07 56歳 ホムステッドの悲劇
一八九一年。ニューヨークの街角に、後に世界の音楽史を塗り替えることになる壮麗な殿堂「カーネギー・ホール」が開館した。
この建設の発端は、四年前に遡る。イギリスへと向かう新婚旅行の船中、アンドリューは若き指揮者ウォルター・ダムロッシュと出会った。音楽を深く愛する新妻ルイーズとダムロッシュから、「ニューヨークには音楽を真に楽しめる一流のホールがない」という嘆きを聞かされたアンドリューは、その場で建設を約束する。
それは、後年の彼が見せる「慈善家」としての崇高な理念というよりは、最愛の妻への至上のプレゼントであり、彼女がニューヨークの社交界で最も美しく輝ける舞台を用意したいという、私生活の幸福と野心が入り混じった情熱の産物であった。
今日、このホールは知名度において「カーネギーの慈善活動」の頂点に君臨している。一般の人々が「カーネギー」という名から真っ先に連想するのは、全米に広がる図書館でも平和基金でもなく、間違いなくこのニューヨークの聖地であろう。
チャイコフスキーがこけら落としで指揮を執り、後にはビートルズまでもがその舞台に立った。このホールはもはや一人の富豪の寄付という枠を超え、人類の至宝、世界の文化遺産としてその名を轟かせている。
しかし、歴史は残酷な対比を用意していた。
この時、シャンデリアの輝きの下で喝采を浴びていたアンドリューは知る由もなかった。この「聖地」こそが、一点の曇りもない「成功した大富豪による純粋な文化貢献」として、世間から手放しで賞賛される最後の慈善活動になろうとは。
◇
その頃、ホムステッド鉄工所には、当時最新鋭の「平炉」が導入されていた。しかし、熟練労働者を中心とした組合が、旧態依然とした作業ルールと高賃金を維持しようとしたため、機械化による生産性の向上は事実上、阻まれていた。
一八九二年の契約更新を前に、アンドリュー・カーネギーとヘンリー・クレイ・フリックは、「組合を排除しなければ、この巨額投資をした最新鋭工場は宝の持ち腐れになる」という共通認識を強めていた。
このとき、アンドリューはスコットランドの別荘へ旅立つ準備を進めていた。彼は出発前、実務を託すフリックへ宛てて、次のような趣旨の手紙を残している。
「我々の決意は固い。一歩も引いてはならない。君が戦っている間、私は君を全面的に支持する。たとえ工場がどれほどの期間閉鎖されようとも、私は構わない」
この手紙は、フリックにとって「主君からの白紙委任状」となった。彼はこれを受け、「今度こそ、カーネギーの妥協に邪魔されることなく、自分のやり方で組合を粉砕できる」と確信したのである。
フリックはホムステッド鉄工所の労働組合に対し、大幅な賃金カットと組合の解体を突きつけた。
一八九二年六月三十日、交渉は決裂する。
フリックは交渉決裂と同時に、あらかじめ緻密に練り上げていた計画を電光石火で実行に移した。ホムステッド鉄工所の周囲約四・八キロメートルにわたって、高さ三メートル以上の板塀を建設。その上部には鋭い刺鉄線を張り巡らせ、ライフル銃用の「のぞき穴」まで設けた。
労働者たちは、鋼鉄の城壁と化したその姿を、畏怖と憎悪を込めて「要塞フリック」と呼んだ。
対する労働組合(アマルガメーテッド協会)も黙ってはいなかった。「自分たちが汗を流し、築き上げてきた工場を奪わせはしない」と宣言。彼らは工場へ通じるすべての道を封鎖し、蒸気船をチャーターして川をパトロールする「独自の軍隊」のような組織を作り上げた。二十四時間体制の監視網が敷かれ、ホムステッドの町は一触即発の緊張感に包まれていった。
◇
一八九二年七月六日、フリックは工場の奪還を目指す。
フリックは陸路からの進入は不可能と判断し、川からの「奇襲」を画策する。彼は私設軍隊として悪名高い「ピンカートン探偵社」の警備員三百人を雇い入れ、鋼鉄の板で補強された二隻の平底船に潜伏させた。
深夜二時、船はピッツバーグの数マイル下流から密かに出航した。狙いは、労働者たちが寝静まった夜明け前に工場の桟橋へ接岸し、一気に敷地を占拠することであった。
だが、組合側の監視網は完璧だった。川を下る不審な船の動きは即座に察知され、ホムステッドの町には警告の汽笛が激しく鳴り響いた。
船が工場の桟橋に近づいた時、そこには数千人の労働者、そして夫や父を守ろうとする女性や子供たちが黒山の人だかりとなって待ち構えていた。夜明けの霧の中、船からタラップが降ろされ、ピンカートンの隊員が上陸しようとしたその時――。
どちらからともなく、一発の銃声が響いた。この「最初の一発」が、十四時間に及ぶ地獄の始まりとなったのである。
上陸を阻止された隊員たちは船内へと逃げ込んだが、岸を包囲した労働者たちとの間で激しい銃撃戦が展開された。労働者たちは工場にあった古い大砲を引っ張り出し、さらには船を焼き払おうと石油を川に流して火を放ち、ダイナマイトまで投げ込んだ。
真夏の酷暑と負傷者の血の海。船内は文字通りの阿鼻叫喚となり、午後五時、ついにピンカートン隊は白旗を掲げて降伏した。
しかし、降伏した隊員たちを待っていたのは、さらなる地獄であった。武器を取り上げられ、工場から町の広場まで連行される際、激昂した群衆――特に労働者の妻たち――から石や棍棒による凄惨な暴行を受けたのである。
この日の戦闘で労働者側九人、ピンカートン側三人が命を落とし、数百人が重軽傷を負う惨事となった。
◇
なぜ、これほどまでに事態は激化したのか。
この一週間の動乱が凄惨を極めたのは、それが単なる賃金交渉の決裂ではなく、「工場の所有権は誰にあるのか」という、相容れない思想の衝突だったからである。
フリックの主張は明確だった。
「工場は資本家の私有財産であり、経営者は誰を雇おうが自由だ。労働者は、必要に応じて取り替え可能な部品に過ぎない」
対する労働者たちは、一歩も引かなかった。
「長年ここで汗を流し、この街を支えてきた我々には、この場所を守り、働き続ける権利がある。工場はコミュニティの共有財産なのだ」
この深い溝を埋める術はなく、翌七月十二日、ペンシルベニア州知事が八千五百人の州兵を派遣し、ホムステッドを武力占領するまで、狂気とも言える混沌は続いた。
その頃、スコットランドの別荘で「平和主義者」の顔を保っていたアンドリューは、この事件によって「労働者を搾取する冷酷な資本家」という全米からの猛烈な批判に晒されることになる。
しかし、アンドリューは、この惨劇に対して「自分に直接の責任はない」というスタンスを頑なに崩さなかった。
「私は大西洋の向こう側にいて、現地の詳細を知らされていなかったのだ」
「フリックが私設軍隊を投入し、銃撃戦にまで至るなど夢にも思わなかった」
「フリックのやり方はあまりに冷酷だ。私があの場にいれば、対話によってこの悲劇は絶対に避けられたはずだ」
彼は、自らの手に付いた泥をすべてフリックに擦り付けたのである。
さらに、
「私はかつて貧しい少年工だった。だから彼らの痛みは誰よりも理解している。悪いのは一部の過激な組合幹部と、彼らを煽った世論だ」
そう語り、自分は一貫して労働者の味方であるという虚像を守り抜こうとした。
だが、フリックもまた、黙ってその罪を背負い続けるような男ではなかった。
「アンドリュー、綺麗事を言うな。組合を叩き潰せと暗黙の了解を出したのは誰だ? 君がスコットランドの湖畔で優雅に静養している間、君の代わりに泥をかぶり、手を血に染めたのはこの私だ」
この拭い去れぬ不信感が、のちの二人の決定的な決別へと繋がっていくことになる。
◇
どれほど言い訳を重ね、他者を責めても、アンドリューの心からホムステッドの影が消えることはなかった。
かつて三十三歳の時に誓った「金儲けに執着するのは卑しい」という自戒の念は、ホムステッドの流血を経て、「血に汚れた富に対する強烈な罪悪感」へと決定的な変貌を遂げた。
これが、晩年に全財産の九割――現在の価値にして数兆円規模――を社会に還元する、異次元の慈善活動への最大の原動力となったのである。彼は世界中に図書館を建設し、平和基金を設立した。カネを配ることで、自らの魂を救済しようとする「贖罪」の旅であった。
だが、どれほど黄金を社会に還そうとも、ホムステッドの河原に流れた一滴の血の重みだけは、彼の心から、ついに洗い流すことができなかったのである。




