(57) 新世界より(5)
「目を覚まし、そして、備えろ」
と、だれかがいたわしい声でささやいた。それを聞いて、ゲンコは目を覚ました。
室内は暗かった。それでいて、どこかから、不気味なほのかなうす明かりが入りこんでいた。明かり取り用の窓がどこかにあるらしい。光の調子からして、外はまだ明るい。
棺桶のようになった箱の中だった。身体がこわばっている。感じて、ゲンコは身を起こす……と、自分で思ったが、身体は動かなかった。まずは天井を見、目の動く範囲を見る。部屋の中に気配はない。輪郭がどれもこれも、闇にひと段落ほどかすんでいた。だが、ゲンコの目にはどれも明りょうに見えた。
誰かがそばにいるようだったら、すぐに目をとじる。そのつもりだった。本当なら、開いたことすら悪手だった。
寝たふりをしなければならない。あるいは、気を失って死体のように見えるほど、ぐったりしている。外的要因で、そうなったかのように。
しばらく数を数える。死体のように鼓動は遅い。
なにも起こらず、何も聞こえなかった。
ゲンコは慎重に身を起こし、あとは、あまり慎重すぎない身のこなしをこころがけた。
箱の中にいることはわかっていた。箱は長方形に長く、ひとり分が収まる。が、棺桶にしては汚かった。浴槽のように黒ずみ、水がからからにかわいたように居心地が悪かった。
室内をみまわす。狭く、広すぎない部屋だった。天井はやや低いかもしれない。植物の根のような、干からびたものが何本も壁に這い、室内を中途半端に侵食している。明かり取り用の窓は円いちいさなもので、すぐに見あたった。こぼれるようにまばゆい光の残滓を入れていながら、じっとりと重苦しかった。すがすがしさのかけらもない沈んでいくような息苦しさと、胸のうす寒さがあった。
ゲンコは立ち上がった。
扉があった。近づいてみると、半開きで、なんとも気持ち悪い間隔で開いている。そっと黒ずんだドアノブを触れる。ぬちゃりとした手触りでも返ってくると思ったが、そんなことはない。
あいかわらず、誰の気配もしない。まあ、来るものがなんであろうが……棺桶のような箱のなかには入っていなかったはずだが、いつのまにか、ゲンコの手にはエイブリー、ガットギターの軽々しい胴体がある。ゲンコは素直におどろきつつも、しっかりとたずさえ、少し開いているドアをゆっくりと少し動かした。
ドアはそっと、狭い建物の廊下に続いているのが見えた。何もいない。影が音もなく回るように動いていて、音がしないようにも思える中に、よく聞くとかすかな作動音がしていた。
「……」
ざりっ、と、大きな音がした。姿はない。体感として、廊下の続いている先、右に折れて見えなくなっている先からしているようだった。ほかにもドアが見えたのを確認しながら、ゲンコはドアのすき間を細めた。ざりっ、ざりぃっ、ぐらっ、と、音は廊下を歩き回るようにして、ゆっくりと近づいてくる……ゲンコはほとんど開いているのがわからないようにしながら、ほんのわずかなすき間から廊下の様子を、うかがいつづけた。
呼吸を止めながら、静かに続ける。いつでも、どの方向にも身体が動くように。こわばる指先を、知らず、柔軟にする……。
そのあいだにも廊下の光景は続いており、影がさした。それは大きな影だった。光源がさだかでない廊下の壁に、うっすらと浮かび上がり、物音とともに廊下を這いずっている。足が何本もあるようだった。ぺたぺたと、水っぽい音が混じっていた。なにかを引きずっている、動作のようすを見るに、重いものをずっと。タンスをひっぱるような動き。
音もなく息を吐いた。がたん! ごとごとがたん! と、すさまじい音が鳴った。それは、ゲンコの背後からだった。
ゲンコはすでに糸に指をかけて、ふりむき、音が鳴ったほうを凝視していた。身体の大きななにかが、這い出て倒れるそんな音。見た感じ変化はなく、ゲンコが這い出してきた棺桶のようなもののふちに、人形の手がぶら下がっていた。棺桶の中から這い出してきたようだった。
ゲンコはぶらぶら揺れる手が、なにも起こさないのを見ながら、ドアのすき間から身をはなし、じりじりと後退した。というのは、極限に集中した目が、ドアのわずかすき間を動く影がないのを確認していたからだった。
あの音の主がどのようなものであれ、音が聞こえた以上はこちらに向かってくるように思えた。がたん! と、また音が鳴った。棺桶のほうからだった。
ドアからはなれて、壁を背にする。棺桶からはさっきはみ出していた人形の手が、ゆっくりとふちを掴んで這い出してこようとしていた。それも手の先にあるのは通常の人体ではないらしく、棺桶から大量の木の根とつたのようなものが、ざわざわとゆっくり出てくるようだった。
蠢いている。
ゲンコは糸を引いた。いや、正確には引こうとした。
轟音がした。
なにかを強引に力一杯引き裂くような、生木が次々と折れる音だった。それは頭上からしていた。続いて、ゲンコがさっきまで見ていたドアが、せわしなくドアノブを鳴らした。開けもせず、ノブを何度も何度も回す。がたがたと鳴りひびく音とともに、ドアのすき間から三本の黒い手、よく見ると六本も七本も指がある、がはみ出ている。身体が大きすぎて、ドアにつかえている。
頭上からは、ぱらぱらと建材が落ち、裂け目がすっと引かれるように部屋が開いた。裂け目からは目がのぞき、歯がざんばらに生え散らかった口がわけのわからない歌声を口ずさんでいる。歌は金切り声に変わり、野太い声に変わった。裂け目が大きくなった。ゲンコは弓を引いた。この距離では自分も破裂に巻きこまれるが……はいよってきた太い根が、ゲンコの足の周りを埋める。それを素早く左足で蹴りつぶす。
苦悶のうめきとともに、床がばりばりと崩れだした。「ヌオおおおおお! ヌオ! ヌオッぉぉぉぉぉ! ぐばっ!!」と、ガラスをひっかく音じみた大声が耳を圧する。ゲンコは部屋の入り口に行こうとした。間に合わない。
落下する。床はなにかの重さに耐えかねたように、ゲンコの立っていたところを中心にへこみ崩れた。平衡を失ったゲンコは鳥肌を立てた。身体が、完全に投げ出される無重力の感覚!
すると上からのびたぬるりとしたものが、ゲンコの左腕をとらえた。ゲンコは宙づりになった。腕はばきん、となにかがこわばった感覚とともに、どうにかなったようだった。つづいてつたがのびきて、ゲンコの首や胴にまとめて覆いかぶさった。
骨が折れた。意識が、一瞬で消失していく。フィラメントの灯りが見える。
「このように、お前とは簡単に死ぬものだ」
声が言った。
ゲンコは目を開けた。ぶらぶらと、自分の死体がブランコのようにつながっている感じ。風船のような、悪趣味な。
だらだらと口のはしから、全身の体液が流れ出している。のどの奥にはひり出した内臓が詰まっている。
ゲンコは言った。
「なにがしたいのよ」
答えはない。あざ笑った気配。ゲンコは、ひらききった瞳孔をしぼった。自分の死体の映像以外、なにも見えはしない。触れられもしない。死臭もしない。
「こんなのは、どうせ夢よ」
「答えになっていないさ」
「こんなことをするんなら、さっさと現実の私を殺してみせればいい。死ぬわけにはいかない。だから、やすやすと殺されたりなんかしない」
「そうしてまた被害者ぶる? 悪い子だ」
「私は被害者なんかじゃない! 加害者よ! 私を殺そうとした人たちで私はできている! 苦しめようったって、そうはいかないわ。身体をいじくられるのは慣れているんだから。私よりもひどい人ほどではないにしても!」
「それも自分の責任でやらされたことではないくせに」
「私の責任だ。この仕事をするって決めて自殺もしなかった、私の責任だ。殺されなかった、私の責任だ。これで満足か!」
ゲンコは叫んだ。いつもの酒場だった。むなくそ悪い男の胸ぐらをつかんで叫んでいる。
が、いやに現実感があった。後ろめたさでもあった。知らないあいだに、頭の後ろがスライスされて、そこからうすく切った脳を取りだしただれががいる。調理して、くん製にして、保存してホルマリンの湖に漬ける。湖底には数々のデスマスクが沈みきっている。
「わめくなよ。まあ、座れ」
男は言った。だれかに似ていた。そのだれかに似ているのも、またいつもの目の前にいる誰かの変身なのだろう。そう思いはしたものの、やはり、なにかがちがうのだった。
「被害者だ加害者だって、君は少し立場にこだわりすぎるところがある。立場は重要じゃない。極端になってはいけない」
「なにそれ?」
「さて、よくわからない。言った俺もどうかしているとは思うんだが……」
シエック・クラシーカによく似た男は、眼鏡をおしあげた。ふだん、眼鏡など必要とせず、ただの飾りである仕草になんとも言えないおかしみを感じ、感情がやわらいだ。
タエコ・イソーテという人間のゲンコは、はあ、と吐息をついた。スツールに座りなおす。イギリスのとあるパブだった。時間帯のせいもあってか、マスターもバーテンも、こみいった話をしている二人連れからは離れている。
そもそも、ここはそういう話をしてもいい場所として見定められていた。そこそこ奥まった場所にあり、そこそこに入ってくる人間の身元がはっきりしている。マスターのジェイコブ・ケインはグリニザとつながりのある構成員だった。雇われているバーテンは、とくに口がかたい人間を選んで数年も訳ありの気配を押しつけつつ働かせる。身上調査も動向の監視も、組織でやる。
カウンターのテーブルには、つまみのスープと半パイントのグラス、タエコがよく飲むとっておきのビールが満たされ、しおしおと泡を吐いている。
タエコはよく酒を飲んでいた。パブでのようすは見たこともなかった。それほどの年月が、タエコとゲンコのあいだになかった。
タエコは言った。ゲンコも言う。
「信じられない、私の母さんまでだましたって?」
「君の母親はなにも知らなかったんだ」
「まさか」
ゲンコは言った。組織のやり方がずいぶんえげつないことは知っている。えげつないということは、なるべく多くのやり方を知っていて、その方法を、自分のやりたいことのために使うということだ。
タエコの遺伝情報を取得でき、かつプロジェクトに利用できるものを得るのにタエコを麻酔薬で眠らせることより、母親の心理を利用することを考えた。それが怠惰でえげつない、と、タエコは言う。
もっとも、組織にいる以上、そのことを批判できる立場にない。労働の対価以上に組織からバックアップをうけて、個人的にときどきはいいように利用してきた。このパブのような場所のように。
同類である。とはいえ、同志ではない。
そう、同志。同志とはつまり狂信的であることを指す。グリニザという組織には、必要とされていないものでもある。
「それを一部の科学者は持った。組織のために一線を越えてなにかをしようとした。本来、事務的に行われなければならないのに、一種の科学的な志をもってやった。これが余計でなくて、なによ」
「科学者の悪口はそこまでだ。彼らは同僚だ。同僚の悪口を言う性根には、戸を立てる必要がある」
「ええ、そうね。あなたは冷静だわ。ジョーンズ」
「符牒で呼びなさい」
「失礼しました」
ジョーンズとよばれたクラシーカ――話の流れから言うと、それは本名のようだ。ゲンコは知らなかった――は、グラスに口をつけた。強い酒の気配が顔にさす。
「酔っているんですか、クラシーカ」
「私は酒には弱い。ビール一杯でも、相手をどうにかしてやろうという気が失せる」
「あなたのそれが組織のだれもかれも、怖いんだもの」
「組織というのは、職場であり、職場でない。法や国家まで軽々とびこえるのが組織という人間の集まりなんだ」
「制裁は必要だと思う」
「おい、考えるなよ」
「わかった。あなたはもっと情報を集めてください。そのうえで、なにができるか判断します。実行もね。考えることではないから」
「意地悪な言い方だ」
「それだけ怒っているのよ。面目をつぶされ、何もできなかったさんざんなあなたと同じくらいには」
タエコはグラスを空にすると、小気味よい動作でマスターに支払いを置いて席を立った。クラシーカはこのあとも飲んでいる。
クラシーカとタエコには年の差があまりなく、こうして飲む機会のあるあいだがらだとは、ゲンコは知らなかった。組織の人間のなかではジョーンズ・ケイパーが、タエコと恋愛関係にあるとゲンコは思っていた。愛想がよくそこそこに若く、よく家に来ていたからだが。そのケイパーもいまは特殊行方不明指定となっている。
なににせよ、このあとほどなくしてタエコはゲンコを引き取りにあらわれた。
ISE事案、とかイソーテプロジェクトとか、秘匿性からころころと呼び名が変わるこの計画は、ひとえに科学者の善意的な使命感だった。彼らはただエイブリーをあつかえる仕組みを形作ろうとしただけで、それはいままでより思いきっていて、当然考えられるべきもの、人為的に操作してエイブリーの所有者となる人間を安定して生み出していくという名目で行われたものだった。
当時、科学的に最先端、と表向きにも言われるほどだった「クローン技術理論の植物以外、つまりは人間などへの適用」が、その方法として選ばれたが、いまだ、理性的な科学者のあつまりがこの暴挙におよんだ理由にはっきりしたものはのべられていない。
本来、実行にうつす段階にすらいたらず破棄されるものである。ただ、当時いっこうにノウハウが蓄積しない外宇宙の神々、というか怪物の駆除作業はその作業にたずさわる技術畑の人間に閉塞感といらだちを与えていたこと。
いよいよ発展する科学技術の前に、選択肢が広がって提示され、科学者が口実と使命的興奮の前に盲目になったこと。
また、彼らはエイブリーをあつかい、それなりに解析ができ、それらを自由にできると勘違いを覚える環境にあったこと。
超技術、超科学への憧れと探究心、野心、悪くいえば嫉妬があったこと。
一九七九年、さまざまな準備段階をへて、この人体実験は実行にうつされた。
実験の過程で六人の新生児が誕生し、その後はのちの記録にあるとおり、そのうち五人が数年のうちに死亡、計画は半端なまま途絶し、残った一名は経過実験観察のために隔離延命。
途中、遺伝子異常にともなうと見られる左脚の壊死が起こったため、生後三年のころ切断。
すべては隠ぺいされ、累計、十二年の時が経過する。
失敗するべくして起こった失敗だった。
「そのとおりでいけば、君は月なみに言って失敗作の実験体ということになる……」
「失敗ではないわ」
ゲンコは答えた。ゲンコの前には面会部屋に入った痩せっぽちの十二歳の自分が座っている。
顔がなかった。黒黒としたゆがんだなにかで、目も鼻も判別がつかない。
ゲンコはタエコだった。声は、十二歳の自分から聞こえてくる。そう、失敗ではない。
部分的には成功していた。微量ながらタエコ・イソーテの特殊な素養はゲンコに発現していた。およそ素養とよべるほどではなかったが、また、容姿はタエコ・イソーテに似た。これもクローン技術理論の人間への転用という、主題のひとつには沿っていた。
望む結果が得られなかったから、すべて失敗と断じるほど科学者は愚かではないし、人間も同様である。失敗したのは、あくまで計画そのものだった。
「そのため君は科学者も、科学も、加害者たちも憎んでいる?」
「憎んでいるわよ。そりゃそうでしょ」
「それは嘘だ」
声は言った。男のようにも自分自身の声のようにも聞こえた。
「以前はたしかにあった。あきらめすら覚えない状況では、憎しみすら君は抱かなかった。なので、タエコ・イソーテと暮らしたわずかなあいだ、その暮らしが終わってしまったころ少し、そのあいだ、正確にはなにもかもを憎んでいた。憎しみという感情は、発現することさえときに幸福であるという」
「私は」
「だが、いまは? 憎んでいる? いいや、憎んではいない。だが、憎しみが去ったのではない。君は憎しみを越えられなかったが、あきらめることはできた。あきらめることができるということは、かわりとなる理由ができることだ。今の君には理由がある。おそろしく、ネガティブな理由が。そして自然な帰結が」




