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山奥で拾った地球外AIと、俺は十五年かけて人類を宇宙へ押し上げた  作者: たまき


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10/23

第10話「往復」

 高速道路の照明が途切れるたび、フロントガラスの向こうで夜明け前の山影が濃く浮き直した。東京を離れてまだ一時間も経っていないのに、背中にはもう一晩ぶんの硬さが残っている。出る直前まで問い合わせ履歴を見返していたせいで、目の奥には白い画面の残像が薄く貼りついていた。


 助手席の足元に置いた防振ケースから、低い振動が伝わる。球体そのものは見えないが、音声だけが車内の乾いた空気へ混じった。


「本日の優先順位を再確認します。山小屋到着後、最初に着手するのは固定治具の再加工です。その後、基板保持の乾式試験、熱勾配の確認、記録の整理となります」


「分かってる。順番はもう頭に入ってる」


「睡眠時間が不足しています。記憶依存は推奨しません」


 ハンドルを握ったまま、亮は舌先で乾いた唇を湿らせた。眠気が強いわけではない。むしろ頭の中だけが変に澄んでいて、昨夜書き出した条件の並びが、道路標識みたいに一定間隔で浮かんでは消える。アルミナ板の寸法公差、接触点の逃がし幅、締結時の撓み量。山小屋へ着いてから考えるには多すぎる。走っている今のうちに削れるものは削っておきたかった。


「じゃあ言え。第一案の問題点」


「接触点が中央寄りです。熱を入れた際、試料端部が浮きます。前回の乾式試験では、左端で0.18mmの撓みが出ています」


「外へ振ると、今度は締めたときに面圧が散る」


「そのため、支持点を左右へ2mm移動した上で、中央は押さえず案内だけを残す構成が妥当です」


 会話の内容は、職場で聞かれたらただの治具設計には見えないだろう。そう思いながらも、亮は速度を落とさなかった。車内には他人がいない。音声は閉じた箱の中で完結する。だからこそ、ここを休息に使う発想が薄れていく。道路を走る二時間がそのまま検討時間になるなら、黙っている方が損だった。


 東の空が白み始めるころ、一度だけサービスエリアへ滑り込んだ。コーヒーを買い、ボンネットにまだ残る夜気を背中で受けながら、メモ帳へ寸法だけを書きつける。支持点の移動量、逃がし溝の深さ、仮固定時の締め順。運転席へ戻る前には、山小屋での最初の三十分がもう決まっていた。休憩のはずの時間まで、手順の切り出しへ使っている。


「このペースで回すと、月曜の朝までに一段は進められる」


 カップの縁へ口をつけたまま言うと、エイルは短く沈黙した。


「進められます。ただし、身体負荷の増加も織り込み済みと判断します」


「そこまで含めて今の条件だ」


「合理性はあります。長期維持性は低いです」


 長期の話は、いま考えても意味がなかった。今週末に一段進めること、東京側へ残す工程をもう一段薄くすること、その二つだけが当面の現実だった。亮は空になった紙コップを捨て、再び車を発進させた。中央道の緩い上りに乗るころには、移動そのものが完全に次の作業の助走へ変わっていた。


---


 昼前に山小屋へ着くと、玄関を開けた瞬間、木と金属粉と古い布が混ざった匂いが鼻へ入った。数週間前まで、ここは休暇のための場所だった。いまはもう違う。靴を脱いだ先の床には養生テープで区切った作業域が残り、壁際には工具箱と部材ケースが背の低い棚みたいに積み上がっている。折り畳んだ布団は窓際へ押しやられ、その手前に小さな卓上バイスが常設されていた。


 ケースを机の端へ置き、ノートと部材箱を広げる。アルミナの薄板、雲母のスペーサ、銅の押さえ板、低揮発の仮固定材。どれも単体なら珍しくない。問題は、それらが同じ目的のために一室へ集まっていることだった。生活用品の隣に並んだ瞬間、普通の持ち物だったものが全部、工程の一部へ見え方を変える。


 亮は腕時計を外し、手首を一度だけ回した。眠気は奥へ沈んだままだが、長時間ハンドルを握ったせいで指の曲がりが鈍い。そんなことを気にしている余裕はない。薄板をバイスへ固定し、0.3mmのシャープペンで基準線を引く。前回は支持点が中央へ寄りすぎたせいで、熱をかけない乾式の段階でも微妙な反りが残った。今回は荷重点を外へ逃がし、その代わり中央の案内面を薄く残す。


「左を先に切ると、右が寄る」


「分かってる」


 返しながら、ダイヤモンドやすりをゆっくり引いた。削りすぎると戻らない。だが臆病に動かすと、今度は支持面の当たりが揃わない。アルミナの粉が白く散り、黒い作業マットの上へ細い筋を作る。東京の自室なら、ここで一度手が止まっていたはずだった。掃除のしやすさ、音、残る匂い、近所への気配。考えることが多すぎる。山小屋ではそこを切り捨てられる。その代わり、切り捨てたぶんだけ工程が深くなる。


 基準線の左右へ浅い受け溝を入れ、雲母スペーサを仮に挟む。銅板で押さえ、トルクドライバで弱く締める。ノギスの先端を端部へ当てると、右側がまだ僅かに浮いた。前回よりましだが、許容の内側へは入っていない。


「0.11mm」


 数字を口にすると、エイルが即座に返した。


「支持点の外側移動は有効です。ですが押さえ板の逃がし幅が不足しています。中央寄りに力が戻っています」


「分かる。銅板が粘る」


 亮は締め具を外し、押さえ板の裏へ細い線を引き直した。次は溝を広げる代わりに、中央の接触面だけを一段落とす。金属用の細刃で浅く削り、紙やすりで段差を整える。単純な面取りに見える加工だったが、狙っているのは見た目ではなく、熱を入れたときに一枚の板がどこで息をするかだった。


 昼を回るころには、机の上の並びが完全に崩れていた。ノートは開いたまま工具の下敷きになり、さっき淹れたインスタントコーヒーは半分だけ残って冷えている。キッチン脇へ置いた食料袋の隣には、洗浄用アルコールと綿棒の箱が立っていた。食べる場所と削る場所の境目が曖昧になり、その曖昧さの方がむしろ今の目的に合っていた。


 再度の仮組みで、薄板はようやくほぼ水平を保った。締め順を変えて三回やり直し、最後の一回で端部の浮きは0.04mmまで落ちる。数値だけ見れば小さい前進だ。だがこの一段がないと、次に入る固定材の比較も、熱の入れ方の差分取りも全部ぼやける。亮は測定値を書き込み、息を吐いた。胸の奥に詰まっていたものが、ほんの少しだけほどける。


「許容内だ」


「乾式条件では、です」


「それで十分だ。今日はそこまで行ければいい」


 エイルの声は相変わらず平板だったが、その平板さが逆に工程の輪郭をはっきりさせる。できたことと、まだ触れていないことが混ざらない。亮は薄板を外し、次の手順へ入った。固定面を一度洗い、低揮発の仮固定材を極薄く置き、再び位置合わせを試す。熱をかける本工程にはまだ入らない。だが乾いた条件で狂わない形を作れれば、都市部では触れられない段までようやく手が届く。


 窓の外では午後の光が傾き始めていた。作業台の上へ落ちる影の角度が変わるたび、散った粉と切り屑が別の色に見える。布団の端へまで細かな白い粒が飛んでいるのに気づき、亮は一度だけ視線を止めた。寝る場所のすぐ脇で削り、測り、メモを取り、部材を乾かす。その配置にもう違和感が薄れている。山小屋は隠れるための場所ではなくなりつつあった。ここでなら進められるという感覚が、部屋の用途そのものを変えていた。


 夕方、最後にもう一度だけ乾式試験を回し、締結後の戻り量を記録した。前回より小さく、ばらつきも狭い。予定した一段は確かに進んでいる。代わりに、肩から背中にかけて鈍い痛みが広がっていた。朝の運転と、着いてからの細かい加工で、首の後ろが熱を持っている。


「戻る前に片づける」


 そう口では言ったものの、実際に片づいたのは測定器具だけだった。作業台の上には次に使う薄板が二枚残り、壁際には切り屑を払ったブラシと洗浄布が掛けられている。すぐ再開できる配置を残した時点で、ここはもう一時の作業場ではない。亮はそれを見て、わずかに口元を引いた。往復しているつもりで、実際には片側へ生活を寄せ始めている。


「次は固定材の比較に入れます」


 ケースの奥からエイルが告げる。


「東京でやるのは記録整理だけだな」


「その方が偏差は減ります」


 減るだけで消えはしない。だが今日一日で進めた量を思えば、その交換条件はもう受け入れるしかなかった。亮はノートを閉じ、持ち帰るものと置いていくものを分け始めた。机の端に残った白い粉と薄い傷の列が、戻ってきたときの続きの位置をそのまま示していた。


---


 月曜の朝、オフィスの蛍光灯は眠気より先に目へ刺さった。東京へ戻ったのは夜のうちだったが、まともに横になれたのは二時間にも満たない。シャツを替え、顔を洗い、車の匂いだけを落として出社したものの、こめかみの内側にはまだ道路の振動が残っていた。


 席に着くと、まず引き出しの奥から静電袋を取り出す。中に入れていたのは、先週末まで基準面の確認だけに使っていた小さな治具片だった。山小屋で進めた逃がし溝の考え方を、その場で忘れないうちに案件用メモへ落としておきたかった。袋を開く指先が、寝不足のせいで少しだけ鈍い。


 斜め後ろから、足音が一つ近づいた。


「顔ひどいよ」


 七瀬の声だった。振り向く前に、視線が手元へ落ちているのが分かる。


「月曜の朝からうるさいな」


「うるさくなるでしょ。その指で細かいもの持ってたら」


 亮はようやく顔を上げた。七瀬は自席へ行く途中で立ち止まっただけの姿勢だったが、目だけが静電袋の中身を外していない。机上へ取り出した薄いアルミナ片と、押さえ板の試作部材。どちらも案件名のついた部品ではなく、説明が先に要る種類のものだった。


「その溝、先週は入ってなかった」


 言い方に感情の棘はない。ただ、確認した事実を置く速さが妙に正確だった。


「似たやつだろ」


「違う。角の面取りが同じだから」


 七瀬は一歩だけ近づき、アルミナ片の端を指さした。


「金曜は基準面だけだった。今は逃がしが二段ある。しかもこれ、社内の卓上機で切った光り方じゃない」


 喉の奥がわずかに乾いた。そこまで見ていたのか、という驚きが先に来る。否定の言葉はいくつか浮かんだが、どれも遅かった。七瀬はもう自分の勘を言っていない。形状を見て、加工順を見て、どこで手が入ったかまで踏み込んでいる。


「朝から部品観察か」


「寝不足の人が、月曜の始業前に試作段階一個進めてる方が気になる」


 机の上の薄板が、急に小さく見えた。数ミリの逃がし溝、紙やすりで整えた段差、指先に残った粉の白さ。山小屋では工程の一部だったものが、蛍光灯の下ではそのまま別の生活の証拠になる。


「仕事の話じゃないなら、いまはやめろ」


「仕事の話かどうか見てる」


 七瀬はそれだけ言って、すぐには重ねてこなかった。引くというより、必要な情報が一度揃ったから止めたという動き方だった。亮の手元から視線を外し、今度は顔へ向ける。目の下の重さ、髭の剃り残し、返答までの半拍。その全部を同じ棚へ置いたような目だった。


「運転してきた顔してる」


「想像で決めるな」


「想像なら楽だった」


 短く返し、七瀬は自席へ戻った。端末を起動する手つきに無駄がない。亮は静電袋を閉じ、引き出しへ戻すふりをしながら、自分の呼吸が少し浅くなっているのを感じた。疲労だけなら流せる。だが疲労の横に物があると、会話は観察へ変わる。


 午前の打ち合わせが始まってからも、意識の端には七瀬の視線が残った。画面に並ぶ案件一覧へ目を通しながら、手元のメモには昨日記録した数値がまだ生きている。東京では整理だけに留めると決めたはずなのに、持ち帰った断片がそのまま会社の空気へ混ざっていた。切り分けたつもりの生活が、結局また同じ机の上で触れ合っている。


 休憩前、給湯スペースの方から戻ってくると、七瀬のモニタに試験ログ管理ツールが開いていた。担当案件の確認をしているようにしか見えない画面だ。だがカーソルの止まっている列を見た瞬間、背中が硬くなる。先週金曜の夜に近い時刻のログ番号だった。


 七瀬は亮に気づいても、ウィンドウを閉じなかった。その代わり、別タブへ開いていた設備予約一覧を一度だけスクロールし、またログの列へ戻る。加工機の使用履歴、試験スペースの記録、勤務時間の切れ目。そのどれも単独なら弱い。それでも同じ向きへ揃えられれば、勘より重い線になる。


 目が合う。七瀬は何も言わない。問い詰める代わりに、次に見る場所を自分で決めた顔だった。


 亮は視線を外し、自席へ戻った。椅子へ腰を下ろしても、蛍光灯の白さが一段強く感じる。週末に進めた工程は、確かに一段前へ出た。山小屋はもう実作業拠点として使える。移動時間まで含めれば、今後もまだ押し切れるかもしれない。そう考える一方で、モニタ越しに見えた七瀬の手元が頭から離れなかった。


 金曜には存在しなかった溝が、月曜の朝にはそこにある。その単純な事実だけで、職場の中に置いていた秘密の輪郭が少し変わる。席の並び一つ向こうで、キーボードの打鍵が淡々と続いていた。七瀬の画面では、別の日のログがまた一つ開かれたらしかった。


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