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017

「オチンチン……僕のオチンチン……」

 大江は個室の便座に腰かけてうなだれる。いや、おのれのオチンチンを見つめている。

 彼は仮性包茎であり、勃起すれば自然にめくれるのだが、通常時は基本的に皮が被っている。愛しい彼女はカワイイと言ってくれるかもしれないが、それでは彼のプライドが許さない。かといって、勃起しているところを見せるワケにもいかないので、何とか平常時のまま皮がむけた状態で維持できないか悪戦苦闘している。

 もしおのれが〈ヘッジ〉であったなら、こんなくだらないコトで悩む必要もなかったのだろうか――。いや、遺伝子操作と包茎は関係ないハズだ。幼いころ人形相手にムチャな自慰をしすぎただけだ。

「……僕はいったい何をしているんだろう?」

 あまりにおかしくて、笑いが込み上げてくる。恋は盲目とよく言ったものだが、こうして実際自分が恋してみるまで、実感できていなかった。

 もはや何も見えない。彼の愛しいガラテア以外には。

 人形との会話というのも、実際試してみるとなかなかオツなものだ。表情がピクリとも動かないので、頭で何を考えているのか、心で何を感じているのか、見ただけではサッパリわからない。言葉を尽くして語り合わなければ、何も理解できない。

 それはとても骨の折れる作業で、非効率きわまりないが、パズルのピースをひとつずつ組み合わせて、徐々に絵が完成していくときのような楽しさがある。そしておたがいの心も近づき、かみ合っていく心地よさ。無上の喜び。

 彼女となら、上手くやっていけるかもしれない。彼女こそがガラテアだ。アフロディーテがあわれに思って、人形に命を吹き込んでくれたのだ。もうこれ以上、出来損ないの粗悪品を乱造する必要もない。彼女を花嫁に迎えられたならば。

 だがそのためには、彼女にオチンチンを見せなければならない。何を思って彼女がそんな要求を告げたのか、その無表情ゆえ大江には皆目見当もつかなかったが、見せなければ付き合ってくれないというのならば、しかたがない。見せてやろうではないか。それにいいかげん覚悟を決めないと、ゼミに遅刻してしまう。

 平坂とセックスする光景と、快感むき出しであえぐAV女優を交互にイメージしながら、おのれのオチンチンを皮がむけた適度な半勃起状態に保つ。

「――よし、まァこんなもんでいいか」

 少々かさばるオチンチンをパンツのなかへ押し込む。カモフラージュで水洗を流して、個室の外へ出ると、ガラの悪い男が青い顔で待ちかまえていた。

「おいクソッタレ! こっちがガチでヤバイってのに、ガチでクソッタレやがって。何度もノックしただろうが。気づかなかったとは言わせねえぞ。あァン?」

「それはどうもゴメンナサイ。もう終わりましたから、どうそごゆっくり」

「ゴメンで済んだら探偵はいらねえんだよクソッタレ! ギリギリ間に合ったからいいものの、そうじゃなかったらクソッタレだったぜ」

 だったら無駄口たたいてないでさっさと入れよ――大江はのどもとまで出かかった罵倒を呑み込んだ。こんなクソッタレにかまっているばあいではない。ガラテアが待っているのだ。彼のオチンチンがご開帳されるのを。

「ホントすみませんでした」大江は脇をすり抜けて逃げようとするが、男が壁に強くドンと手を突いて、彼の行く手をさえぎってくる。

「まだ話は終わってねえ。いいかクソッタレ、オレ様は心がワイドだから許してやる。てめえがチャント誠意ってヤツを見せればな」

「誠意?」この男、よく誠意なんて難しい言葉を知っていたなと大江はなかば本気で感心した。

「そう、誠意だよ誠意。誠意ってわかるかクソッタレ? 最近のガキはボキャブラリーがガチでヤバイからな。まァようするに、だ」

 男は得意げに語ると、大江に1枚の紙切れを押しつけて来た。それはこの店の伝票だった。どうやらかなりの額を飲み食いしたらしい。

 近ごろは、ほとんどの人間が〈M.I.N.O.S.〉に登録してミダスコインを利用しており、日常的に現金やカードを所持していない。したがって古式ゆかしいカツアゲは通用しないので、このように支払いを強要させるのだ――もっとも大江は〈M.I.N.O.S.〉に登録していないので、昔ながらのサイフを持ち歩いているのだが。

 当然、男がトイレをガマンしていたというのもウソに違いない。迫真の演技だったが、イマドキの若者はあのくらいたやすくやってのける。

「ホラ、どうした? プレゼント・フォー・ユーだぜ。さっさと受け取れよクソッタレ。あんまなめてっとおにおこだぜ。オレは怒るとガチでヤバイんだぜ」

 大江は深々とため息をついた。まったく、うっとうしい男だ。こんな手合いを相手にしている時間はないというのに。彼女が、ガラテアが待っているのだ。

「“どちらがりっぱな生き方か、このまま心のうちに暴虐な運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、それとも寄せくる怒涛の苦難に敢然と立ちむかい、闘ってそれに終止符をうつことか……”」

「あァ? なにワケのわからねえコトをゴチャゴチャぬかしてやが――」

 大江は隠し持っていた十手で、男のノドをを容赦なく突いた。不意討ちを急所にくらって男が悶絶しているところへ、追い撃ちをかけるように脳天を殴って気絶させる。自動車工場の流れ作業がごとき、あざやかな手並み。上手くいくか不安だったが、実行してみれば何のコトはなかった。

 意識を失った男を掃除用具入れに押し込み、奪った靴ヒモで扉を縛りつけた。これでしばらく誰にも気づかれないし、目が覚めてもすぐには出られない。必要な時間が稼げるハズだ。大江が彼女にオチンチンを見せるには充分な時間が。

 だが、大江が足早に、ズボンのチャックを下ろしながらテーブルを戻ると、そこに愛しのガラテア――平坂の姿はなくなっていた。

 トイレは男女兼用の個室と洗面所しかないので、入れ違いになった可能性はない。

 まさか、彼があまりに戻るのが遅いから、あきれて帰ってしまったのだろうか。彼にはオチンチンを見せる度胸がないと。しょせん口先だけで、彼女への愛はその程度なのだと。見限られてしまったのではあるまいか。

 いや、まだあきらめるのは早い。今ならまだ追いかければ間に合うかもしれない。外にはめまいがするほど人々であふれ返っているが、愛の力できっと見つけ出せるハズ――。

 と、駆け出そうとした大江の目に、足下の床に落ちていた紙ナプキンが目に留まった。どうやらテーブルの上から飛ばされたらしい。

 そこには平坂からのメッセージと、彼女の連絡先が記されていた。『やっぱりオチンチンはまた今度でいいわ』

「今度……今度かァ……」

 コレは脈アリと思ってよいのではないだろうか――大江は拳を強く握ってガッツポーズした。

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