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    4.9 (火)11:15

「あ、ティッシュ取れてるよ」

 ポケットティッシュを取り出し、真央に渡す丈一郎。

「あーあ、まだ血、止まってないみたいじゃん。気をつけなよ」


「……サンキュな……」

 沈んだ顔でそれを受け取る真央。

 サッと袋からまっさらなティッシュを引き出し、慣れた手つきでロールを作るとそれを鼻につめる。


 体育館から教室への帰り道。

 二人は2年生の教室のある一号館の廊下を歩く。

 鼻にティッシュをつめて歩く真央の顔を、道行く生徒全員がぎょっとした表情で見つめ、そそくさと通り過ぎる。


「……ま、たぶんヒビは入ってねえみてーだから、そのうち止まんだろ……」

 桃の拳が食い込んだ右の頬骨を愛おしくさする。

 涙腺を刺激するような、小さな痛みが鼻の付け根に響く。

「……ちくしょう、何で女のくせにあんな右ストレート打てんだよ。おかしーだろ……」


「……ははは、まあね……」

 先ほどの光景を思い出す丈一郎。


 女性にとって、一生誰にも見せたくはない、自分の身体的特徴の記載された健康診断の問診票。

 それを、あたかもなんでもないものであるかのように手に取り目を通そうとする真央の姿。


「でもさ、ほら、やっぱり女の子の問診票は気軽に手にとっていいものじゃないし、それを男子がみるのは、うん、やっぱりどうかと思うんだけどさ……」

 丈一郎は苦笑い。


 その後、桃はファイティングポーズを作り、一瞬で距離をつめ、右ストレートを真央の顔面に叩き込む。

 その桃の雄姿、それが丈一郎の目に焼きついてはなれない。

 拳の作り方からファイティングポーズ、スムーズな体重移動そのすべてが完璧だったといってよい。

「でも本当にすごかったね、釘宮さんの右ストレート」

 それがもし自分に叩き込まれたらどうなるだろう、そう考えるだけで丈一郎は身震いを覚えた。

「なんかさ、今すぐにでも女子ボクシングのオリンピック代表になれそうじゃない?」


「そうだな」

 真央は再び頬を撫で、そして鼻の付け根を抑える。

「つーか、いくら運動神経いいっつったって、さすがに強すぎねーか? あのねーさん。三階級制覇目指してるこの俺にあんな強烈なパンチ浴びせるなんてよ。きっと前世はマウンテンゴリラだったに違いないぜ。間違いねーよ」

 腕組みをして、うんうんとうなづく真央。


 すると

「あ! 釘宮さんだ!」

 と丈一郎が後ろを振り向く。


「うぉおっ!?」

 頭を抑え、おびえたような表情で後ろを振り向く真央。


「なーんてね」

 くすくすと笑う丈一郎。

「だめだよマー坊君。冗談でも女の子をゴリラだなんていったらさ」


「てめえ! だましやがったな!」

 ゴンッ!

 丈一郎の頭を殴りつける真央。


「い、いたいってマー坊君。悪かったよ」

 とは言いつつも、全く悪びれた様子はないようだ。

「だけどさ、やっぱり、いくら相手が釘宮さんでも、女の子の事をゴリラだなんて、さすがにデリカシーなさすぎだよ」

 いうべきことは言っておかないと、とでも言いたげな丈一郎。


「んだよ。お前にまで“でりかしー”のいわれなきゃなんねーのかよ」

 不貞腐れた様子を見せた真央だった。


「でも、ちょっと安心したよ」

 へにゃっ、丈一郎のいつもの柔らかい笑顔。

「リングの上ではあんなに強いマー坊君でもさ、苦手なものがあるなんてさ。しかもそれが」

 そう言うと、柔らかい笑顔はあからさまな笑い顔に変わる。

「あはははは、それが、僕の同級生の釘宮さんだなんてさ、おかしくって」

 

「っせーよ!」

 ゴンッ!

 再び丈一郎の頭に拳を叩きこむ真央。

「おめーも一回あの女の右ストレート食らってみろ! ウェルター級の俺が意識飛ぶんだぞ!? おめーの首なんか富士山の向こうまで吹っ飛んじまうわ!」


「あたたたた、だから痛いって、マー坊君」

 後頭部を撫でつける丈一郎。

「まあ、確かに釘宮さんは僕より背も高いし、なんかこう……」

 慎重に言葉を選ぶように一呼吸置くと

「……うん、女性にしては結構締まった体をしてると思うしね」


「まあ、確かに乳はねーわな」

 あっけらかんとした表情でいう真央。


「……マー坊君、僕の言ったこと全然理解してないようだね……」

 丈一郎のため息がこだまする。

「でもさ、そのデリカシーのなさのせいなのかもしれない。マー坊君が来てから、釘宮さん、何かすっごく明るくなったような気がする」

 

「そうか? 俺のせいで?」

 困惑気味の表情を浮かべる真央。

「俺があった時からあんな感じだったとおもうけどな」


「そうだね、マー坊君は学校での釘宮さんのこと、知らないんだもんね」

 言葉を続ける丈一郎。

「釘宮さんって、ほら、背も高くてスタイルもいいし、成績もいいし、運動神経も抜群だし。それに、何よりあれだけ美人だしさ。男子の中では、そう、なんていうか……高嶺の花、って感じだったんだよね」


「まあ、確かに美人は美人だけどな」

 あくびとともに答える真央。

 あまり話の内容自体に関心はなさそうだった。

「そのかわり、乳の方はかなり残念な感じだけどな」


「だからデリカシーなさすぎなんだって、マー坊君は」

 少々顔を赤らめ、顔をしかめる丈一郎。

「それに、すごくクールな感じだしね。だから、僕もこの春休みまで釘宮さんとはまともに話をしたこともなかったんだ。奈緒ちゃんを介して以外は、うん、ほとんどなかったな」


「クールだあ!?」

 鼻を抑える真央。

「あの暴力女のどこがクールだっつーんだよ!」

 

「まあ、確かに」

 苦笑する丈一郎、

「確かにそれが釘宮さんの本質だったのかもしれないけど、だけど、その姿は僕たちには絶対に見せなかったものだもん。あんなに熱くなってる釘宮さん、僕一度も見たことがなかったな。うん、そう、マー坊君……」

 そう言うと、丈一郎は真央を見上げて言う。

「……マー坊君、君が来てから、確実に釘宮さんは変わったよ。すごく、こう、明るくなった」


「……」

 ポケットに手を突っ込み、黙り込む真央。

 自分が東京に来るまでの桃の姿はまったく知らない。


 しかし、真央は思いだす。

 およそ一か月前、ベランダから見上げたあの桃の姿を。

 真央の瞳を釘づけにした、神々しいさをまとったその美しい姿を。

 風にはためくような髪、ほっそりとした首筋、そして何よりも形の整った輪郭と顔のパーツ。

 普段は憎まれ口ばかり叩きあい、時には右ほおに巨大なあざを作るような女性、その女性から、心の底からの美しさを感じ取った。

 気高く凛々しい、自立した強さを持つ美しさを。


「そういえばさ、マー坊君は、付き合ってた女の事かいないの?」

 丈一郎は訊ねる。

「結構マー坊君、かっこいいし、もてると思うんだけど」


「っだらねーこと言ってんじゃねーよ」

 顔をしかめる真央。

「女なんて、生まれてこの方持ったことねーよ」


「そうなんだー。意外」

 驚いたような表情で丈一郎は言った。

「好きだったことかは、いないの?」


「……」

 またしても黙り込む真央。

 似たようなことを、以前月の晩に葵にも聞かれたことを思い出した。

 好きだった人、これも存在していないといえばうそになる。

 しかし、それを口に出すことも、やはり真央にははばかられた。

「“花の都に憧れてェ、飛んできましたァ一羽鳥ィ”ってな」

 以前口にした映画のセリフを、自分に言い聞かせるように繰り返すのが精一杯だった。


「? 何なの? それ前も聞いた気がするけど」

 困惑気味の丈一郎。

 

 そんな丈一郎をしり目に

「なんでもねーよ」

 ニイッ、いつもの笑い顔を浮かべた真央だった。

「そんなことよりよ、さっさと教室帰るぜ。さっさと着替えねーとよ、また女どもうるせーだろ」

 そう言ってスタスタと歩を進めた。

「着替えてるところにあいつら入って来たらよ、どうせまた俺のせいになるんだからな。これ以上殴られたら、はっ、顔がいくつあったって足りねーぜ」

 そう言ってぺろりと舌を出した。

「さっさと着替えて終礼終わらせてよ、飯くおーぜ。今日部活動紹介とかで忙しいんだろ? 今食っとかねーと食う時間ねえだろーが」

 

「うん、そうだね」

 丈一郎も同意した。

「何とか一人でもいいから会員増やして、部活動に昇格させなきゃね」

 鼻息荒く意気込みを語る丈一郎だった。


「だったらさっさといこーぜ。俺もう腹減って死にそうなんだよ」

 情けない声をあげる真央。


「あはははは、そうだね早く行こうか」

 にっこりと笑って丈一郎はその後についていく。

 その時だった。


「……おい、さっさとこっち来いよ……」

「……ごめんなさい。もう、許してください……」

「……あ? ふざけたこと言ってんじゃねえぞ? コラ。殺すぞ? いいからさっさとこっち来いよ……」

 

「……」

 丈一郎は足を止め、その声のする方向を眺めた。

 すると数人の男子生徒が、何かを取り囲むようにして男子トイレの中に入っていくのが見えた。

「……これは……」

 眉間にしわを寄せ、ばたりと閉まる男子トイレの扉を注視した。


「ん? どうした丈一郎。具合でもわりーのか?」

 能天気な様子で訊ねる真央。


 丈一郎は真央の方を振り返ると、にっこりと笑って言った。

「ごめんマー坊君、僕ちょっとトイレ寄ってくるから、先に行ってて」


「ん? おお。わかった。じゃあ先に言ってるわ」

 怪訝な表情ながらも言葉を返す真央。


「ごめんね、すぐに追いつくから」

 そう言うと丈一郎はすぐさま振り返り、足早にトイレの中に駆けこんで言った。

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