(60) 午後の恐竜(3)
ルナールたちとの別れぎわ、まだ小雨が降っていた。
天気雨がふった昼さがりごろから、天気はずっと曇りがちでぐずついており、雲間から美しい天使の階段をたらしていた。
「今日はおたがいについてなかったわね」と、雨に降られながら、ルナールが英語で言った。
また遊びましょう、と、本心が読めないものの、心にもない言葉であることはわかることを言って、ルナールはすっかり落ちた夜のとばりのむこうへ、去っていった。
まわりにいたほうは少しもわからなかっただろう……とは思うが、ゲンコの見たところによると、甲斐という女子は、英語が聞きとれているようにも見えた。たんに彼女の心底が読みづらいが、なんでもそつなくこなせそうな、そんな雰囲気がそうさせていた。
月見里という女生徒は、フランス語ができるということだった。母親がフランスと日本のハーフで、母方の祖母が生粋のフランス人であるらしい。その祖母からだいぶ幼いころからフランス語を聞いており、月見里自身も向いていたらしく、聞きとれるようになったのだとか。その縁で、ルナールとも仲よくなったものらしい。
「楽しかったね。また」
と、ほぼ半日以上つきあった松本と、松本の友人と別れる。もっとも松本とは家がわりと近くなのであるから、そこまで一緒に帰ればよかった。寄りたいところがあるから、などと無理くりなことを言って、別の道をたどった。内心、気まずい。
が、ゲンコにも気になることはあった。買ってあった傘をさしながら、人が引けた祭りのあとを一人で歩いていく。あたりにはついさっきまで行われていた花火の匂いが遠く立ちこめている。日本でここまで近くで見るのは当然、はじめての経験で、腹にひびく音、漂ってくるような色のない煙の臭い。すぐそこの川べりで次々上がる、少し乱暴な印象のある優雅な火薬の花、火花がばちばちはじける野蛮な音や、オオオ、という現地の言葉での叫声。音割れのするアナウンス。とても臨場感があった。そこでしか味わえない感動があった。
今はその熱が湯気とともに引いて、夜のねばつく寒さがあった。しいしいと虫の大音声……これは故郷でも聞いたことがない……が鳴るなかを、ざくざくと、ゲンコは歩いていく。いくつかのネオン看板と、アスファルトの地面、独特なパイプの手すり、横断歩道、だれもなにも気にすることのない街並みをぬけて、やがて、大きな鳥居の前までやってくる。
低く凪いで、高くうなる風の音が、耳に静寂とともに届いている。空気は流れていた。均等な冷たさをたもって、布の下にした肌とのあいだを、ぬけめなく吹き抜けていく。
星をかくす雲が不穏だった。月明かりは、雲のすこし薄まったところからぼんやりと漏れていた。
屋台があったところはすべて片づけられて、境内は閑散としていた。が、それは妙だった。
祭りが終わって、少しした今は、屋台の片づけなどが行われている最中のはずで、人がいないとうことはありえないことだった。石畳はきらきらと静まっていた。明かりは一筋もない。
ゲンコは傘の下で息を吐いた。息は白かった。
境内を進んでいくと、日中に見た舞台があるのが見えた。
ここも人がおらず、明かりもない。代わりに、松明がひとつ篝火になってひっそり燃えていた。火は小雨で、絶えずじゅん、じゅん、と音を立て、ゆらめいていて、周りを照らすほどもなかった。舞台は不気味に広がっていた。
目をこらす。
人がいた。
大柄な人影だった。
闇に落ちた黄色い着物、豪奢な芝居じみた飾り、テングという高山の妖怪を模した面、背負ったびわ。着物は豪華なきらめきこそまとっていたが、しかし、よく見るとぼろぼろだった。長く広野を彷徨ったように、裾がくたくたで破れてもいた。背負ったびわは時代がかって、きな臭い生木の匂いまでしてきそうだった。弦が闇に、弓を張るようにのびていた。
ふかや、と、大柄な人物はうめいた。
面の下の目が、ぎらぎらと輝いていた。手にした刀の、白刃が鞘におさまっているかのごとく、殺意に発露している。
「地主ども、農民ども、許さぬ。ああ、許さぬ」
人物は言った。汚れたのどが、空を仰いで、月明かりにぎらついていた。
「許せぬ。おお、ふかや。傷の深や、怨みの深や」
面の下の顔が、犬歯を閃かせたような言葉だった。
あくまでもそれは想像の上だった。
深矢師直の都市伝説としてのうわさ話には、師直が、土地の怪異を退治してのち、感謝され、有力者の娘と婚姻をむすんだとある。
が、十数年後、時勢が変わったという。
あいかわらず面をしたままながら、つつましやかに暮らしていた師直は、突如として夜討ちを受けた。
そのころ、戦乱や小競り合いの戦を避けて、この地に根を下ろしていたのが師直だったが、近くで起きたある戦の際に、本人の知らぬうちに、その存在がほのめかされた。
折りしも、国ざかいを争って、地方の武士が疑心暗鬼の謀略におちいっていたころで、それはもしや何々方の何ではあるまいか、と、落人の疑いがかけられたのである。
当時は、村長が代替わりしたばかりで、この村長は師直への情が薄く、それでも恩顧ある者だからとなかば放っておいていたが、耳ざとく、村に疑いがかかっている、と、聞きつけ、たちまち師直をどうにかするべく、人を集めたという。
村長は、師直にことの真贋を確かめもしなかった。それだけ、当時は緊迫感のある情勢があった。
妻子は助けてやるともちかけ、師直を油断させたのち、大勢で刺して殺してしまった。
息も絶え絶えになった師直が、まだ事きれる手前で、すばやく幼子もくびって殺してしまった。
用済みであるし、妻はともかく、子は残しておけば禍根を残す。
そこまで考えがおよんでいたかどうか、あまりわからないことだったが、村人らはとにかく迅速だった。
それだけ恐怖に駆られていたとも言える。
師直の首は、しかるべきところへ届けられたが、面の下の顔はみにくい傷跡で判別もつかず、これでは検分にならずとして、この一件は落着したという。
妻はそののちも生き残って、ほかの男に嫁がされ、子を生み暮らした。
「ふかや」
と、幼子を殺されたのを目にした直後、師直は、呟いて臨終したという。その呟きは、その場にいた全ての村人の耳にこびりついたという。
そのうち何人かは、数年後、呟きにさいなまれ、「黄色の衣の、男が」と叫びながら、凄絶なありさまで死んでいった。
師直への、落人の疑いが一体、どうであったかはわからない。
とはいえ、土地の救い主の男を薄情非道に殺したことは、土地に生きる者たちに、知らぬふりのできぬ罪悪感となって、残った。
それが深矢師直の、都市伝説じみた噂話だが……正式に伝えられているものでもない。
とまれ、目の前の男は、噂話にあるように絶望していた。深く怨んでいた。
舞台の上で、鞘に納めたままの刀を脇に下げて持ち、芝居の台詞のように、おどろおどろしい声を上げていた。
まるで、演じられるべきはこちらだと言うように。
ゲンコは気づくと、傘を手にしていなかった。
かわりに、両手には弓と、そして矢があった。本物の、実物である和弓。とがった鏃、おぞけをふるうような矢羽、古く傷みのない真っすぐにのびきった箆。よく知りもしないのに、知識が文字とともに浮かんでくる。その矢は、弓道場で手にしたものよりも、真に迫った殺意があり、なまめかしい乾いた古さがある。
ゲンコはゆっくりと矢をかかげ、弓に合わせて、構えてきりきりと、弦を引いた。手が千切れそうになる緊張といい、痛みといい、筋の感触といい、冷たい熱感が身体に満ちていた。それでいて身体全体が機械になったように、全力でつっぱっていた。身体の節は柔軟でもあった。
矢を引く動作は、おぼえていた。おぼろげながら記憶がある。アーチェリー、和弓、ボウガン、コンパウンド・ボウ、剛弓、弾弓という変わり種まで。
弓を引くという動作においては、何千何万とイメージをくりかえした自信はある。実際には、体験することのできないものもあったが。そして、いくらイメージしたところで、実際に引く一動作に込められるものなどたかが知れていることも知っている。それは、引いたことのなかった和弓を引いて失敗していることが結果として示しているし。
それはゲンコの必要としている一動作が、弓を引くことではないからそうなるのだ。
気づくと矢は放たれていた。放たれたと思ったときには、思考を置いて標的を射っていた。黄色い衣の巨漢の頭が、矢を生やしてのけぞった。矢は、頭部に刺さった。
巨漢は、矢をこめかみから、生やしたまま動きを止めた。言葉は止めていなかった。ふかや、ふかや、その呟きが、聞こえもしないのにゲンコの耳を圧した。こびりついた。
くそ、と、小さく呟いてゲンコは耳を押さえた。巨漢は、矢を発したゲンコを黙って視線で射すくめた。
その行為に、矢など必要ないというように。血まみれになった面がずれて落ちた。鏃が、奇跡的な狙いで、面の糸を切ったものらしい。それだけでも、ゲンコはそれが出来たのは自分の腕前などではないと確信した。誰かほかの、もっと修練した、何者かの。あるいは、面の巨漢と同時代を生きたような武芸者が、自分の身体に宿ったのであるような。
耳の痛みを無視して、ゲンコはさらに矢を引いた。矢はどこから出てくるか、わからなかったが、意識すると手にあるのだった。持っていた傘が、弓矢に変化でもしたのだろうか。
ゆっくりと巨漢が歩みだす。矢を生やしたまま、首から上が曲がったまま、手にした太刀をするりと鞘から抜いて。抜く手も見せず、暗闇に白刃をかかげて。
射った。
胸に刺さった。心臓と肺があるところに。
引いて、射った。
矢が刺さった。額の真ん中に、鏃が突きたった。男の顔を、血が流れた。
さらに、射った。
左肩に刺さった。骨が鏃に擦れて、ゲンコの手に不快な手応えを残した。
男はたたらを踏んで、前にのめった。膝を落として、無念そうに地に両膝をついたまま、その場にとどまっている。
「くくくくく」
男は笑った。
そのまま地を舐めた。
男の顔には、醜い傷跡などなかった。
その顔は、ゲンコの見間違いでなければ、あの冨地原治見にそっくりだった。あのいまいち信用が置けないものを感じる、健全な秩序の国という団体の、好感の置ける代表者の。
ゲンコは弓を下げた。
下げる直前、ぐっと、喉になにががつっかえたように、口元あたりをおさえた。
「ゲホッ!! ゲホッ」
とたんに咳がはじけて、ゲンコは身体をくの字に曲げるほど耐えがたい感覚を味わった。のどが焼けるように熱く、なにかが食道を通ってせり上がる。
それでいて、それは吐しゃ物ではなかった。
ゲンコは激しく咳きこんだ。傘は落ち、弓は消え、雨は激しく境内の石畳をたたき続けた。
「はぁ、はぁ」
ゲンコはのどを押さえたまま、咳き込むのをやめて、息をついた。のどにかけていた手を、口にやる。
なにかが口のなかから転げ落ちた。
骨。
白い骨。蛇の。乾かした、小さい。
「はぁ……。……」
ゲンコは、ふらりと立ち上がった。少し息を整えるようにした。
蛇の骨を投げ捨てた。
なんだというのだろう。
巨漢の死骸は、そのままに放っておく。死体のあったところは、おそらく闇があって、雨が降っていて、血の跡もあとかたもなくなっているだろうが、確かめたくもない。




