ。うちはもともと男子の人数少ないし。それに聖エウセイビオはエスカレーター式の学校で、どっちかって言うと進学校だから、硬式野球をわざわざ始めようなんて人は、いないんじゃないかな」
「んだよ、ただで硬式野球をみれるっつう高校生の特権、この学校じゃあ使えねえんじゃねーか」
がっくり、と肩を落とす真央。
「やっぱ、なんだかんだで、お坊ちゃんばっかりの学校なんだな」
そういってじろりと丈一郎を睨む。
「なんだかんだでお前もお坊ちゃんなんだろうな」
ぷるぷると小さく両手を振る丈一郎。
「まさかまさか。うちはごく一般的な公務員の家だよ」
そういて、またいつものへにゃりとした笑顔を返す。
「まあ、確かにお坊ちゃんもおおいけど、それでも、なんていうか……うん、ヤンキーぶっている生徒もいたりするけどね」
「ヤンキー? 不良生徒が?」
そういうと再び周囲を見回す真央。
「どこにそんなやついるんだよ。いるんだったらむしろ友達になりたいくらいだぜ」
「はははは、きっとマー坊君ならそういうと思ったよ」
丈一郎はまたもや苦笑した。
そうは言いながらも、丈一郎は新鮮な気分を噛み締める。
今まで生きてきた中で、一度も交わったことのないタイプの少年。
その少年とのやり取り一つ一つが丈一郎にとっては新鮮なものであり、そして今後の生活に対する期待を嫌がおうにも高まらせるものだった。
ボクシングだけじゃない。
この少年との日々、きっとかけがえのないものになるに違いない、丈一郎は確信した。
「さ、早く一階に降りようよ。他の生徒の邪魔になるからさ。ね?」
そういって再び真央の腕を取って引っ張る。
「そうだな。ここにいてもしょうがねえし。さっさと終わらせようぜ」
にぃ、いつもの口をゆがめた特徴的な笑顔を作る真央。
そして二人は肩を並べて階段へと進んで言った。
「……遅せーじゃねーか……」
真央の退屈そうなあくびがもれる。
一階体育館の前のフロア、小体育館と呼ばれるスペースで、真央と丈一郎、そして数名の男子生徒は女子生徒を待つ。
「女って奴は、何でなんでもかんでも遅せーんだろーな」
「まあまあ」
なだめるような丈一郎の言葉。
「いつものことじゃん。釘宮さんも葵ちゃんもいるんだからさ、それくらいは我慢しようよ」
「わかってるよ」
そういうと真央は、無造作にごろりとフロアーに寝そべった。
「わかっちゃいるけどよ。それでもめんどくせーじゃねーか。こっちはもう測定終わったって言うのに、女待たなくちゃいけねーなんてよ」
「君は本当に集団行動に向かない男だね」
ぬっ、と影が真央の顔に覆いかぶさる。
「ん? おお、今終わったんか」
腕枕で、半ばまどろんだような真央の視線の先には
「まったく、人がいないと思って好き勝手いてくれるね」
赤いハーフパンツから、すらりと長い足が伸びる。
釘宮桃は腰に手を当てて、仁王立ちするように真央を見下ろした。
「女子は人数も多いし、支度にも時間がかかるのもわかっているじゃないか。君はいちいち文句が多いんだよ」
「わーってるって」
真央は寝そべったまま、心底面倒くさそうにこぼす。
「まあまあ、桃さん」
桃の背後から、またもやひとさしの影。
その影の主は、桃の隣に並ぶと、真央の頭の横で座り込み声をかける。
「すいません。私たちも出来る限り早く支度をしようとしたのですが」
青みがかった、黒く美しい髪の毛を耳元でたくし上げ、真央の顔を覗き込んだ。
その日本人形のように色の白い、美しく整った顔が接近する。
さすがの真央も目が覚める思いがする。
「よ、よお、葵。べ、別に文句があるっつーわけじゃねーんだけどな」
たじろぐような表情で、後ずさりするようにその場を離れると、上体を起こして立ち上がる。
「“ら”行の葵が終わったって事は、これで女子も全員検診終わったってことかな」
急に真央が遠ざかったことに少々不服そうな葵だったが
「ええ。これでおしまいだと思います」
そういってにっこりと笑った。
「甘やかさなくていいんだよ、葵」
腕組みをする桃。
勝ち誇るような美貌を持つその少女には、そのいかにも男性的な仕草も板についているように感じられる。
「甘やかすと、さっきみたいに調子に乗っちゃうんだからね。この男は」
「まあ」
その言葉を聞き、口を押さえる葵。
あえて示した大げさな態度のその表情は、葵の真央への親愛の証。
「うるせーよ」
ばつが悪そうに、精一杯の強がりを見せるのは真央。
「もう全員そろったんだろ? さっさと面子確認して教室戻りてーよ」
そういって腹を押さえ
「とにかくもう腹へって仕方ねーんだよ」
「ったく、あんたという男は……」
桃は人差し指で目頭を押さえた。
「ん?」
不意に、真央は桃をじっと見つめる。
その視線に気がついた桃は
「な、なによ……」
警戒の姿勢を見せる。
すると
サッ
「「「あっ!」」」
丈一郎、葵、そして桃が声を上げた。
桃の手元から、その問診票がひったくられた。
「どれどれ……」
しかし当の真央はあくまでも、さも当たり前だといわんばかりの態度で
「そういや桃ちゃんて、身長体重どんな……」
といいかけたその刹那
「ふざけんなぁぁぁぁぁああああ!」
怒鳴り声とともに
「あんたはっ! いい加減にっ!」
桃は右拳を振り上げる。
「ん?」
その声に反応し、顔を上げる真央の顔に
「デリカシーってものを覚えなさいよょおおっ!」
メキキッ
「はがっ!」
桃の体重の乗った、拳がめり込んだ。
「「ははははは……」」
右拳が見事に真央の意識を断ち切る瞬間、その瞬間を丈一郎と葵は引きつった笑顔で見つめていた。




